第33話 悪役令嬢の隣は彼のもの
シルヴィオは、客席に座して静かにその舞台を見守っていた。
彼の婚約者が伴奏をする男が、彼女を伴ってもうすぐ舞台に上がってくるだろう。
“早春ヴァイオリンコンクール”というその催しが開かれる今日、肌寒さは残るものの、婚約者と共に馬車から降り立った時に吹かれた風の生温さに、春の訪れを感じた記憶は新しい。
客席の暗闇から舞台だけを光で切り取る照明の下に、燕尾服を着こなす貴公子がヴァイオリンを持って姿を現すと、周囲の囁き声も静まり返る。
それに続いて現れた容姿端麗の美女が、清楚な黒のドレスに身を包んでプラチナブロンドの髪を揺らし、ピアノの前に向かう。
神秘的な青紫の瞳を持ち、透けるほどに白い肌をした神経質そうな美男子――レナート・パレストリーナが紛れも無い天才であることを、シルヴィオはよくわかっている。
音楽を愛する婚約者がその才能に魅了されるのも、仕方のないことであるということも。
それでも妬けるのは、シルヴィオが婚約者を愛している証であり、これもまた仕方のないことである。
奏でられる音楽に耳を傾けながら、シルヴィオは伴奏者ばかりを見つめていた。
プロになるつもりはないと言っていた彼女だが、シルヴィオからすれば、プロとの差なんてわからないくらいに彼女のピアノは素晴らしい。
『チャルダッシュ』という名のこの曲は彼の前世から耳慣れているが、違う曲に聴こえてくるくらいにこの演奏を素晴らしいと感じるのは、天才レナートの手腕によるものなのか、それに付いていくルチアの伴奏が完全に溶け合っている奇跡のせいなのか。
音楽に全てを委ねてピアノを弾くルチアは、とても良い表情をしている。
今あの場に立っている彼に嫉妬しないではいられない。
けれどもシルヴィオは、レナートという人物とその人生を替わりたいかと言われれば、答えは否である。
いくら天才でも美男子でも、音楽が終わってあの舞台から降りて来れば、ルチアの心はシルヴィオのものだと信じられるのだから。
そして彼女が花嫁姿の時、隣に立つのはシルヴィオであるという未来が、約束されているのである。
心からの喝采を送って、シルヴィオは彼らの演奏を愛でた。
以前のように、舞台袖に下がっていく二人に黒い念を飛ばしたりなんて幼稚なことは、もうしない。
出場者が交替するその時間の間に、彼は静かに席を立って控室へ向かった。
「お疲れ様です。とっても素晴らしい演奏でした」
偽りのない賛辞と共に、贈るのは色鮮やかな花束。
「ありがとうございます、シルヴィオ様」
受け取るレナートの表情は、人見知りの彼にしては珍しく柔らかい。
「レナート様」
ルチアが呼びかければ、レナートが振り向く。
「私、レナート様の伴奏をさせて頂けて、とても幸せでしたわ。でも、今日で最後にさせて頂きたいんですの」
その言葉に一番驚いたのはシルヴィオだった。
彼女はいつでも、レナートの伴奏をすることを誇らしく、そして楽しみにしていたのを、良く知っていたのだから。
「きっとそう、おっしゃる気がしていました」
穏やかな微笑を浮かべたレナートは、落ち着いてルチアを見つめ返している。
「ルチア様、貴女は最高の伴奏者でした。これを最後にすることはわたしにとって惜しいことではありますが、わたしたちの演奏はそれを聴いてくださった全ての人たちの記憶の中で、永遠に美しいまま残るでしょう。だから――」
レナートが突然シルヴィオのほうを振り返ったので、シルヴィオは驚いて固まってしまった。
「お借りしていたルチア様をお返しします、シルヴィオ様」
返す、と言いつつ差し出されたのは、握手のための手であった。
シルヴィオはその手をしっかりと握る。
「はい、レナート様。ルチア様のことは、必ず幸せにします」
噛み合わないのは会話ばかりで、彼らの想いは通じ合っていた。
彼らを幸せそうに見守るルチアの頬が僅かに紅潮しているのを、シルヴィオは横目に見ながら愛おしく思った。
「これからは婚約者と二人で、客席からレナート様を応援させて頂きますわ」
シルヴィオの空いているほうの手を、ルチアはそっと握った。
ルチアの隣は、もうシルヴィオのものだった。
