第16話 転生悪役令嬢の切り札
ルチアにはまだ、切り札がひとつ足りなかった。
そしてそれを手に入れる手立ては既に考えてある。
しかしそれは、彼女にとって諸刃の剣なのである。手に入れて使いこなせれば強力だが、彼女自身の心の強さが試されるものでもある。
カルロ・メルカダンテは、ナナミを屈服させる切り札になるだろう。
そして、記憶を覚醒してルチアに負い目のある彼ならば、彼女の協力依頼を断るとは考えづらい。
けれど本心を言うならば、ルチアは彼に二度と関わりたくなかった。
彼は前世でルチアにトラウマを植え付けた張本人なのだ。
(しっかりするのよルチア。利用できるものは何でもするのよ。そういう生き方をするって決めたじゃない)
転生悪役令嬢の品格とでも言うべきか。
ルチアは綺麗事だけでは掴みとれない幸福を、どんな手段を用いても手にすると己に誓っている。
正しく生きたのに幸せになれなかったなんて、泣き言を言っても何も手に入りはしないのだ。
(強く生きるのよ。もう泣き寝入りはしない。あんな男、怖くないわ)
それが前世のルチアの心をズタボロに傷つけた男でも、怯えている場合ではない。ルチアには守るべきものがある。
大切な人と、今度こそ幸福な未来が。
僅かに震える足を叱咤して動かした。
カルロに話があると言って、放課後に会う約束を取り付けてあるのだ。
快諾した彼がルチアを前世の名で呼んだ時には、前世の悪夢が蘇って叫び出したい衝動に駆られた。
しかしどうにか公爵令嬢の仮面を被り通し、ルチアはその場では何でもないように振る舞ったのだった。
(今更、愛しくも憎くも無い相手に、何を感じる必要もないわ。あの男には私の駒になってもらうのよ。情の無い相手を利用したって心は痛まないわ)
自分は悪役令嬢ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントであると、心に言い聞かせながら。
ルチアは数学準備室の扉をノックした。
「どうぞ」
扉の向こうでする声に、ノブを回す手が震えた。
(しっかりするのよルチア! あの男に心を弄ばれた屑みたいな前世なんて、今更どうでもいいじゃない! 私にはシルヴィオ様がいるわ!)
その恐怖は、条件反射的なものだった。
何がどうなるから怖いといった、筋道の立った根拠に基づく恐れではない。
ただその存在が、ルチアが人として最低限の矜持を保つことを過去に脅かしたために、脅威として心の奥底に刻み込まれているというだけなのだ。
「失礼致します」
準備室へ入って淑女らしく礼をしたルチアを、カルロは笑顔で迎えた。
「どうぞ、掛けてください」
ルチアは、勧められた席に素直に腰を下ろす。
彼女の内心は既に不安と葛藤で穏やかではなかったが、そんな様子は微塵も表に出さずに公爵令嬢の仮面を貼り付けている。
これから手駒にしようという相手に、侮られるわけにはいかない。
「ずっと話がしたかったんです。…キョウコさん」
カルロに前世の名前で呼ばれ、ルチアは不快気に眉を顰めた。
「そんな女はもう死んだわ」
静かに、冷徹な声でルチアはただ事実を告げる。
「私は、ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントですわ。メルカダンテ先生」
彼のことを二度と前世の名で呼ぶことはないと言わんばかりに、ルチアはカルロの今の名を強調してゆっくりはっきりと発音した。
「…そうですね。それでも――」
しかしカルロは、まだ食い下がろうとする。
「貴女にも記憶がおありのようです。そして僕たちは生まれ変わってもう一度出会った。これはきっと運命――」
「運命が聞いて呆れますわね」
熱弁しようとするカルロを遮って、ルチアは鼻で笑って見せた。
「詐欺師が何をおっしゃいますの?…あら失礼。それは前世のお話でしたわね」
冷ややかに侮蔑の眼差しを投げて、ルチアはカルロがこの程度では怒りださないことを確認していた。
申し訳なさそうに俯いたカルロを見て、僅かに口角を上げる。
(こんなことを言われても言い返さないってことは、やっぱり負い目を感じているんだわ。利用させてもらうわよ、今度は私がね)
