第30話 追われるストーカー
その日、モンテサント邸の自室へ下がったルチアは、部屋の様子の違いにすぐに気づいた。
暖炉の上に掛けられている絵画が、変わっている。
そこにあったのは今朝まで、前世の印象派画家による作品によく似た、淡い色彩の睡蓮だったのだが。
今はその場所から、幸せそうなルチアの微笑が、鏡のようによく似た本人を見下ろしている。
(シルヴィオの絵…)
サロンに掛けてあったはずのそれを移動させたのは、ロレンツォあたりであろうか。
その絵の中のルチアがあまりに純粋に幸福そうに笑むので、今のルチアにはいっそその表情が憎らしくさえ感じられた。
(何よ、私だってずっと幸せでいたかったのに…!私のコピーの分際で、本物を嘲笑うなんて…!)
癇癪玉を爆発させて、ソファにあったクッションをその絵目掛けて投げつけてやろうと振り上げた。
だがそこで手が止まる。
(シルヴィオ…。これが、あなたから見た私だったってことなの?)
手を下ろし、クッションをソファに乱雑に転がした。
絵のタイトルは『憧憬の姫君』、そして作者はシルヴィオ・ベルトロット。
その意味を、今更ながらにルチアは考える。
少なくとも文化祭の前、シルヴィオがこの絵を描いていた時、既に彼の中にいるルチアはこの絵の様な姿をしていたということになる。
この微笑は、ゲームの中で悪役令嬢ルチアが決して見せることのない、現世のルチアが気を許す相手の前だけで見せる、彼女特有の表情である。
つまり、シルヴィオはきちんと今ここにいるルチアを見ていてくれたということだ。
(…私、なんて馬鹿なの!ごめんなさい、ごめんなさいシルヴィオ…)
ルチアは怖かった。
また前世のように、愛を信じた相手からそれを与えられていなかったと知るだけの、道化の様な末路を寂しく受け入れるのが。
期待さえしなければ、信じさえしなければ、そのリスクを回避できるということも知っていた。
けれど、信じてもらえなかった相手が、本当はルチアを心から愛してくれていたとするなら。
それはどれだけの悲しみになるだろうか。
このままでは、ルチアが心に負った傷と同じくらいの傷を、相手にもまた負わせることになるだけなのかもしれない。
(シルヴィオが好きなのに。傷つけて苦しめて、私って最低よ…)
誰だって裏切りは怖い。
敵だとわかっている相手からの攻撃より、信じて背中を任せた相手から切り捨てられるほうがずっと痛む。
だからといって、誰も信じないという選択が良い結果を産むわけがない。
そんなことは、理屈の上ではわかっている。
それでも心が言うことを聞かないのは、トラウマというものの性質上の問題だ。
レナートルートのテーマは、自分との闘い。
そのことを今になってルチアは思い出した。
ヒロインとは似ても似つかないルチアに課されたこの試練は、もしかすると彼のルートに手をつけたこと――彼の純粋な愛情を図々しくも受け取りたがったことによる罰なのかもしれない。
翌朝登校してシルヴィオの教室を訪ねると、彼は欠席していた。
その学級の担任に欠席理由を問うも、不自然にはぐらかされてしまう。
(シルヴィオに何かあったのかしら)
考え始めると、ルチアの不安は雪だるま式に増長していった。
昨日の放課後、音楽室でのレナートとのやり取りを、シルヴィオは見聞きしていたはずだ。
その間、いつもなら感じる黒く漂う怨念のような感情を、少しも感じなかった。
だからルチアは、彼と目が合うまでそこにいることに気づかなかった。
その時点で明らかにいつもとは様子が違う。
(ショックで寝込んでる…?ううん、病欠だったら、欠席理由をはぐらかす必要は無いわ。行方不明?まさか、自殺未遂で重体とか…?そんなっ!)
