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パレストリーナ家の家庭事情

レナート・パレストリーナには、一歳年下の異母妹(いもうと)がいる。

エルザ・パレストリーナ伯爵令嬢である。

父親譲りの癖のある栗色の髪は腰に僅かに足りない長さで、兄のレナートとよく似た質をしている。

瞳は母親譲りの淡褐色で、吊り気味のアーモンドアイが愛らしい。

中背中肉で肌は白く瑞々しく、健康的な美しい少女であるが、兄の美貌と比べてしまえばその印象は平凡に寄る。

それはエルザに華が無いというよりも、レナートの神秘的な美しさが独特に現実離れしているためである。


令嬢であるのに子息の兄の方が美しいと称されてきたエルザが、この兄に嫉妬の炎を燃やしたり劣等感を抱いたりしてきたかといえば、そんなことはない。

エルザもまた、レナートの美しさを素直に賛美する人々のうちの一人なのだ。

――否。ただ遠巻きに見ている彼らよりも、近くあるほど止め処なく溢れるその熱狂的な感情は、いっそ信仰心に近いかもしれない。


彼女の母親、つまりレナートの継母だけは、妾の子であるレナートを虐め抜いていたが。

繊細で美しい芸術品のような兄を大切にしない母のことを、エルザはついぞ理解できないでいる。

レナートは、父が妾に産ませた子なのだとはエルザも聞いている。

しかしその件で責められるべき人物がいるならば、それは父やその妾の女性であり、兄には何の罪もないとエルザは思うのだ。


レナートは美しい。

容貌だけではなく、その心が彼の振る舞いに、音楽に滲み出ている。

繊細な心を傷つけられまいと殻に閉じこもることはあっても、決して穢れることを知らず、孤高の清廉さを保っている。

――それが、エルザから見た兄レナートの姿である。


サロンから漏れ聞こえる美しいピアノの旋律に心惹かれ、エルザは踵の高い靴を静かに踏み出した。

しかしそれを無粋なカツカツという足音が通り越し、無遠慮にバタンと扉を開け放った。


「レナート!いつまでもピアノなんて弾いていないで、早く支度をなさい!もうすぐリゴーニ男爵家のご令嬢がご到着よ!」

「申し訳ございません、母上。すぐに片づけますので――」

「まあ、何よこれ!?汚いわね!」


バサバサと紙が床に落ちる音がする。

エルザが追いついて戸口に立って見れば、母が譜面台から五線紙を叩き落したようだった。

そこにレナートの筆跡で音符や記号が書き込まれていることから、彼が作曲をしていたのだということがわかる。


汚くなどない。

兄の造り出すものは、筆が滑った後でさえも、美しい。

眉を吊り上げて鼻息荒く、汚いものでも見るかのようにレナートを蔑む母のほうが、余程汚い。

――エルザの目にはそう見えるのに、割って入ることができない。


以前兄を庇おうとしたら、母は彼が血の繋がったエルザを誑かしたとして、泥棒猫の子はやはり汚らしいその血を継いでいるだなどと罵り、余計に事態は悪化したのだ。

事実兄に対して並々ならぬ好意を抱いているエルザは、自分のせいで兄を余計に追い詰めることになったと苦しみ、それ以降こういう場面でも母に強く出られなくなっていた。


白く繊細な指先で、レナートは黙って五線紙を拾い上げていく。


「そんな塵屑に構っていないで、さっさと支度をなさい!先方に失礼でしょう!?」

「申し訳ございません、母上」


感情を殺したような声で答えながらも、レナートは五線紙を拾い上げることをやめない。


「レナート!ワタクシの言うことが聞けないの!?」


床から五線紙の端をめくり上げようとしていたレナートの細い指へ、母がヒールの高い踵を振り下ろそうとする。


「やめて!!!」


エルザは、思わず割って入ってしまった。


「エルザ!!貴女はワタクシの娘でしょう!?どうして貴女があの女の子供を庇うの!?」


“あの女の子供”。

母はレナートのことをそう認識している。

しかし本当に裏切ったのは父だと、エルザは思っている。

母に愛を誓い、それを裏切ったのは父だ。

身分の低い女性など、上位貴族に迫られて断っては命に関わることだってあるのだ。

相手の女性を恨むよりは、父にその矛先を向けるべきではないのか。

ましてやレナートには、何の罪もない。


「何、その目は!?貴女、まさかその男にっ!」


憎しみに目を爛々と光らせた母に、きつく睨まれる。

憐れな母は、その感情を向ける相手を間違えている。

救いようがない。

そう思えば、少し冷静になれた。


「お母さま。今お兄さまにお怪我をさせては、お約束の時間までに手当てが間に合いませんわ。そして、もし手当もせずに席に着くようなことがあれば、先方に余計な詮索をさせてしまいます。どうか落ち着いてくださいませ、私の愛しいお母さま」


