第8話 悪役令嬢からの忠告
ナナミに脅された翌日の昼休み。
ルチアと一緒に昼食を摂ることができないシルヴィオは、彼女との婚約の前にそうしていたように、自分の席で持ってきた籠から軽食を取り出した。
昼以外にルチアを訪ねようかと何度も思ったが、彼女の学級にいるナナミに会いたくないという気持ちが強く、結局足がそちらへ向かなかった。
「あら、今日はお昼をルチア様とご一緒なさらないんですの?」
エルザの声に振り向いたシルヴィオは、寂しげに笑った。
「そうなんです。事情があって、控えることにしました」
微笑みを形作っていたエルザの口角が、僅かに上向きに歪む。
それはまだ、気のせいだと思える程度であった。
「まあ、どなたかが悪い噂でも?」
「いいえ、そういうわけでは」
そう答えると、エルザの口角が逆向きに歪む。
その変化は、意味を容易に見て取ることができないほどに、微細である。
「では、どうしてですの?」
「あまりべったりしすぎると、良くない評判も立つかと思いまして」
苦しい言い訳だった。
するとまた、エルザの口角が吊り上がる方へ僅かに動く。
「こんな噂をご存知かしら?ルチア様とシルヴィオ様は、ご婚約の前――つまりルチア様がまだダミアーノ様のご婚約者だった頃から、既に好い仲だった、という」
「えっ」
純粋な驚きに、シルヴィオは瞠目する。
婚約者のいるルチアにシルヴィオが恋焦がれていたのは、事実である。
ルチアにしても、ダミアーノとの婚約を破棄しないうちから、シルヴィオを想っていた。
だがそれは、お互いにお互いの気持ちを確かめていない状態である。
それを“好い仲”とは言えないだろう。
「ルチア様の婚約解消は突然で、理由はお相手の不徳によるものだと言われておりますけれど。それにしては、新しい婚約者と急激に親密になっているのが不審であると、一部考える方々もおられますのよ」
そんな噂があったとは、知らなかった。
ルチアの身分を考えれば、下手に彼女を、ひいてはモンテサント公爵家を敵に回しかねない発言を、表立ってする者はいないだろう。
しかし、噂というものは水面下で広まっていくものである。
当事者ならば尚更、その耳に入らないということもあり得る。
「口さがない者などは、シルヴィオ様がルチア様を奪い取るために、ダミアーノ様との婚約が破棄されるよう策を弄された、などと言っているとか」
「そんな、まさか!」
これには、シルヴィオは大いに取り乱した。
将来ルチアを幸せにするために、彼はベルトロット伯爵家の当主を立派に務め上げねばならない。
こんな悪評が立っているということが事実であれば、それは来たる将来への障害になりうるだろう。
「ぼくは確かに、ルチア様のことを以前からお慕いしていました。ですが、婚約の件は本当に幸運だっただけで、奪い取っただなんてとんでもありません。ルチア様にしても、お相手がいらっしゃるのに不誠実なことをするような方ではありません」
矢継ぎ早に抗議して、シルヴィオは肩で息をした。
「まあ、落ち着いてくださいませ。わたくしはそんな噂、信じておりませんわ」
宥めるように言いながら、エルザは眉尻を下げる。
はっとして、シルヴィオは黙った。
エルザに抗議したところで、仕方のないことである。
「ただ、お気を付けになったほうがよろしいかと思い、事実をお伝えしたまでですわ」
「すみません…ありがとうございます」
不安に押しつぶされそうな胸を押さえながら、シルヴィオは無理に微笑みを浮かべる。
「まあ、無理もないことだと思いますわ。ルチア様は、目立ちますもの」
ルチアは品行方正で、こんな噂を立てられるような女生徒ではない。
いったい何が無理もないのかと、シルヴィオは訝し気にエルザを見遣る。
「あれだけの身分と美貌に加え、成績優秀、さらに品行方正とあっては、まさに文句の付け所の無いご令嬢ですもの。聞くところによれば、未来の王妃候補としてお名前が挙がったことも、少なくないというお話ですわ。そんなルチア様が――」
そこでエルザは、言いにくそうにいったん言葉を切った。
「失礼ですけれど、単なる伯爵家の奥方にというのは、不自然に思う方々がいらしても無理も無いと、わたくし思いますの」
つまりエルザは、シルヴィオではルチアに本来釣り合わないと言いたいのだろう。
そのために、こんな噂が立つのだと。
「ですから、ご本人同士が余程惹かれ合っていた結果、あるいは既成事実あってのことだと考える方々もおいでになるわけです。ルチア様の婚約破棄から次の婚約まで、そう長い期間が空いていないことを考えれば…既に好い仲だったのではという憶測が飛び交うのも、頷けるお話だと思いますわ」
なるほどそう言われてみれば、噂通りに考えれば、客観的に見てこの婚約に辻褄が合う。
