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第32話 あなただけのストーカー

冬は少しずつ春にこの世界を譲り渡しつつあり、寒さは日に日に和らいでいく中。

風邪から完全に回復したルチアは、一週間ぶりにシレア学園に登校した。

放課後はシルヴィオの見舞いに行く約束を、ベルトロット伯爵家に取り付けてある。

彼のことばかりが気にかかり、ルチアの体調を気遣う周りにも上の空で気の無い返事ばかりしていた。


待ちに待った放課後になると、迎えに来たロレンツォを急かして馬車をさっさと出す。


「薔薇の花束は準備しておいてくれたかしら?」

「抜かりなく」

「手紙もばっちりよ!ああ、けれど緊張するわ」


花束を贈り始めてから五日。

すっかり回復したルチアは、シルヴィオに渾身のラブレターをしたためた。

久しぶりに顔を合わせる緊張に加え、告白し直すつもりでいるルチアは、そわそわと落ち着かない。

それに、回復してきていると聞いてはいるシルヴィオの容態だが、自分の目で確かめるまでは安堵できない。


逸る気持ちを抑え切れないルチアは、モンテサント邸へ戻ることなく、制服のままでベルトロット邸へ直行する。

初めて通されたその屋敷を、公爵令嬢らしくもなく不躾にきょろきょろと見回してしまう。


(ここが、シルヴィオの家。いつも彼が暮らしている場所、見ている景色…)


