第13話 隠しキャラの覚醒
シレア学園の数学教師であるカルロ・メルカダンテが、ナナミ・ルアルディに放課後の補習を提案したのは、単に編入生である彼女が勉強についていけるようにという、気遣いからであった。
ナナミは第一印象とは違って、よく勉強した。
本人も口にしていたことであるが、彼女はもともと勉強が得意なわけではないらしい。
しかし、時間はかかっても諦めず学ぼうとする姿勢はあるし、この頃は補習の成果も目に見えて感じられるようになってきた。
手のかかる生徒ほどかわいいという話を、聞いたことがあった。
それを実感する日が自分に来るとは思っていなかったが、今がその時であるようだ。
ナナミのひたむきな姿に、特別な感情を覚え始めているという自覚が芽生え、カルロは戸惑っていた。
カルロにとって、今生きている誰かに恋をするということは、昔亡くした大切な人への裏切りである。
生涯カルロだけを愛して死んでいった彼女のために、彼もまた彼女だけを愛すると心に誓ったのだ。
他の女性が気になると言うことは、つまり心移りに他ならない。
首からかけた鎖に繋がった、銀のロケットを手に取る。
その中には、失くした恋人の骨が入っているのだ。
他人に知られれば、頭がおかしいと言われるかもしれない。
けれどこれは、カルロが彼女と共に生き続け、死ぬまで彼女だけを愛すると誓った証であり、戒めのようなものだった。
試験の結果が良かったら一緒に出掛けようだなんて、どうして言ってしまったのだろうか。
そう伝えた時のナナミの笑顔が眩しくて、瞼の裏にこびりついてしまった。
今更その提案を取り下げることなんてできない。
約束してしまったのだから。
「ねえ、カルロ先生」
補習を終えて帰そうとした時、ナナミが切り出した。
「相談したいことがあるんです。その…他人には聞かれたくないことなんですけれど」
彼女と二人きりになるのは避けて来たが、言いにくそうに持ち掛けたナナミの不安げな様子が気になる。
「…わかりました。では、準備室へ行きましょうか」
そう言って席を立てば、ナナミはこくりと頷いてついてきた。
貴族の令嬢と二人きりになるなど、本当は良くない。
聞かれたくない相談ならば、女性教諭に持ち掛けるのが良いと、諭してやるべきだったかもしれない。
だが、年頃の生徒の繊細な相談事であるから、勿論相手は選んでいることであろう。
カルロは、ナナミが自分を信頼してくれているということを嬉しく感じた。
職員室の向かい側にある、数学準備室へ向かった。
扉に鍵はかけず、窓も少し開けておく。
ナナミが不安にならないようにという、気遣いのつもりであった。
「そこに座ってください」
ナナミに椅子を勧めれば、彼女は素直に腰掛けた。
カルロはその向かい側に腰掛ける。
「相談というのは?」
俯いていたナナミが、意を決したように顔を上げる。
「実は、お友達だと思っていたご令嬢が、最近怖くて…」
目尻に涙を滲ませて、ナナミが心細げに伝えて来る。
「それはつまり、いじめということですか?」
青ざめた顔で震えながら、ナナミはゆっくりと頷いた。
「他に誰かに相談しましたか?」
「いいえ」
とんでもない、と言いたげに、ナナミは自分の肩を抱いて怯えた。
「担任の先生や、僕よりも立場が上の方に相談した方が良いのではありませんか?」
「貴族の方には、言えません。だってそのお方は…」
そこで言葉を切って、一世一代の決心をするように、ナナミは深呼吸をしてから口を開いた。
「公爵令嬢、なんですもの」
なるほど、公爵家の後ろ盾があるならば、他の貴族は下手に出られない。
煌びやかな社交界の裏では、彼らは時に熾烈に蹴落とし合っているのだ。
これ以上落ちるところのない平民のカルロだからこそ、ナナミはこの話を打ち明けられたのだろう。
「そうですか。そんなことをする生徒には見えませんでしたが…」
「まあ、あたし、お名前は申し上げていませんよ!」
公爵令嬢と言えば、もう名指ししているようなものである。
公爵家自体、その数は少ない。
在学中の公爵令嬢といえば、優等生で名の通っているルチア・ヴェルディアナ・モンテサントだけである。
「公爵令嬢なんて、そうたくさんいらっしゃるものではありませんからね。ルアルディさん、お話が本当なら――」
「あたしを疑っていらっしゃるんですか?」
涙を湛えた瞳で、ナナミは上目遣いにカルロを見上げている。
そんな表情をされれば、庇護欲を掻き立てられてたまらなくなる。
