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第2話 三人目の悪役令嬢

ルチアは追われている。

それも、ゆっくりゆっくりと。


廊下に響く耳心地の良い靴音は、聞き慣れた彼のもの。

角を曲がって、わざと速度を落とす。

縮まる距離に自然と口角が上がっていく。

窓の外から差し込む春の陽光に照らされながら、高鳴る胸の中で期待が膨らむ。


「だぁーれだっ!」


後ろから両目を優しく塞がれる。

その手は華奢で繊細な、それでいて大きく男性らしい、良く知る彼のもの。


「シルヴィオ様」

「当たりです」


すっと手を離されて振り返れば、微笑む婚約者の暗灰色の温かな瞳が、蕩けるような眼差しを向けてくる。

そこに映る自分の翡翠の瞳が、あまりに嬉しそうに輝いているのを見て、ルチアは彼に心底惚れこんでいる自分を再認識する。


「もう、シルヴィオ様ったら。追いかけてなんていらっしゃらず、教室で待っていてくださればよろしいのに」

「だってルチア様、教室から一緒に帰ろうというお約束だったのに、どこかへ行ってしまわれるから心配したんですよ」


バカップルであると、自覚はしている。

しかしこんな日々が、幸せだった。


「図書室に本を返却しに行こうとしていただけですわ。そんな少しの間も待てないだなんて、寂しがり屋さんね…ダーリン?」


“ダーリン”なんて呼んだことはなかったし、そもそも英語から来ているこの言葉は、愛する人への呼称としてこの世界のこの国には浸透していない。

ほんの遊び心で、シルヴィオにならその意味が通じるであろうと思って、悪戯気に言ってみただけである。

期待通りに頬を赤らめたシルヴィオを見て、ルチアは幸福を噛み締める。


「…ええ、とても寂しがり屋なんです。だから一人にしないでください、ハニー」


自分から仕掛けた冗談なのに、そう返されればルチアも気恥ずかしくなって赤面してしまう。

ああ、本当にお馬鹿全開のバカップルだ――そう思いながらも、シルヴィオとこうして甘い気分に浸るためなら、脳みそが溶けて馬鹿になってしまってもいいと、ルチアは感じていた。

要するに、ぞっこんなのである。


「図書室へも、お供させてください」


貴公子然とした美しい姿勢のシルヴィオが、すっとルチアの隣に並び立つ。


「ええ」


自然と腕を組んで、二人一緒に歩き出した。

腕を組めば密着度が増し、身体の少し繊細なところまで触れることになる。

意識してしまえばそれが何ともくすぐったくも、幸せだった。


「ルチア様は、どんなご本を読んでいらっしゃるんですか?」

「文学小説が多いけれど、専門書の類も好きよ?前世の知識と比べてみると、何故理論に違いができるのかとかの考察ができて、面白いのよ」


距離が縮まって会話が小声になると、ルチアはこうして言葉遣いを崩す。

シルヴィオの前では、なるべく公爵令嬢の仮面を脱ぎ捨てて、ありのままでいたいのである。


「ルチア様は、本当に頭が良いですよね。ぼくより、ルチア様が当主になったほうが上手くいくのではないかと、よく考えたりします」

「それをロベルタ様の前では絶対に言っちゃダメよ?」


表情に疑問符を浮かべながらも、シルヴィオは頷く。

彼は知らないことだが、乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』で頭脳派悪役令嬢として描かれるロベルタ・ピアツェラは、今世では婚約者を嵌めて当主の座に着こうと画策していたことがある。

頭の切れるロベルタのことはルチアは個人的には好きな部類であるし、彼女と頭脳戦を繰り広げるのは嫌いではないが、それでもシルヴィオを取り合うことになるのだけは御免である。