好きな男性の家に上がるのは、実はルチアにとって前世も含め初めてのことだったりする。

妙な胸の高鳴りに落ち着かなげにしていると、使用人に案内されて奥へ通される。


扉の前でノックをしてルチアの来訪を告げる使用人。

返事をするシルヴィオの声が裏返っていたのを聞いた時、ほんの少しルチアの緊張が解れた。


「失礼致します」


完璧な淑女の礼をして、ルチアが彼の部屋へ上がる。

後ろに控えるロレンツォの手には、用意してきた薔薇の花束とラブレター。


ルチアがその視線をベッドに半身を起こしたシルヴィオに向けると、明らかに弱って顔色の悪い彼がその場で礼をしようとしていた。


「どうかそのままで、ご無理をなさらないでくださいませ」


慌ててルチアが止めると、申し訳なさそうにしながらシルヴィオが瞼を下ろし、目だけで礼を示す。


「わざわざルチア様に足を運んで頂きましたのに、このようなお見苦しい格好で失礼を致します」


二人きりならこのようなやり取りはしないのに、使用人がいる手前いつものように態度を崩すわけにもいかず、そのことが妙にもどかしかった。


「ご無事なお姿を拝見できて、嬉しゅうございます。お傍に参ってもよろしいでしょうか?」

「ええ、勿論です…!」


堪えきれないものを滲ませたシルヴィオの声が響くと、ルチアももう少しも待てないというように、はしたなくない程度に小さな動作でシルヴィオのもとへ駆け寄った。


「シルヴィオ様…」


その名を呼んで、ルチアはシルヴィオの華奢な手に自分の手を重ねた。


「ご無事でよかった…!」


翡翠の瞳に涙を溜めてシルヴィオを見つめれば、彼もまた暗灰色の潤んだ瞳でルチアを見つめ返した。


「ルチア様こそ…!ぼくのせいでお風邪を召されたとお聞きして、どうしようかと…」

「いいえ、いいえ…!全部私のせいですわ!シルヴィオ様、私…」


背後に控えていたロレンツォが、そっと薔薇の花束と手紙をルチアの手に持たせる。


「受け取ってくださいませ。私の気持ちです」


ルチアは頬を染め、懸命にシルヴィオに熱い眼差しを送る。


「ありがとうございます、ルチア様。目を覚まされてから毎日、お心遣いを頂いて、ぼくは本当に幸せ者です」


やつれた頬を赤く染めて、シルヴィオが礼を述べる。


「こんなものでは、全然足りませんわ!シルヴィオ様、ああ、シルヴィオ様…」


続ける言葉を素直に発するには、ギャラリーが多すぎてルチアは躊躇ってしまう。

ベルトロット家の使用人たちの前で渾身の告白をする勇気は、ルチアにはなかった。


「…あの、できましたら、お人払いをお願いできませんでしょうか?」

「そう、ですね…」


本当は、いくら婚約しているとはいえ、未婚の男女を寝室に二人きりにしてしまうのは、外聞がよろしくない。

しかしそこは、ロレンツォがその場の者たちを上手いこと言いくるめてくれた。


「では、ごゆっくり」


初老の執事を感謝と共に見送って、彼らは二人きりになることができた。


「シルヴィオ様、愛してるわ」


開口一番、ルチアは愛を告げる。


「きゃっ」


ルチアは、華奢な腕に抱き寄せられて驚いてしまう。

やつれた彼のどこにそんな力が残っていたのか、ルチアが容易には抜け出せないくらい強く抱き締められた。


「…ルチア様。お会いしたかったです。ぼくは、こうしてあなたを抱き締める資格なんて無いのに…ルチア様を離したくありません」


熱い身体に抱擁されている。

伝えようと思っていたことが全部吹き飛んで、ルチアはシルヴィオの腕の感触だけを感じていた。

自然と鼓動が高鳴り、呼吸が速くおかしくなる。


「逃げてください、ルチア様。本当はぼく以外の誰かを望むなら、今ここでぼくを拒んでください。でないと…。もう二度と、ルチア様を離して差し上げられなくなります」


シルヴィオのその呼吸も声も、何もかもが熱かった。


「シルヴィオ様…」


胸が痛くて捩じ切れそうなのに、その痛みは甘くて心地良い。

ルチアは恍惚として、シルヴィオをその華奢ながら力強い腕の中から見上げる。


「離さないで。離しちゃ嫌。私を、シルヴィオ様だけのものにして」


暗灰色の瞳が瞠目すると共に、シルヴィオが耳まで真っ赤になる。


「どうして驚くの?あなたでなければ嫌だと言って、強引に婚約を取り付けさせたのは私のほうなのに」


拗ねたような声色で言いながら、ルチアはそっとシルヴィオの背に腕を回して抱き締め返す。

鼓動が重なるように衣服越しにでも身体が触れ合うのが、 気恥しくも心地良かった。


「あ、ええと、その…!る、ルチア様、駄目、です…」


シルヴィオが突然慌てた声で要領を得ない言葉を発し、赤面して狼狽している。


「何が駄目なの?」


ぐっとシルヴィオの顔を覗き込むと、視線を逸らされてしまう。


「そ、そういうことはまだ早いと言うか、その…。婚姻前に、それはまずいというか…」


シルヴィオの妙な挙動の意味を察したルチアは、彼の背から腕を放して胸を突き返し距離を作る。

照れと怒りに真っ赤になりながら、ルチアは息を吸い込んだ。


「そういう意味で言ったんじゃないわよ!この変態!お馬鹿!」


怒鳴り声が響くと、なんだか拗れる前の彼らに戻れた気がして、自然と二人笑い合っていた。


「ルチア様、申し訳ございませんでした。ぼくが不甲斐ないばかりにルチア様を泣かせてしまった上、危険な目に遭わせてしまい…」

「あなたは悪くないわ!全部、私の問題だったのに、あなたを巻き込んでしまった私が悪いの」


シルヴィオの手を片方取って、ルチアはその手のひらに頬を擦り寄せた。

華奢ながらルチアより大きな手は男性らしく感じられ、ルチアはうっとりと瞼を閉じる。


「あなたの愛を信じなかった私が悪いの。私、前世のトラウマを引き摺っていて、惨めな思いをするのが怖かったのよ。でも、あなたの絵を見直して気付いたわ」


うっすらと瞼を開くと、シルヴィオはそんなルチアを頬を赤らめて見詰めている。


「シルヴィオ様が描いてくれた私は、私と見た目が同じだけのキャラの絵ではなかった。今ここに生きてる私を見てくれてるんだって思えたの」


シルヴィオの手を頬から離し、ルチアはそれを両手で優しく包み込んだ。


「なのに、あんな酷いことを言ってしまって、どれだけ傷つけたか。その上、自分だけが辛いみたいな顔をして、レナート様を頼ったりなんかして、浮気だなんて責められても仕方がないわ」


自嘲気味な微笑みを向けると、シルヴィオの熱い眼差しが返ってくる。


「あなたは私を愛していてくれたのに、私はあなたがこんなことをするまでに追い詰めてしまった。許してくれなくてもいいから、どうか償わせて。ずっと傍に置いて。一生かけて私の全てを捧げるわ」


シルヴィオは、もう片方の手をそっとルチアの手に重ねる。

重なり合った手の熱さに、暗灰色の真剣な瞳に、ルチアは動けなくなる。


「ルチア様のせいではありません。ぼくが弱かったから…。自信がなさすぎて、ぼくのほうこそルチア様を信じられなかったから…」


その一瞬ルチアは、見つめ合うシルヴィオの瞳の奥に、もう一人の誰かを見た気がした。

同じ転生者だからこそ、その意味をルチアは理解できる。


「ルチア様と婚約して頂けた奇跡のような幸運に浮かれて、高望みをしている自分を馬鹿にしていました。本来ぼくなんかがルチア様に釣り合う訳がないと思っていながら、ルチア様の全部誰にも渡したくなくて、嫉妬して駄々をこねて、そんなみっともない自分をまた嫌いになっていきました」


かたちは違えど、彼もまた自己否定感に苛まれていた。

それはおそらく、鮮明過ぎる前世の記憶から引き継いだ、彼の人格がそこにいるが故に。

同じだからこそ、ルチアにはわかる。


「ルチア様を悲しませて、信じてもらうこともできなくて、ぼくなんか、変態でストーカーで何の役にも立たなくて…!ルチア様を慰めるレナート様はかっこよくて、ルチア様も本当に信頼してるって伝わって来て、それで、ぼくがいなかったらって…」