「いいえ。しかし、教師というものは、全ての生徒に対し公正でなければならない職業です。僕のほうでも調べてみましょう。貴女を守る方法も見つかるかもしれない」
そう言えば、ナナミは安心したのか、息を吐いて笑みを浮かべた。
「でも、気を付けてくださいね。相手が先生でも、あの方は…何でもできてしまうご身分ですから」
心底恐ろしいと言うように声を潜めながら、ナナミがカルロを気遣って見せた。
「僕は大丈夫です。それよりルアルディさん、本当に酷いことをされるようなら、解決するまで無理をせず学園をお休みしても良いのですよ?」
ナナミはきっぱりとした態度で、首を横に振った。
「あたし、負けたくないんです」
強い意思を込めた眼差しが、カルロの眼鏡の奥に真っ直ぐに届く。
そのひたむきさが、カルロに抱いてはいけない感情を抱かせる。
ナナミ・ルアルディは、既にカルロにとって、特別な生徒になっていた。
翌日の放課後、ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントを呼び出した。
彼女は二人きりになることを渋り、人目のある職員室を希望した。
カルロが人目を避けたい話なのだと伝えれば、更に訝しんだ。
しかし、カルロがどうしてもと食い下がれば、最終的には彼女は承諾した。
「そちらへ掛けてください」
前日ナナミに勧めたのと同じ椅子を、ルチアに勧めた。
彼女もまた素直に腰掛ける。
向かい側の席につき、ルチアと対峙したカルロが感じたのは、予想に反して彼女は落ち着いているということである。
後ろめたいことがあるならば、普通はそれが表情に僅かでも出そうなものである。
「メルカダンテ先生。いったいどんなお話でしょうか?」
そこにいるのは、座っているだけで気品を放つ、完璧な公爵令嬢である。
立ち振る舞いといい、姿勢といい、言葉遣いや話し方といい、品行方正という評判通りに見える。
「実は、とある生徒から相談を受けました」
カルロは慎重に言葉を選んだ。
「貴女との仲が上手くいっていないと」
カルロがルチアを呼び出したことで、ナナミへのいじめが酷くなってはいけない。
「学園にはこれだけの数の生徒が学んでいるんですもの、友人関係が上手くいかないことくらいございますわ。それは、先生がご指導なさるようなことではないのではございませんか?」
翡翠色の瞳が、堂々とカルロを見据えている。
その美貌も相まって、欠陥などどこにも無いといった印象を与える令嬢である。
「単に上手くいっていないだけなら、僕が口を挟む道理はありません。しかし、彼女は非常に困っているようなのです。心当たりはありませんか?」
仮面を被ったように表情を変えない公爵令嬢が、全く動じることもなくカルロを見つめ返す。
そしてその絶妙の厚さの唇を開いて、穏やかな声を発した。
「彼女とおっしゃいましたから、先生にご相談をなさったのは女生徒なんですのね。そして、メルカダンテ先生と親しく、私によく話しかけて来るご令嬢に、私には一人だけ思い当たりますわ」
ルチアはこれだけの情報で、カルロに相談を持ちかけたのがナナミであると特定したようである。
流石、学年首位の優等生は、同じ内容を何度も一生懸命に復習しなければ理解できないナナミとは違い、頭の切れが違う。
カルロは緊張していた。
告げ口をしたとしていじめ行為がエスカレートすれば、ナナミの身に何があるかわからない。
「ナナミ様に話しかけられましたら、一応お話はお聞きしているつもりですわ。きちんと応答もしております。それ以上親しい友人になるかどうかは、私の自由ではございませんこと?」
「ええ、それはそうです」
ルチアはいじめのことには触れて来ない。
白を切っているだけなのか、それとも、この態度を見るに、いじめられているというのがナナミの勘違いだったのだろうか。
「ナナミ様は、私の応対の何がご不満だとお話になったんですの?」
「それは…」
カルロは口ごもった。
いじめが事実であれば、下手なことは言えない。
しかし事実でないならば、この場でそれを明らかにするのが最善だろう。
「おっしゃり辛いことですのね。先程、彼女は困っている、とおっしゃいましたね。ナナミ様が今以上に私と親しくなれなければ困る理由が、私には思い当たりません」
淡々と述べるルチアは、美しい人形のようである。
いじめを告げ口されて気分を害するでもなければ、友人が教師に虚偽の相談をして裏切ったと傷付いている様子もない。