「あなただって、勤勉だって評判じゃない。私も婚約者として鼻が高いわ」


実は変質者であるということを知らない者たちにとってみれば、シルヴィオは学園でも勤勉で礼儀正しいと評判の生徒なのである。


「ぼくはもともと、すごく勉強ができるわけではないですし…。実は、後悔していたんです。前世で頑張らなかったこと」


遠い目をしてそう言ったシルヴィオに、ルチアにも共感できることがあり、感慨深く感じた。

彼らは前世の記憶を強く引き摺っている。

前世での後悔を、今世で幸せになることで晴らそうとしているという点においては、彼らは同じだった。


「私も色んなことを後悔して、やり直したいと思ったわ。そうしたらこの世界に記憶を持ったまま転生して、その好機(チャンス)を与えられた。これって偶然なのかしらね?」

「さあ、それこそ神様にでも訊いてみなければ、わかりませんね。でも、ルチア様と出会ったのが偶然にせよ、必然にせよ、ぼくはもう――」


絶対にルチア様を離しません――そう、耳元に熱く囁きを吹き込まれて、ルチアはぞくりと甘く震えた。


「もう…シルヴィオ様ったら」


拗ねたような、甘えるようなその小さな声を発したルチアは、赤くなりながら確かな喜色を浮かべていた。


「あら、ごきげんよう、シルヴィオ様」


不意に女生徒に声をかけられ、立ち止まる。


「こんにちは、エルザ様」


愛想良く挨拶を返すシルヴィオの隣で、ルチアはぎくりとした。

腰に僅かに届かない癖のある栗色の髪、愛らしいアーモンドアイに淡褐色の瞳、瑞々しい白い肌――この女生徒のことを、ルチアは知っている。

直接的に知り合いというわけではないが、彼女は乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』の重要な登場人物なのだ。