どきりと嫌な緊張にルチアの心臓が弾む。

レナートといた時のルチアの姿が彼にそんな気を起させたなら、やはりルチアは自分の罪は重いと思う。


「ぼくじゃルチア様を泣かせてしまうから。ぼくじゃルチア様を幸せにできないから…!ぼくさえいなくなれば、ルチア様はきっとレナート様を好きになって、幸せになれると思ったんです。でも、実際に死のうとしてみると、足が竦んでなかなかできなくて。馬鹿みたいにルチア様のことを考えながら、未練たっぷりに中途半端なところで立ち止まって…。死ねなかったんです、ごめんなさ――」


シルヴィオの言葉の最後は、ルチアの唇に飲み込まれた。

彼の見開いた目に映るのは、近すぎるほどに近いルチアの閉じた瞼と、プラチナブロンドの睫毛を濡らして流れる涙の輝き。

数舜遅れて、唇に痺れるような甘さと体温が与えられていることを、彼は認識する。


「私を幸せにできるのは、あなただけよ。私をこんなに泣かせられるのも、あなただけ。あなたじゃなきゃ、何もかも意味が無いわ」


離れた唇の余韻をまだ感じる。

ルチアの赤らんだ滑らかな頬に伝う涙の筋を、シルヴィオは呆けたように見つめていた。


「で、でも…」


シルヴィオはまだ、自分の価値を信じられないでいる。

そのために、ルチアの特別であるということが腑に落ちない。


「でも、ぼくは…」


シルヴィオは混乱している。

ルチアの言うことを信じたいのに、彼女の言うことがあまりに自分に都合が良すぎて、現実だとは信じられないのだ。


「馬鹿で、取り柄なんて無くて、女々しくて、オタクで、ストーカーで、何も良いところなんかないんです!!ルチア様だって、気に入ってくださったのは見た目だけって――」

「そんなの嘘に決まってるでしょ!?」


どうしていいかがわからなくなり、ぶわりと涙を溢して、シルヴィオは子供のように泣きじゃくった。


「嘘って言うのが嘘だぁ…!うぇええん、ひぃっく」

「もう、泣いてちゃ話にならないでしょ!?」


シルヴィオの身体をあやすように抱き締めて、ルチアは銀の髪を優しく撫でる。


「全部好きよ。そうやってすぐ不安になっちゃう泣き虫なところも、お馬鹿なことを考えて悲観するほどいっばいいっぱいになったりするところも、一生懸命に私を追ってきてくれるところも、全部」

「ルチア様ぁ…うぅ、うわぁあん!」

「それって大事だと思ったものに一途な証拠でしょ?やってることは変態だから変な目で見られるのは仕方ないし、他の人にとってはそういうのが不快に感じることもあるかもしれないけどね。私はあなたのそういうところも全部、愛おしいって思うのよ。だから――」


シルヴィオの泣き顔を覗き込んで目を合わせると、ルチアは美しく微笑んだ。


「だから、あなたのそれは全部、私に頂戴。そうしていれば、誰も不幸にならないし、私は幸せだわ。ね?」


彼が憧れて描いたお姫様の微笑が、彼だけのために綻んでいる。

そしてそれは既にただの憧れではなく、触れて慈しむことを許された最愛の女性なのである。

溜めていた涙を千切るように瞬いて、シルヴィオは破顔しながら頷いた。


「はい、ルチア様。ぼくはあなただけのストーカーです!」

「せっかく良いムードなのに変な言い方しないでくれる!?」


怒ってみせるルチアが本心では喜んでいるということが、シルヴィオにはもうわかる。

ルチアに示された愛情を、彼女の言葉を信じることができたから。


「これからもルチア様の後を付け回してもいいんですよね!?」

「そ、それは構わないけど!人目は気になさいよ!?」

「ルチア様の御髪を拾って頬ずりしても?」

「い、いいけど!他人には見られないように!」

「ルチア様の飲んだグラスに口をつけても?」

「他の人にはバレないようにするならね!?」

「ルチア様に今、キスしても?」


答えの代わりに、ルチアは息を呑む。

どきどきと高鳴る胸を押さえながら、黙って瞼を下ろした。

気配だけでも感じ取れる、近づいて来るシルヴィオを待つ間中、うるさいほどに鼓動する胸が破れてしまわないかと、ルチアは本気で思ったほどに緊張した。


柔らかく唇に押し当てられたものもまた、唇であるというどうしようもない幸福感。

愛情を分かち合う感触が、胸の内側に薔薇色に広がっていく。

奪うばかりでなく与えられた口づけに、ルチアの心は本当の本当に、今度こそ綺麗に溶けていった。

第三十二話をお読みくださり、ありがとうございます。


追いたいストーカーと、追われたい悪役令嬢。

もしかしてこれを、メリーバッドエンドと言うのでしょうか?

でもこれは、ハッピーエンドだと思うので、そういうことにしておいて頂けると有難いです。

次話でいったん完結します。

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