「生徒間のことで、先生が介入する必要のあることといえば、考えられるのは嫌がらせ行為の類ですかしら?ですが、私はどなたにも嫌がらせ行為など行ったつもりはございませんわ。そんなことをせずとも、その気になればお家ごと没落させるほうが余程早いお話ですもの」
ただ論理立てて述べているだけの、機械的な言葉が紡がれていると、途中まで思っていた。
しかしこの優等生は、最後にとんでもないことを言い放った。
なるほどそう言われてみれば、宰相を父に持ち、第一王子と従姉弟で幼馴染の彼女にとって、気に入らない相手がいたとしても姑息な嫌がらせという手段に出る必要は無い。
「もしナナミ様が、私から非常に困ることをされているとお話になったのでしたら、ナナミ様は何らかの目的のために、嘘をおっしゃった可能性が高いと思いますわ」
瞬きはしているが、ルチアはその視線を全く逸らさない。
カルロは、彼女を疑ったことのほうが間違いであったのではないかと、考え始めていた。
「お話があるとおっしゃったのは先生ですが、私の言い分を先に述べさせて頂きました。これでもまだ、はっきりおっしゃる気にはなられませんか?」
カルロはどうやら、叱られているようである。
呼び出しておいて要件について言葉を濁したのは、なるほど失礼に当たるだろう。
それも、濡れ衣だったとすれば、尚更である。
「すみません。貴女の推測通りです」
そう口にする以外に、カルロには思いつかなかった。
「先生がどなたを信じるかは、先生のご自由でしてよ。どなたに肩入れするかも、お好きになさってくださって結構ですし、私にとっては興味もございませんことですわ。ですが、自衛はさせて頂くつもりです」
話しは終わりとばかりに、ルチアは椅子から立ち上がった。
カルロはそれを止めることもなく、ただ見ていた。
ナナミが嘘を吐いていたのだろうか。
彼が戸惑うほどに特別に感じていたのは、そんな女性だったのだろうか。
その可能性が強くなる結果となり、カルロはショックに半ば呆けていた。
「失礼致します」
淑女として文句の付け所の無い所作で、ルチアは礼をする。
そして背を向ける直前の刹那、目が合った。
ただ目が合ったというのとは違った。
仮面の下の彼女と目が合ったのだ。
それも、もっと奥深くにいる誰かと。
その時、記憶が洪水のように雪崩込んで来た。
頭痛に襲われ、その場に蹲る。
「うっ――!」
呻き声に振り返り、ルチアが駆け寄ってくる。
「先生!?いかがなさいましたの!?」
答えようにも答えられなかった。
突然思い出した、とでもいうべきか。
彼の中に雪崩れ込んで来たのは、彼自身の記憶だった。
理解が追いつかないままに、カルロは知ったのである。
自分が前世で、別の人格として生きていたこと。
そしてその人生がどんなものだったのかを。
「今、どなたか医務室まで付き添って下さる方をお呼びしますわ!少しここで待っていらして――」
「待って」
カルロはルチアの――否、その奥にいる女性の細い手首を必死に掴んだ。
振り返った彼女の瞳は、翡翠色をしている。
けれどその美しい顔に被って見えるのは、もっと別の女性である。
頭が割れるように痛い。
眩暈がして、呼吸もままならない。
しかし、今度こそと胸の奥から叫びが聞こえる。
前世で覚えた途轍もない後悔が、彼を突き動かすのだ。
「…やっと、会えた。ずっと謝りたかったんだ。キョウコさん」
見開かれた彼女の目に、嫌悪の色が浮かんだ。
「嫌っ!!」
叫んで、ルチアはカルロの手を振り解いて走って行ってしまった。
追いかけることはできなかった。
ナナミへの淡い感情も、亡くした恋人への執着も、遠い昔の想い出のように霞んでいる。
それよりずっと重くカルロの胸を苛んでいるのは、罪深い前世の記憶である。
何人不幸にしたかわからない。
その中でたった一人、彼が心から愛してしまった人がいた。
彼女への罪悪感から、罪の告白――つまり自首を決意できたのである。
誇れることなど何一つない。
罪人となって償いに生きたとしても、被害者の幸福な人生が戻って来るわけではない。
謝っても何になるわけでもなく、それはただの自己満足に過ぎないのだろう。
それでも彼はずっと、死ぬまで謝りたいと思ったまま、その人生を閉じた。
カルロ・メルカダンテとして生まれる前の話である。
二章第十三話をお読み下さり、ありがとうございます!
ルチアやシルヴィオは生まれながらに前世の記憶を持っていましたが、カルロは記憶が覚醒するパターンでした。
こっちのほうがよく見かける気がしますね。
何番煎じになっても書きたいものを書いていきます!
今後もお付き合い頂けますととても嬉しいです!