シルヴィオははじめ知らなかったのだが、後日ルチアの語ったところによると、王子オルランドを巻き込んでモンテサント公爵をあの手この手で言いくるめた結果、ようやくベルトロット家に縁談を持ち込むことに成功したのだそうだ。
公爵令嬢ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントは、本来シルヴィオにとって高嶺の花なのである。
「ルチア様がぼくに興味を持ってくださったことは、本当に幸運だと思っています。ですが、噂のようなことは決して――」
「ええ、シルヴィオ様。わたくしは疑っておりませんのよ?ですけれど、もしよろしければ、伺ってもよろしくて?」
宥めるようなエルザの声が、何故かシルヴィオの不安を余計に掻き立てた。
それが何故なのか、彼にはわからない。
「いったい全体、急なご婚約にも拘わらず、どうしてお二人はそんなに仲睦まじくていらっしゃるんですの?」
エルザの表情は穏やかだというのに、その淡褐色の瞳は不思議なことに獲物を狩る肉食獣のような光を帯びていた。
「ぼくはずっとルチア様をお慕いしていました。叶わないものと思っていましたが、それでもこの感情を消すことはできませんでした。ルチア様のほうは、どうしてぼくを気に掛けてくださるようになったのか、実はよくわかっていないのですが…」
逡巡する間、シルヴィオは痛いほどの視線を感じて居心地が悪かった。
「きっと、ぼくのわかりやすい態度に絆されたのではないでしょうか。ダミアーノ様はルチア様にあまりに無関心でしたから、ルチア様はわかりやすい愛情表現を求めておいでだったのかもしれません」
エルザが俯き、ほんの一瞬下唇を噛んだ。
「確かにお兄さまは、素直でないところがおありだけれど…」
その独り言はあまりに小さく、シルヴィオの耳には充分に届かなかった。
「それにしても、不思議ですわ」
顔を上げたエルザは穏やかな表情で、世間話を楽しんでいるかのような様子である。
先程の仕草は気のせいだったかと、シルヴィオは思い直す。
「ルチア様を想っておいでのご子息は、他にも何人もいらしたのではなくて?」
エルザの指摘通りであることは、シルヴィオも知っている。
“攻略”と称して、ルチアは乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』の攻略対象たちを、見事に自分に夢中にさせていたのだ。
「はい。ですからぼくも不思議なんです。他にもっと素敵なご子息はたくさんいらっしゃるのに、どうしてぼくなのか」
はにかんで頬を染めたシルヴィオは、ルチアが自分を溺愛していることを思い出して心地良く自惚れた。
「ルチア様はご存知でしたのかしら?他にどんなご子息が、あの方に想いを寄せていらしたのか」
「そうですね、接点のある方のことでしたら、自覚していらっしゃったと思います」
あっさり答えたシルヴィオのその言葉に、エルザは思わず微かに眉を顰めた。
「まあ。シルヴィオ様は本当に、選ばれたんですのね」
言いながらエルザの中に浮かぶのは、選ばれなかった兄レナートのことである。
いったいレナートの何が気に入らないのか、エルザには理解できない。
家柄は同格の伯爵家、そしてレナートは目の前にいるシルヴィオよりも、成績も容姿も少なくとも一段階優れていると、エルザは思っている。
何より類稀な音楽の天才であることを、兄の伴奏をしていたルチアが理解していないはずがないのだ。
相手が王子オルランドであったなら納得しようもあるが、何故このシルヴィオなのか。
「シルヴィオ様には、それだけ特別な何かがおありなのかしら?」
僅かに棘を含んだ声色で告げられたそれは、あるいは嫌味だったのかもしれない。
しかし判断のつかないシルヴィオは、単なる疑問と捉えた。
「特別なことなんて、何もありません。それでもルチア様が、ぼくがいいと言ってくださるのはきっと――」
ルチアとは釣り合っていないと指摘され続けているようなものであるのに、シルヴィオはそれについて不快でも何でもなかった。
彼は自覚した上で、ルチアの心が自分のものであるということが、途轍もなく嬉しいのだ。
「それがルチア様の好みだからです」
幸せそうに照れ笑いするシルヴィオを、エルザは冷めた微笑で見つめていた。
「まあ。それはよろしいですわね。素敵なご婚約者様を持って、妬まれることもおありでしょうけれど、シルヴィオ様ならお気持ちが強くていらっしゃるから、大丈夫ですわね」
シルヴィオはぎくりとする。
弱い自分に涙したばかりの彼には、自信が持てない。
エルザは変わらぬ微笑を浮かべている。
愛らしいアーモンドアイは穏やかに細められているのに、その奥の瞳の光に、またもやシルヴィオは不安を掻き立てられた。
二章第八話をお読み下さり、ありがとうございます!
二回連続シルヴィオ視点でした。
色々工夫して参りますので、今後とも何卒よろしくお願い致します!




