第7話 ストーカーのトラウマ
※かなり緩めですが、軽いいじめの描写があります
放課後。
シルヴィオ・ベルトロットは、壁際に追い詰められていた。
彼のいる校舎裏には手入れの行き届いた美しい花壇があり、花から花へと飛び交う蝶たちが、優雅に春を謳歌している。
その光景には似つかわしくない絶望を顔に浮かべ、シルヴィオは目の前の女生徒に怯えて震えていた。
「へえ、逃げずに来たんだ?」
彼女のことは知っている。
ナナミ・ルアルディ。
婚約者のルチアから、関わるなと警告されていた。
ヒロインだからと。
彼にとっては、別の意味でも関わってはいけない人物だった。
しかし、もう遅い。
「そんなにあの女が好きなんだ?コソコソこんな絵描いてるくらいだもんね」
ナナミは、シルヴィオのノートから千切り取った紙片を手に、ひらひらとそれを振ってみせる。
シルヴィオが机からノートが一冊消えているということに気づいた時にはまだ、こんなことになるとは思っていなかった。
「返して――」
「おっと」
取り返そうと伸ばした手を、ひらりと躱される。
うっすらと紅を引いているらしいナナミの唇が、嘲笑の形に歪む。
彼女が通りかかったのは偶然だった。
それも彼女が授業をボイコットして彼の教室の前の廊下など歩いていなければ、こんなことは起こらなかったのだ。
とはいえ迂闊だったのも事実である。
彼の席は廊下側の一番後ろであり、後ろ側の扉に嵌め込まれた四角いドアガラスから覗けば、ちょうど手元が見えてしまう位置なのだ。
「まさかアンタが、ヒロミちゃんだったなんてね」
“ヒロミちゃん”というのは、前世でシルヴィオが小学校時代に付けられていたあだ名のようなものだった。
一見してそれは、単に名前に敬称をつけただけのありふれたものに見えるが、彼にとっては苦い過去である。
地味で目立たず、お絵描きを好んだ彼を、女々しいと言って同級生たちは虐めた。
そして彼の名前が男にも女にも付けられる“ヒロミ”であったことが、更に揶揄いの種になってしまったのだ。
「…返して」
震える掠れ声で、涙目になりながらシルヴィオは主張を紡ぎ出す。
目の前の人物が過去のトラウマであり、本当は立っているのがやっとだというのに、なんとか勇気を振り絞ったのだ。
そうしながらも、彼の足は恐怖でガクガクと震えている。
「学校でこんな絵描いてるから悪いんでしょ?ほんっと、昔っからキモかったけど、更にキモくなったよねぇ?」
ニタニタと、片眉を異様に歪めてナナミが蔑みながら笑う。
その視線は紙片に描かれた絵に向けられている。
シルヴィオがうっかり授業中に落書きしてしまったそれは、脅しの種になるくらいには他人に見られたくない絵だった。
「退屈してたんだよね。この学校もこの世界も、変に気取った奴らばっかりでさ」
ナナミの弑逆的な目が細められ、シルヴィオを慄かせる。
「これ、あの女に見せていいよね?」
「やめて!それだけは!」
シルヴィオの白い頬を、絶望の涙が次々と伝い落ちる。
膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか踏みとどまって、彼は縋るような視線をナナミに向けた。
「ええー、どうしよっかなー?あの女がどんな表情するかも含めて、面白そうなんだけどなー?」
「や、やめて!やめて…ください」
ボトリと落ちるように膝を付いたシルヴィオは、そのまま上半身を折り曲げて地面に手をついた。
所謂、土下座である。
「やめてください…許してください…返してください…」
ボトボトと涙が土の上に落ちて沁み込んでいく。
「アンタがあたしの言うこと聞くなら、考えてあげなくもないけど?」
ここで脅しに屈すれば、脅され続ける地獄が待っているだろう。
それくらいのことはわかるのだが、シルヴィオにはもう他に選択肢は無いように見えた。
「わかりました、言うことを聞きますから…」