慈愛に満ちたような表情で、エルザは母を優しく宥める。

演技と嘘で固めつくしたエルザを見て、母は荒げていた息を少しずつ穏やかにおさめていく。


「ええ、そうね。流石よく分かっているわね、ワタクシの娘だわ」


淡褐色の瞳を母娘で見つめ合わせれば、母の剣幕は鳴りを潜めて落ち着いたようであった。


「レナート、とにかく早くなさいよ。先方に失礼の無いように」


言い捨てて、ツカツカと母は去っていく。

その後ろ姿を見て、エルザは少しの愛情も湧かないことに罪悪感を覚える。

あるのは、憐れみばかりなのである。


あれは、エルザを産んでくれた人だ。

そして娘のエルザには、愛情を持っていてくれる。

だというのに、エルザが敬愛してやまない兄の前では、悪鬼のごとき所業を繰り返す。

素直に母を敬愛させてほしかったと、エルザは日々そんな苦しみに苛まれる。


母が怒り狂う気持ちが、全くわからないわけではない。

侯爵令嬢として大切に育てられた母は、幼馴染でもある父と幼少期に婚約していた。

友情と愛情、そのどちらも父に対して惜しみなく注いで来た母が、父が自分との子を作るよりも先に他の女を孕ませていたと知ったのだ。

その悲しみと憤りは、生涯消えることのないものであろう。


当然夫婦の信頼関係は壊れ、母はそこから頻繁に癇癪を起すようになったという。

格下の伯爵家に娘を嫁がせた母の実家の侯爵家も、娘を蔑ろにされたとして父に辛く当たった。

それでも母が父を愛していたので、彼らの婚姻は続き、今があるのである。

こういった事情であるので、父は母とその実家の侯爵家に頭が上がらず、満足にレナートを庇ってやれないのだ。


「お兄さま。お怪我はございませんか?」


ゆっくりと近寄って兄を見上げれば、悲し気な微笑みを返される。


「すまない、エルザ」


怒りもせず、泣きもせず、美しいままの兄。

誰も彼を穢すことはできないだろう。


「いいえ。お兄さまは何一つ悪くありませんもの」


見上げる神秘的な青紫の瞳に、エルザは一点の曇りも見たことが無い。


「さあ、ご支度なさって。お兄さまのお気に召さないお相手でしたら、エルザが何とか致しますわ」


この世の宝物のような兄は、これから見合いをするのだ。

兄の相手に相応しくない令嬢であったなら、エルザは彼女を排除しようと思っている。

否。相応しくない令嬢に決まっている。

だから排除は決定事項である。

何しろ、母が選んだ相手なのであるから。


「エルザ、それはいけないよ」


神経質そうな美貌に戸惑いを浮かべる兄に、エルザはふわりと笑いかける。


「冗談ですわ、お兄さま。素敵なお相手であることを祈っておりますわ」


兄の繊細な心に、これ以上負担をかけないように。

エルザは柔らかく微笑みながら、彼を送り出した。


見合いは上手くいかないだろう。

もう、侍女たちに根回しはしてある。

母が選んだ令嬢なんて、これまでも碌な相手ではなかった。

兄への嫌がらせに、母は何かしら欠陥のある女をあてがおうとしているに違いないのだ。

あの世界一美しい兄に相応しい、全てが完璧な令嬢でなければ、エルザは認めない。


一度だけ、エルザが兄に相応しいと思った令嬢がいたのだが。

彼女は、別の子息を婚約者として選んでしまった。

身分、成績、素行、そして兄に並び立って見劣りしない美貌と、何もかもが理想であったというのに。

おまけに音楽の天才である兄のヴァイオリンの伴奏を満足にこなし、信頼と愛情を勝ち取ってさえいたというのに。

彼女は何故、兄を選ばなかったのか。

貴族故の様々な因果に、邪魔されてのことなのか。

それらのことを、エルザはまだ調べ切れていない。


許されざる兄への想いを胸に秘め、愛しい兄の幸せのために、エルザは何でもするつもりでいる。

もうすぐ、シレア学園での新しい一年が始まる。

番外編『音楽の天才レナートの家庭事情』をお読みくださり、ありがとうございます!


次話から本編に入って参りますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします!

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