わざとらしいくらいに、悪役らしい思考をする。
そうすることで、トラウマを前にしてもルチアは自分を保つことができた。
「どうお詫びしても、し尽くせません。僕は何と罵られても仕方のないことをしました。ですがどうか、教えて頂けませんか?」
自首したことはニュース番組で見て知っていたが、このしおらしさはルチアには不気味に思えた。
過去の、それも前世のこととはいえ、彼は何人もの女性の人生を台無しにしてきた結婚詐欺師だったのである。
前世のルチアのことも上手く手玉に取っていたつもりであったのだろうと思えば、今でも腹立たしさが湧き上がってくる。
「キョウコさんは、あの後…良い人を見つけて幸せになれましたか?」
ルチアは一切の表情を消してしばし押し黙った。
静かに凍るような怒りに支配され、口も開けなかったのだ。
誰のせいで――その言葉を腹の奥底へ飲み込んで、再熱しそうになる憎しみを抑える。
「一人で死んだわ。あれから誰も好きになれなかった」
教えてやる義理などないと思いながらも、ルチアは事実を告げた。
そうすることで、この男の中にある罪悪感を増幅させようというのが狙いである。
ルチアはカルロを手駒として、ナナミに有利な取引を持ち掛けたいのだ。
そのためなら、前世の自分の生涯そのものだって、何だって利用する。
「そんな、まるで未亡人のように…」
衝撃を受けたカルロは、瞠目しながら青ざめていた。
「勘違いしないで。ずっとあなたを想っていたわけじゃないわ。結婚詐欺師だってことは、ニュースで知ったし。あなたと過ごした時間が、如何にごみ屑みたいなものだったかって、わかって生きてたわよ」
「それは…そうですね。すみません」
「今更謝られたって、もうどうでもいいわ」
あの当時、このくらいの文句の一つも言わせてもらえていたら、前世のルチアは多少なりとも救われていただろう。
今となっては何もかも遅いのだ。
“キョウコ”は死に、記憶があるとはいえ、今の彼女はルチア・ヴェルディアナ・モンテサントという別人なのだ。
「そんなことより、メルカダンテ先生」
再び公爵令嬢の仮面をひっかぶったルチアが、品行方正な優等生らしい涼しい表情で呼びかける。
「先生にお願いしたいことがございますの」
ルチアがそう切り出せば、カルロは身を乗り出した。
「僕でお役に立てることでしたら、何なりと」
贖罪のつもりなのであろう。
何をしたって、贖ったことにしてやるつもりはルチアにはないのだが、どんな理由であれ今は彼にルチアの役に立ってもらう必要がある。
「以前、ナナミ様からのご相談に親身になって差し上げておられましたわよね?」
「その節は、申し訳ございませんでした。貴女がそのような女性ではないことは、よく知っています」
まるでルチアをよくわかっているとでも言いたげなこの発言には、腸が煮えくり返る思いがしたのだが、この場でその点について触れることはせずルチアは感情を抑えた。
こんな不愉快な男と会話している目的は、もっと別のことなのだ。
「実は私の大切な婚約者が、ある女生徒からの嫌がらせ行為に悩まされておりますの」
大切な、という部分を強調して言ったためか、カルロに動揺が見られた。
お前のことなどどうでもいいと、既に大切な人がいるのだと、言ってやりたくてルチアは我慢できなかったのだ。
「メルカダンテ先生でしたら、生徒間のこういった問題の解決に向けて、お力添えくださるのではないかと思いまして」
ナナミだから心配して親身になった――などとは言えず、カルロは首肯するしかない。
「こういったことは、非常に繊細な問題でしょう?ですから、お手数ではありますが、私の愛しい婚約者の身を守るために、一芝居打って頂きたいのですわ」
嫌だとは言わないだろうというルチアの予想通り、カルロはルチアの要望に応えることを約束した。
(私の勝ちよ、ナナミ・ルアルディ)
ルチアを敵に回す時点で、負けが確定しているのだと、ナナミにわからせてやろう。
二度とシルヴィオに手を出させないために。
――そう、ルチアは心に誓った。
二章第十六話をお読み下さり、ありがとうございます!
悪役になりたい悪役令嬢ルチア。彼女の奮闘を今後とも見守って頂けますと幸いです!