わなわなと震える唇で、憐れな彼は掠れ声を紡ぎ出す。
「ふうん。じゃあ、あの女と一緒に帰るの禁止。昼も一緒に食べるの禁止。今日はこのまま何も言わずに先に帰りなさいよ」
独りで待ちぼうけしているルチアの姿を想像して、シルヴィオは胸が裂けそうに痛んだ。
「とりあえずはそれで、これをあの女に見せるのはよしてあげる。でもこれは預かっとくよ?」
ナナミは勝ち誇った笑みを浮かべている。
「言っておくけど、脅されてるとかって誰かに言ったら、即この絵を掲示板に貼り付けてやるから」
「そ、そんなこと、言いません…!」
青い顔をして涙を流し続けるシルヴィオは、地面に這いつくばったままなんとか顔を上げた。
「じゃ、また何してもらうか考えておくから」
ひらひらと紙片を振りながら、ナナミはくるりと背を向けて去って行った。
さも愉快げな足取りである。
ナナミ・ルアルディはおそらく転生者であると、ルチアが言っていた。
しかしシルヴィオは、まさか彼女が前世の知り合いであるとは思ってもみなかった。
それも、彼をいじめていた主犯格である。
当時のことを転生してから思い出すことはそう多くなかったが、今でもトラウマであることに変わりはない。
こうして彼女が目の前に現れてあの弑逆的な目を向けて来れば、途端に彼は身体に覚え込まされた贄の子羊の姿勢を取ってしまうのだ。
「ルチア様、ごめんなさい…」
ゆっくりと立ち上がって、汚れた膝を払う。
一人で帰るつもりではなかったので、ベルトロット家の馬車は迎えに来ていない。
ルチアはいつも、モンテサント家の馬車で一緒に帰途につき、シルヴィオを送ってくれるのだ。
今日は、学園に常備されている馬車を借りるしかない。
自分を待つルチアのことが気がかりでならなかった。
彼女は前世で何らかの心の傷を負って、信じることを怖がる傾向が強い。
一緒に帰る約束をしていたルチアを置いて断りもなく帰ったりなどしたら、彼女のトラウマを刺激しかねないだろう。
「ごめんなさい、ルチア様…。ごめんなさい…」
不安に胸を痛めるルチアの姿が、目に浮かんだ。
もしかすると、泣いてしまうかもしれない。
彼女は強がりだが、根は繊細で脆いのだ。
「ルチア様……」
それでもシルヴィオは、あの落書きをルチアに見られたくなかった。
彼女の好意を失うばかりか、軽蔑の眼差しを向けられて捨てられるのは、彼には耐えられない。
彼女だけではなく、他の誰かに見せられでもしたら、それも悲惨だった。
「ごめんなさい……」
謝罪の言葉を呟きながら、シルヴィオはルチアの待つ教室には寄らず、学園の馬車がある校舎脇へ歩いて行く。
自分の不甲斐なさが悔しくて、下唇を噛む。
鉄錆の味が僅かに沁みて来た。
シレア学園の馬車で帰宅して、自室にこもって泣いた。
その間中、自分に放って帰られたルチアの悲しみばかりを想像した。
理由もわからないままに置いて行かれるのは、どれだけ辛いであろうか。
遅いと思いながらも、迎えに来るかもしれない自分を待ち続けるのは、どれだけ苦しいであろうか。
何時間そうしていたか、わからない。
不意に扉がノックされ、来客を告げられた。
「すみません、今は体調が――」
「ご婚約者のモンテサント公爵令嬢ルチア様でございます」
侍女が告げた名前に、跳び起きた。
ナナミには一緒に帰るなとは言われたが、その後会うなとは言われていない。
おそらく傷ついているであろうルチアに、少しでも贖うことができるなら、この機会を逃す手はない。
「今行きます!」
涙を拭って、腫れた目をしたまま部屋を出て、応接室へ向かった。
侍女が扉を開くと、ソファで紅茶を飲んでいるルチアがそこにいた。
「シルヴィオ様、よかったわ!ご無事でしたのね!」
彼の姿を見たルチアは、予想に反して喜んだ。
その言葉遣いは、人払いをしていないので余所行きのものである。
「何かあったのかと、心配致しましたのよ」