帰りの馬車に揺られながら、ルチアはシルヴィオの肩に頭を凭せ掛けていた。
その重みを心地良く受け止めながら、シルヴィオは膝の上でそっとルチアと手を繋いだ。
「ルチア様、ぼく、幸せです」
「私もよ、シルヴィオ様」
甘ったるい声が耳をくすぐり合う。
向かいに座っているロレンツォは、何も聞いていないフリをして窓の外を眺めている。
「ルチア様のお手紙、読みました」
シルヴィオがそう切り出せば、ルチアの身体が目に見えて跳ねた。
「あ、あれはその、ほら…恥ずかしいからその話はしないでっ!!!」
「嬉しかったです、ぼく、ルチア様にあんなに想って頂いていたなんて。特に最後の――」
「やめて、やめて!言わないで!馬鹿馬鹿馬鹿ぁ!」
ポカポカと、ルチアは愛らしい拳でシルヴィオの胸を叩く。
真っ赤になったルチアの両手首を優しく握って止めると、シルヴィオはルチアの額にひとつ口づけを落とした。
「…何、突然!?もう、そんなことどこで覚えてきたのよ馬鹿ぁ!」
翡翠の瞳を潤ませて睨みつけるルチアに、暗灰色の暖かな瞳から熱い眼差しが真っすぐに注がれている。
「どこでもありません。ぼくはルチア様のお傍だけで全てを知っていくんですから」
「そ、そういう口説き文句だって、どこで覚えてきたのよっ!そんなこと言えるキャラじゃなかったでしょ!?」
「ルチア様の美しい瞳が、ぼくに言わせるんですよ」
「もう、もう!馬鹿ぁ!」
言葉とは裏腹に、赤くなって暴れて見せるルチアは本気でシルヴィオを振り払う気配もなく、喜色を示していた。
ルチアの悪戯気な仕草に翻弄されるばかりだったシルヴィオも、ルチアの気を引いて自分だけを見て欲しくて必死なのである。
「それで、あのお手紙の最後の――」
「言ったら縛り上げるわよ!!!」
「…縛ってくださるんですね?言いましたね?約束ですよ?」
「変態、変態、変態!!!!」
「ええ、ぼくは変態です。ルチア様に縛られるなんて想像しただけで興奮します」
「開き直るなー!!!!!」
ルチア渾身のラブレターは、必死だったあの時は大真面目にしたためたものであるが、後になって思い返せば彼女にとって恥ずかしくて仕方がないものだった。
そんな黒歴史も、手紙という証拠の遺る手段を取ってしまったことで、容易には消せない。
シルヴィオは秘蔵のルチアコレクションを、家の者たちにも絶対に見つからない場所に隠しているようであり、ルチアの消し去りたい一通もどうやらその中にあるのだ。
夜な夜なそれを読み返しては、シルヴィオはルチアを想って月を見上げていたりする。
そんな時、彼はルチアが愛おしくてたまらなくなり、生まれて来たことそのものを幸福に感じるのだった。
「縛って踏んでくださいね。勿論ぼくだけですよ、ルチア様」
「あなたしか踏まないわよ!って、何言わせるのよー!!!」
想い合う二人の彼ららしい熱い語らいには敵わないが、確かな熱を孕んだ風が一陣、木の枝を揺らして窓の外を通り過ぎた。
悪役令嬢にもストーカーにも、もうすぐ光に満ちてあたたかな、待ち望んだ春が来る。
第三十三話をお読みくださり、ありがとうございます。
ここまでの流れはいったん完結させられたのではないかと思います!
長くお付き合いくださった皆様も、一気読みしてくださった皆様も、お疲れ様でした! そしてありがとうございます!!
この頁だけ読んでくださった皆様にも、勿論感謝を。
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この作品に触れて頂けた皆様の貴重なお時間が、楽しいものであったり、何かしら感じて頂けるものであったりと、良い時間になっていることを心からお祈りしております!
勢いで書き始めたお話でしたが、思ったより書きたいことが増えて当初の予定より長くなってしまいました。
ここまでを一章として区切って、次話から番外編に入りたいと思います。
お付き合いくださいました皆様に、海より深く、心より感謝申し上げます!!
二章の連載準備も進めて参りますので、これからも見守って頂けますととっても嬉しいです!!
ここまでご愛読くださった皆様へ、今一度心より感謝申し上げます。
夜野音連れ