「はじめまして、エルザ・パレストリーナと申します」


淑女らしく上品に、エルザがルチアに向き直って礼をする。

瞬時に公爵令嬢の仮面をひっ被って、ルチアは貴族令嬢として非の打ちどころのない完璧な礼を返す。


「はじめまして。ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントですわ」

「お噂はかねがね。兄が非常にお世話になったと伺っております」


エルザの言う兄とは、『愛憎のシレア学園』の攻略対象の一人、レナート・パレストリーナのことだ。

彼女こそがレナートルートの悪役令嬢、エルザ・パレストリーナなのである。


「私のほうこそ、レナート様にはお世話になりましたわ。その上、婚約者までエルザ様のお世話になっているようで――」


シルヴィオと気さくに挨拶を交わす間柄ということは、それなりに親しいのであろうか。

そんなことを考えながら、ルチアは二人の間に交互に視線を遣る。


「いえいえ、お世話になっているのはこちらのほうですわ。シルヴィオ様とは、同じ学級ですの」

「エルザ様とは昨年も同じ学級で、引き続き仲良くして頂いているんです」


仲良く、ということは。

単なる同級生以上に関りがあると考えてよさそうである。


「あ、浮気とかじゃないですからね!ルチア様、信じてください!!」


ルチアが少し難しい表情をしていたのか、シルヴィオが慌て始める。


「そんなこと疑っておりませんわよ。シルヴィオ様にそんな甲斐性が、あるわけがございませんもの」


クスリと上品に笑いながら、ルチアは余裕の表情を浮かべて見せる。


「あら。シルヴィオ様って、これでもわたくしたちの学年ではご令嬢に人気ですのよ?」


エルザの言うことが事実であることくらい、ルチアも知っている。

それでも笑ってやり過ごす以外に、ルチアは作法を知らない。


「まあ、気を付けなければ私、捨てられてしまいますかしら?」


クスクスと微笑む表情の奥から、ルチアの翡翠の瞳は本当は縋るような気持で、シルヴィオを見上げている。

浮気なんてコソコソとするような男だとは思っていないし、今のシルヴィオの気持ちをルチアは信じている。

けれど、いつか誰かに心変わりしてしまわないという保証が無いのは事実であり、願わくばずっと自分だけを見ていて欲しいと、いつだってルチアは願っているのだ。


「とんでもありません。ルチア様がぼくを嫌がっても、ぼくは離れてなんて差し上げませんからね」


冗談めかして、しかしその暗灰色の瞳の奥に確かな本気の光を宿して、シルヴィオは熱っぽくルチアに囁く。


「まあ、仲がよろしくて羨ましいですわ。お邪魔してしまったようですし、わたくしはそろそろ…」


エルザは、あっさり礼をして去って行った。

その後ろ姿に、ルチアは女の勘ともいうべき根拠のない、嫌な予感を抱いた。


「ねえ、シルヴィオ様。エルザ様とはいつ頃から仲がいいの?」

「まさかルチア様、本気で疑っていらっしゃるんですか!?」


ショックを受けたような悲壮な表情で、シルヴィオがルチアを見つめている。


「違うのよ。あなたもしかして、気づいていないの?エルザ・パレストリーナは、悪役令嬢よ?」

「え」


言葉を失くして固まったシルヴィオを見るに、心底驚いているようである。


「前世でゲームのパッケージを見たと言っていたから、知っていると思っていたけど」

「ルチア様ばかり見ていたので、他のキャラは朧気にしか…」


乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』のパッケージには、攻略対象たち男性キャラの絵がでかでかと描かれており、悪役令嬢の三名も小さくちょこんと描かれている。

シルヴィオは前世で、その真ん中に描かれていた悪役令嬢ルチアのキャラ絵に一目惚れをしたらしかったので、ルチアは彼がエルザのことも覚えているかもしれないと思ったのだが。

知らずに仲良くしていたようである。


「あ、あの!ぼくが今好きなのは、今のルチア様だけですから!その、パッケージの絵のルチア様のことは、今は…」


ルチアはまた難しい表情をしてしまっていたのか、シルヴィオが勝手に言い訳を始めてルチアを宥めようとする。

その話については、もうきちんと納得しているのだから、今更ルチアがそんなことで機嫌を壊すわけがないのだが。


「ふふっ。まさかゲーム内のルチアが、婚約者の元カノ的な存在になっているなんてね。二度も生まれて来ると、面白いこともあるものだわ」

「ぼくがちゃんとお付き合いしたことがあるのは、前世でも今世でもルチア様だけですから!!あ、このルチア様っていうのは、今目の前にいらっしゃるルチア様のことでっ!!」

「わかってるわよ」


ちゅっ――と、頬に口づけしてやれば、シルヴィオは言い訳をやめておとなしくなった。


「一歩も動けないパッケージの絵なんて、私の敵じゃないもの。シルヴィオ様にこうして触れられる“ルチア”は、私だけなんだから。もう、怖くないわ」


そう言って不敵に笑いかければ、何を思ったのかシルヴィオは急に真剣な表情になり、ルチアを優しく抱き寄せた。


「え、何?急にどうしたの?」

「ルチア様。不安にさせてすみませんでした。ぼくの全ては貴女のものだと示す方法があるのなら、どんなことだってします。ぼくの身体のお好きなところに、焼き(ごて)でルチア様のお名前を入れてくださっても構いません」

「そ、そんなこと、しなくたって…」


頬に口づけて宥めてやったと思っていたのに。

宥められているのはいつしか、ルチアのほうになっていた。

強がって口には出さなかったルチアの不安を、シルヴィオは感情として読み取ってくれていたのだろう。

そんな彼だからこそ、ルチアの手負いの心は優しく溶かされていく。


「鎖で縛り上げて“豚野郎”というプレートを首にかけて、床に踏みつけながら罵ってくださっても構いません」

「ちょっと、それってあなたの願望じゃ」

「首絞めならルチア様の御髪でして頂けると――」

「しないわよ!!変態!!何考えてるの!?どこからそんなこと思いつくわけ!?」

「でしたらせめて、跪いてルチア様の足を舐めるぼくに、唾を吐きかけて――」

「黙れ変態!!ここ学校よ!?いい加減にしないとお尻ひっぱたくわよ!!」

「ルチア様…それ、興奮して大変なことになります」

「もう、馬鹿馬鹿変態!!!ロレンツォにやってもらうんだからっ!!!」

「ぼくにそっちの趣味はありませんが、ルチア様が見ていてくださるなら…」

「見ない!しない!あなたには何もしないわ!!」

「ああ、ルチア様、放置プレイだなんて――」

「黙れーーーーー!!!!!」


とんでもないバカップルたちは、この廊下に他に人がいなかったことに、心から感謝した。

二章第二話をお読み下さり、ありがとうございます!


一章では出てこなかった三人目の悪役令嬢、エルザ・パレストリーナですが、二章からは活躍する予定です。

何卒よろしくお願いいたします。

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