第6話 未発生イベントの考察
「ルチア様、肩に御髪が」
抜けた髪がルチアの肩に付いていたのを、隣を歩くシルヴィオが優しく取る。
そのプラチナブロンドの一筋を、彼はナチュラルにポケットへしまった。
「あら、ありがとう」
ルチアはそんな彼に微笑みかける。
その髪を彼が何に使おうが、ルチアは別に構わない。
そして万一彼が他の女性の髪を持って帰ろうとでもすれば、ルチアはそれを浮気心と感じて打ちひしがれるだろう。
他人には理解し難い感覚であるが、本人は真剣に恋をしているのだ。
「もう着いてしまうわ…残念ね」
昼休みの終わり、いつものごとくシルヴィオがルチアを教室まで送っていくところである。
シルヴィオを見上げる翡翠の瞳が寂しげに揺れて、離れ難いと伝えてくる。
「チャイムが鳴る直前までは、ここにいますよ」
「あら、それじゃあなたが授業に遅れてしまうわ」
「走ればなんとか間に合います」
「廊下を走っては危ないわ。あなたが怪我でもしたら、私が辛いのよ」
「わかりました。では間に合うように行きます。でも、本当は授業なんて放り出して、ルチア様を――」
どこかへ連れ去ってしまいたい――そう耳元で囁かれて、ルチアは頬を赤らめ、ざわめく胸を押さえた。
「まあ、いつもながら仲がよろしいのですね」
クスリと上品な笑い声がするほうを振り向けば、エルザ・パレストリーナがそこにいた。
「ごきげんよう、お二方」
「ごきげんよう」
「こんにちは」
綺麗な礼をするエルザに、二人とも挨拶を返す。
もうすぐチャイムが鳴るので離れなければならず、それさえも残念に思っているバカップルではあるが、いちゃついていたところを邪魔されたと文句を言うわけにもいかない。
ここは学園である。
「シルヴィオ様、恋しい女性の傍にいたいなんて理由で授業に遅れますと、皆様から悪い印象を持たれますわよ。お気をつけになって」
そう言うエルザは淑女らしい涼やかな笑みを浮かべてはいるが、そこにどことなく棘が感じられ、先日から抱き始めたルチアの嫌な予感が増大した。
「はい、ご忠告ありがとうございます」
シルヴィオは特に何も感じられないのか、素直に感謝をしている。
(エルザは悪役令嬢だって言ったのに、シルヴィオは警戒心が無さすぎるわ。あの子と仲良くするななんて言うのは、嫉妬や束縛みたいだから嫌だったけど…)
募る危機感と共にシルヴィオのほうを見上げると、暖かな暗灰色の瞳が愛おしげにルチアを見ていた。
「ルチア様、お名残惜しいですが、そろそろ…」
ちゅっ――と、額に柔らかな唇が降ってきた。
啄むような優しい感触に、ルチアは顔が熱くなってぼうっとした。
「放課後また、お迎えに上がります」
そのまま動けず、綺麗な所作で礼をして去っていくシルヴィオの、姿勢の良い後ろ姿を見つめていた。
(もう、シルヴィオったら!!気をつけてって言えなかったじゃない!!馬鹿ぁ)
心の中で思うこととは裏腹に、ルチアの口元は思わずにまりと緩んでしまっていた。
間もなくチャイムが鳴り、授業が始まっても、ルチアが考えるのはシルヴィオのことと、そしてエルザのことばかりである。
この時は物理の授業であったが、ルチアにとっては前世で習った範囲であり、勤勉な彼女が理解しきっている内容ばかりで退屈なのだ。
(レナートの攻略中には何も言ってこなかったエルザが、どうして今更…)
エルザ・パレストリーナは、レナートルートの悪役令嬢である。
しかし、彼女はルチアがレナートと仲良くしていたうちは、特に接触してくることもなかった。
それをルチアは、わりと傲慢に解釈している。
つまり、ゲームではレナートに相応しいとは認められないヒロインをエルザは目の敵にするが、現世のルチアは文句のつけ所のないスペックなので、エルザも何も言えなかったのだろうと思っているのだ。
(エルザの介入がなかったために、レナートルートの未発生イベントは多い)
ルチアのレナート攻略は変則的で、ゲームストーリーに沿ってはこなかった。
それは彼女が無類の音楽好きであるために、音楽の天才であるレナートに対し割り切った接し方をしきれなかったことが大きな原因である。
(それらのイベントがこれから起こるとすると…)
悪役令嬢エルザ・パレストリーナによるヒロインのいじめ方というのは、言葉によってとことん劣等感を刺激して自信喪失するよう仕向けるというもので、他の二人の悪役令嬢の嫌がらせ行為と比べて命や身体の危険は少ない。