美しい翡翠の瞳に涙を浮かべながらも、彼女は怒りもせずシルヴィオの無事に安堵していた。
その様子に、シルヴィオは込み上げる涙を抑えきれない。
「る、ルチア様ぁ…!うぅ、ひぃっく」
戸口に立ったまま幼子のように泣きじゃくるシルヴィオを見て、ルチアは秀麗な眉尻を下げて微笑んだ。
ソファから立ち上がり、彼女は彼に近づいて来る。
そして、室内には侍女たちが数名いるというのに、彼女は彼の背に腕を回して軽く抱きしめた。
幸い、それを咎める者はいなかった。
「かわいそうなシルヴィオ様。私の愛しいあなたをこんなに泣かせているのは、いったいどんな出来事なのかしら?」
ルチアは耳元で優しく囁く。
シルヴィオにだけ聞こえるように発せられた小さなその声には、甘さが滲んでいた。
無断で置いて帰ってしまったのに、彼女の愛情が失われていないことがシルヴィオは心から嬉しい。
それと同時に、いじめっ子などに弱みを握られて、ルチアを傷つけるようなことをしなければならない自分が、情けなく憎らしかった。
「る、ルチア様ぁ……うっ…うぅっ」
「どんなことがあっても、私はあなたの味方よ」
嗚咽してまともに話もできないシルヴィオの背を、ルチアは落ち着かせるように柔らかく撫でる。
そうされているうちに、少しずつ嗚咽がおさまってきた。
「も、申し訳ありません…!勝手に、帰ったりして…」
ルチアの手が、汗ばんだ銀の髪を優しく撫でる。
「何か理由があったのでしょう?私、あなたのことを信じたいの。信じるって決めたの」
「ルチア様……」
きっと不安にさせただろうと思った。
人知れず泣いているかもしれないとまで思った。
けれどルチアは、シルヴィオが思っていたよりずっと強かった。
そんな彼女への愛おしさが増すと共に、彼は自嘲と自責に苛まれる。
「ルチア様ともう、一緒に帰れないんです。お昼もご一緒できません」
おずおずと伝えると、ルチアがびくりと震えて手を止める。
「でも、でも…。ルチア様のこと、好きです。愛しています」
恐る恐る目を合わせれば、美しい翡翠の瞳は穏やかに彼を見守っていた。
「理由があるなら、仕方がないわ。けれど、一人で抱え込まないで本当は話して欲しいの。私には言えないこと?」
「ごめんなさい…」
ぼろりと涙を溢して謝罪すれば、熱い雫に視界が歪む。
涙が伝った跡を拭うように彼の頬に指を滑らせてから、ルチアはシルヴィオの頬に手を添えた。
「結婚すれば一緒に暮らせるもの、今は待てるわ」
泣いたせいで熱を持ったシルヴィオの肌にはその手は冷たかったが、ひんやりと滑らかな感触が心地いい。
「でも、もしあなたが私から本当に離れていくなら、私…。きっとあなたのストーカーになってしまうわ」
クスリと上品に笑いながら、ルチアはシルヴィオの頬に触れるだけの接吻をした。
侍女たちが見ている――そう、頭の片隅で思いながらも、羞恥よりも喜びが勝ってシルヴィオは破顔した。
「ルチア様、好きです」
「さっきも聞いたわ」
「好きです」
「何度言えば気が済むの?」
「好きです」
「まあ、シルヴィオ様ったら、他の言葉を忘れてしまったの?」
「愛しています」
「私もよ。愛しているわ」
この彼らの甘いやり取りは、多少の脚色を加えて、瞬く間にベルトロット邸の使用人たちの間で噂になった。
仕え続ければ、将来自分たちの主人と奥方になる二人の話である。
仲睦まじいと聞くのは、使用人たちにとっても喜ばしいことであった。
シルヴィオがよく泣く、という噂までが広まったのは、この時点ではご愛嬌である。
二章第七話をお読み下さり、ありがとうございます!
前書きで一応お伝え致しましたが、読んで不快になられた方がいらっしゃったら申し訳ありません。
それほど悲惨な内容は書いていないつもりなのですが、同じような経験をされた方にとってはそれだけで済まない場合もあるかと思いますので、デリケートな内容の時は前書きに一筆添えたいと思っております。




