第19話 悪役令嬢と変態の落書き
放課後にベルトロット邸を訪ねてくるのが日課になっていたルチアが、いつもの時間を大幅に過ぎても訪れない。
もう来ないのではないかと思い始めていた頃、使用人に彼女の来訪を告げられ、シルヴィオは安堵と喜びと共に玄関へ駆けだした。
侍女らの手で扉が開かれ、ルチアの姿が見えると、いよいよ嬉しくなったシルヴィオは、飼い犬よろしくルチアに駆け寄って飛びつかんばかりに近づいた。
「ルチア様!」
「お邪魔致しますわ」
そんな幼稚な出迎えにまんざらでもないという微笑を浮かべながら、ルチアは上品に礼をする。
「お待ちしておりました、ルチア様」
なりふり構わず破顔して纏わりつくシルヴィオの腕に、ルチアはすっと自分の腕を絡めた。
そうされて我に返ったように、シルヴィオはきちんとルチアを紳士的にエスコートするのだった。
「奥へどうぞ。すぐにお茶の準備をさせますので」
シルヴィオが侍女に目配せすれば、彼女らは全て心得たといったふうに無言で礼をして、ルチアをもてなすために動き回る。
「お腹が空いたわ」
甘えるように小声でシルヴィオの耳元にそう告げたかと思うと、ルチアはほんの一瞬柔らかくその耳朶に接吻を贈った。
「る、ルチア様っ!」
真っ赤になって慌てるシルヴィオを、ルチアは悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げる。
「ふふっ。美味しそうだったから、つい」
ルチアはいつになく上機嫌である。
何か良いことでもあったのであろうかと、シルヴィオまで嬉しくなって微笑んだ。
「何かあったんですか?」
「ええ。座って落ち着いたら、ちゃんと話すわ」
言いながら、腕を組んだままでルチアはシルヴィオの肩に凭れかかるように頬をすり寄せた。
妙に甘えたがるルチアが愛しくてたまらず、シルヴィオは頬をくすぐるプラチナブロンドの髪の香りを、思い切り吸い込んだ。
そんなことをしたくらいでは、ルチアは怒らない。
彼女はシルヴィオの変態行為に対し、信じられないほどに寛容だ。
「シルヴィオ様ったら、そんなに私の髪が好き?」
「はい。大好きです」
「まあ。髪に嫉妬しそうだわ」
「ルチア様の御髪だからですよ?」
「だったら仕方がないわね」
そんなバカップルなやり取りをしながら、彼らは客間のソファに並んで腰かける。
テーブルの上にはあっという間に紅茶と菓子が並び、使用人たちは気配を消して壁際に控える。
「ねえ、シルヴィオ様」
「はい、ルチア様」
「大切な報告があるの」
そう言って翡翠色の瞳でじっと見つめられ、シルヴィオはその只ならぬ真剣な気配に緊張してゴクリと唾を飲み込んだ。
女性がこんな表情で見つめて来るということは、まさか妊娠――ということは、あり得ない。
どこかで間違いが起こっていなければ、結婚するまではお互い清いままのはずである。
少なくとも、シルヴィオは間違いを犯してはいない。
「明日から、お昼も帰りもまたご一緒できるようになったのよ」
ルチアの細く白い指先が、ポケットから紙片を取り出してシルヴィオに差し出した。
渡されるままに受け取り、折りたたまれていたそれを恐る恐る広げて、シルヴィオはさっと青ざめた。
それは、ルチアにどうしても見られたくないと思い続け、その存在を知られることをずっと恐れていたものだったのである。
「こ……れは…」
掠れた声を発したシルヴィオは、震えている。
こんなものを見られて、嫌われていないとは思えないのだ。
ほんの出来心だった。
結婚したら、ルチアとあんなことやこんなことを――と、授業中にも拘わらず、シルヴィオはその日妄想が止まらなくなっていた。
その妄想は徐々にエスカレートし、度の過ぎた変態行為にまで及ぶ。
しかしそんなことを実際にルチアに要求すれば、嫌われて愛想を尽かされるに決まっている。
だから彼は、現実ではできないそれを、ノートの端に落書きとして描いた。
無駄に画力があったために、それは誰が見てもルチアとシルヴィオだとわかる、非常に生々しくマニアックな春画になってしまった。
それは絶対に他人に見せたくない、とんでもない出来栄えであった。
スタイル抜群のルチアの身体の細部まで、艶めかしく描かれている。
勿論彼女の服の下はまだ見たことがないのだが、その絵はまるで見たものを写し取ったようにリアルである。
怯えながらルチアを見遣る。
怒りもせず、彼女は優しい瞳でシルヴィオを見ている。
シルヴィオにはその真意がわからず、不自然なほどに穏やかな態度に何かあるのではと、勘ぐってしまう。
「あの…、怒らないんですか?その、こんなものを、描いていたのに…。嫌いに、なっていませんか…?」
ガタガタと音を発てて震えながら、シルヴィオはルチアに問いかけた。
すると彼女は、悲し気に眉尻を下げる。
その表情に心臓がどくりと跳ねて、嫌な緊張が走る。
ルチアの口が開かれていくのがスローモーションに見えた。
その口が言葉を発すれば、彼はきっと振られるのだろうと、そんな予想をしてシルヴィオはぎゅっと目を閉じた。
「シルヴィオ様ったら、私のことを信じてくれないのね」
しかし聞こえてきたのは、予想とは全く違う言葉である。
「男のプライドというものがあることくらいは、わかっているつもりよ。だから、これを見てしまったことについては、ごめんなさい」
ルチアの瞳に、嫌悪の色は浮かんでいない。
それだけでも奇跡のようなのに、彼女はシルヴィオのことを気遣ってさえいる。