しかしこれは、証拠が残りづらく問題が表面化しづらい分、自分を強く持つ以外に対策しづらい。
エルザの断罪イベントも、兄レナートが彼女の言動に気づき怒りを露わにし、恋い慕う兄から嫌われたエルザは絶望する、という本人同士の精神的ダメージのみの展開である。
(…ううん、起こりようが無いわ。だって私は、転生悪役令嬢ルチア様だもの)
ルチアは、エルザが刺激すべき劣等感を持っていない。
苦手なことといえば運動であるが、それについてもできる限りの努力はしてきたので、身体能力の低さに対しては開き直っている節がある。
その上ルチアはシルヴィオと愛し合っている自信があり、エルザに何を言われようとも、そんなものは好きな男を手に入れようのない彼女の負け犬の遠吠えと、一笑に付すだけの余裕がある。
(気になるのは、エルザがシルヴィオの周りをうろちょろしていることね)
悪役令嬢エルザ・パレストリーナのゲーム上の設定といえば、兄レナートに相応しくない令嬢を排除するために動く、ほぼレナートの信者と言って過言でない兄好きの妹なのである。
レナートと直接の接点が無いに等しいシルヴィオのに対し、彼女が何かするつもりであれば、その意図がわからない。
(本当にただの友人ということも…ううん、女の勘は理屈に勝るものよ)
まだ何をしてきているわけでもないエルザに対し、ルチアは説明のつけようのない嫌な予感を抱いている。
(まさか、シルヴィオのことを私から奪おうと!?)
ナナミの時といい、ルチアのこの発想は短絡的であるが、シルヴィオが下級生の女子生徒の間で人気があるのも事実である。
設定通りならばレナート命のはずのエルザが、他の男に惹かれるということは考えづらいのであるが、それだけルチアにとってはシルヴィオが魅力的に見えているのだ。
恋の病というやつである。
(駄目よ、同じ悪役令嬢でも絶対に譲らないわ!)
そこまで考えてから、ルチアはやはりこの説には無理があると思い直し、いったん頭を冷やす。
(…エルザが動くのはレナート関連よ。レナートと距離を置いた今になって彼女が動き出した意味を、考えるべきだわ)
エルザは、レナートに相応しくない令嬢を排除する。
ルチアがレナートに近づいていた時には何もしてこず、離れたことによってエルザが動く意味があるとすれば、それは。
(もしかして、私がエルザの御眼鏡に適っていたから、逆にレナートとくっつけようとしている!?)
その仮説に辿り着いてみれば、それが確からしく思えてきてならなかった。
エルザは、兄への叶わぬ想いを諦めるため、兄の相手には全てが自分より優れた令嬢を望んでいるのだ。
(え、でも…。今の私は結構、シルヴィオに毒されて変態になりつつあるし、理想の令嬢とは言い難いはずよ?それをエルザに伝える?駄目よ、それじゃ変な噂が立って、シルヴィオにも迷惑がかかるわ!)
このシレア学園で良くない評判が広まると、結婚後のベルトロット伯爵家の将来にも大いに響く。
エルザに考え直してもらうために、わざわざルチア変態説を伝えるのは得策ではない。
彼女とは信頼関係が無いのだから、味方だとは言えないのだ。
(レナートに相談する?ううん、駄目よ。それは彼を傷つけに行くようなものだわ)
レナートはルチアの幸せを願って、とても紳士的に身を引いてくれた。
心だけは自由でありたいと述べた彼のその心は、まだルチアにあるであろうことも想像できる。
そんな彼に対し、ルチアへの感情を確認させて刺激するようなことは、酷である。
(私が蒔いた種よ。私がなんとかするのが当然の責任だわ)
ルチアは、散々攻略対象たちの気を引いておいて、他に大切な人ができるとあっさり攻略から手を引いたことに、罪悪感を持っている。
高慢悪役令嬢を気取ってみても、根は真面目な彼女には、悪役になり切れないところがあるのだ。
(エルザはどうするつもりなのかしら。それがわからなければ、対策を立てられない)
ルチアはひとつ、深呼吸をした。
そして、教師が黒板に図と式を書いていくチョークの音を聞き流しつつ、頭を整理しようとする。
(標的になりうるのは、私かシルヴィオの二択よ。狙いやすい方を狙うとすれば…シルヴィオが危ないわ!)
一刻も早く婚約者に警告せねばならないと、ルチアは嫌な汗をかいた。
二章第六話をお読み下さり、ありがとうございます!
変態に恋をすれば変態になる…というのはルチアだけでしょうか。
すっかり変態悪役令嬢になってしまったルチアですが、今後とも応援していただけますと、とっても嬉しいです!