「でもね、私がシルヴィオ様のことを嫌いになるかもしれないだなんて、そんな心配をされると悲しくなるわ」
そう言って穏やかにシルヴィオの手を取った彼女が、彼には聖母のように見えた。
「私ね、シルヴィオ様がドSじゃなくてよかったって、心から思うのよ」
徐に頬を染めて、ルチアが恥ずかし気に目を逸らす。
その視線の先には、シルヴィオが描いた彼らの睦み合っている姿がある。
「だって、これが逆だったら、ちょっと大変だわ」
「えっ…?」
「でも、こっち側なら、その…私、頑張るわ?」
「え、あ、あの……。ええっ!?」
「シルヴィオ様は、私とこういうことがしたいんでしょう?」
「そ、それはそのっ!そ、そ、そうですけど!でも、実際になんて…」
「勿論結婚してからよ?もう少し我慢していてね」
どくどくとシルヴィオの心臓が早鐘を打つ。
真っ赤にのぼせ上って、間抜けに口をパクパクとさせてしまった。
ルチアは上品な顔をして、なんということを言うのだろうか。
これは自分の願望が形作った夢なのではないかと、シルヴィオは自分の太腿を抓ってみるが、確かな痛みが現実だと伝えて来る。
「でも、できれば初めての時は…普通に、優しくしてほしいわ」
もじもじと恥じらいながら、ルチアが上目遣いにシルヴィオを見上げて言う。
きっと嫌われただろうと、少なくとも怒られるだろうと思っていたのに、この状況はまるでご褒美である。
「それは、勿論です!」
上ずった声で答えながら、シルヴィオはそっと優しくルチアの背に腕を回して、抱き締めるというには優しすぎる力で彼女を腕の中に閉じ込めた。
「ルチア様は…どうして怒らないんですか?」
「あら。ここに描かれていたのが他の女性だったら、怒ったわよ?」
「むしろぼくがルチア様でこんな妄想をしていることに、腹が立たないんですか…?」
「あなたの相手は妄想の中だって私じゃなきゃ嫌よ。他の誰かで妄想したら、浮気よ?」
そう言って真剣な眼差しを向けて来るルチアがあまりに愛しくて、シルヴィオは我慢できずに彼女を強く抱き寄せた。
ここは二人きりではないのだが、最早彼らの仲睦まじさはベルトロット家の使用人たちには知れ渡っているので、もう構わない。
「他の誰かなんて、思い浮かびもしません。いつだってぼくの頭はルチア様でいっぱいです」
嬉し気に抱き締め返して、ルチアはシルヴィオの胸に顔を埋めた。
「大好き」
たまらず零れ落ちたようなそのルチアの呟きに、シルヴィオはうっとりと幸福に包まれる。
「守ってくれてありがとう」
続いて紡がれた言葉の意味が、シルヴィオにはわからなかった。
「…何のことですか?」
「だって、この絵が貼り出されでもしてしまったら、私も恥ずかしい思いをしていたもの。あなたはそうならないように、身体を張って私を守ってくれていたのでしょう?」
確かにナナミは、これを掲示板に貼り付けてやると言って脅していたし、シルヴィオはそれだけは避けなければならないと必死だった。
しかしそれは、ルチアのためというよりは、シルヴィオ自身のためだった。
「それは買い被り過ぎです。ぼくの妄想とはいえ、ルチア様のこんな姿を他の誰かに見られるのは嫌だと思ったのは、ぼく自身ですし…。何よりルチア様に嫌われたくなくて、自分のことで精一杯で、ルチア様を守るためだったなんて偉そうなこと、とても言えません」
ルチアは気遣ってくれたが、男のプライドを保つことより、今は彼女の前で正直でいたかった。
格好悪いところばかり、ルチアに見せてしまっている。
そんな彼をも受け入れてくれるルチアに、見栄を張るより誠実に接したいと思った。
「それに、この身体はルチア様のものなのに、傷つけさせてしまってごめんなさい」
火傷の痕のことを、シルヴィオは今になって謝る。
するとそのうなじを、ルチアの細い指先が優しく撫でた。
「あなたを守れなかったのは私のほうだわ。もっと早く気づいてあげられなくて、ごめんなさい。あんな女に好き勝手させていたなんて…」
「そういえば、ルチア様。これをどうやって、取り戻してくださったんですか?」
ふっと、ルチアの美貌に不敵な笑みが浮かぶ。
突然悪役のような表情を見せた婚約者に、シルヴィオは僅かに身構えた。
「ちょっと取引をしただけよ。もう何の心配もいらないわ。二度とあなたに近づかないよう釘を刺しておいたし」
ルチアの口角が酷薄に吊り上がる。
その表情は、先程までの甘さとは打って変わって、冷ややかだった。
「そんなことより」
一瞬で表情を戻したルチアは、もうこの話題は終わりという有無を言わせぬ雰囲気を醸し出していた。
シルヴィオはそれ以上何も言えずに、ルチアの次の言葉を待つ。
「明日の昼食は何がいい?私、張り切って手作りするわ」
甘えるように擦り寄りながら、ルチアが問いかける。
そこにはもう、一瞬垣間見た悪役の気配は無い。
蕩けるように微笑む彼女を見ていると、あの冷酷さは幻だったかとさえ思えてくる。
「ルチア様の手作りだなんて、ぼく、幸せできっと死んでしまいます」
「死なせないわよ!?」
ここにいるのは、もうただのバカップルである。
シルヴィオにしても、取り戻した平和と幸福に嫌な記憶なんて埋めて、甘い時間を享受していたかった。
二章第十九話をお読み下さり、ありがとうございます!
ルチアが愛したのは変態紳士…それでも彼女は幸せになりたいのです(笑)
今後も彼女たちの奮闘を見守って頂けますと、とても嬉しいです!