ひとりで真っ青になったルチアは、慌てて自分の教室へ戻ると荷造りを始めた。
「私、今日は気分が優れませんので、早退させて頂きたいのです」
次の授業の担当教員に早口に伝えるルチアの顔があまりに青いので、教員は信じて彼女を帰した。
ロレンツォに連絡して彼が迎えに来るのを待つ時間は惜しかった。
シレア学園で早退する生徒用に準備されている馬車にモンテサント公爵家まで送ってもらい、ルチアは一度帰宅した。
「ロレンツォ!お願い、シルヴィオ様を探すのを手伝って!」
切迫した様子のルチアに只ならぬものを感じたロレンツォは、黙って彼女の指示通りにする。
まずはベルトロット伯爵家に連絡して婚約者の所在を問い合わせるところからなのだが、使いの馬車が往復する時間もルチアは待てないと言うので、直接訪問することにする。
到着するとすぐ、ロレンツォはルチアが馬車に乗っていることは伏せて、ベルトロット邸の使用人に話を聞く。
子息の婚約者が訪ねてきたと言えば、話が大きくなって余計な時間を食うからだ。
使用人の話によると、今朝シルヴィオはいつも通り登校するため馬車に乗り込んだのだが、シレア学園に着いてみると馬車の中はもぬけの殻だったという。
どこで何のために脱走したのかはわからないが、噂が広がることを嫌ったベルトロット伯爵家はなるべくこのことを内々で処理してしまおうと、今朝から彼をこっそり捜索しているということだった。
「息子がいなくなったっていうのに、何のんびりしてるのよ!」
話を聞いたルチアは馬車の中で憤ったが、ベルトロット伯爵家の考えていそうなことはなんとなくわかった。
シルヴィオには弟がいて、兄がいなくなっても後継者を失うということはない。
それに兄のシルヴィオには、勤勉だという評判の裏に特殊な性癖があるという噂も立っている。
モンテサント公爵家の令嬢との縁談が纏まっているという点で、シルヴィオを次期当主に据えるのが現時点の最良なのであるが。
貴族の婚姻とはすなわち家同士の縁であり、シルヴィオが何らかの事情で家を継げない場合はその婚約者を弟にという判断は、よくあることである。
ベルトロット伯爵はもしかすると、一部に変質者だとバレているシルヴィオより、クリーンな印象の弟を次期当主に据えたいのかもしれない。
(冗談じゃないわ!シルヴィオじゃなきゃ嫌よ!いざとなったら、とっ捕まえて駆け落ちしてやるんだから!)
ルチアはシルヴィオの登校経路を聞き出すようロレンツォに指示し、優秀な執事はすぐにそれを遂行する。
「行くわよロレンツォ!シルヴィオ様を追跡よ!徒歩で動ける範囲なんて限られてるわ!」
「御意」
動き出したモンテサント公爵家の馬車は、聞き出したばかりの経路を辿り始める。
ルチアは砂利道に目を凝らす。
シルヴィオが動き続ける馬車から飛び降りたなら、舗装されていない道の場合、着地点にその痕跡が少なからず見られるはずである。
(焦っちゃ駄目よルチア。舗装された道の場合は地面に痕跡は遺ってないかもしれないけど…何かあるはずよ)
ルチアは考える。
自分がシルヴィオなら、飛び降りる地点をどう選ぶか。
(目的地からそう遠くなく、かつなるべく安全に、人目に付かず…)
馬車が湖にほど近いカーブ道に差し掛かった。
湖側には草木が生えており、目に入った冬枯れの植え込みは、そちらに身を投げれば充分にクッションの役割は果たしてくれそうだ。
そして、そちら側には人の寄り付きそうな道も物もこれ以上ない。
植え込みの一部が窪んでいるのを見つけたルチアは、確信する。
(ここよ!)
馬車の戸をいきなり開け放ち、ルチアは外へ飛び出した。
「ルチアお嬢様!」
ロレンツォの叫ぶ声を背に、ルチアは起き上がる。
細い枝に引っかかった制服が少々破れほつれても、構ってなどいられなかった。
擦り傷が冬の大気に晒される痛みも、擦り剝けた膝や肘から流れる血も、今はどうでもいい。
モンテサント公爵家の馬車が急停車した音が、数十メートル離れた先から聞こえてきたが、ルチアは振り向かなかった。
まずは、先程見つけたシルヴィオの着地点と思われる窪みを目指す。
そこから数メートルに渡り、湖に向かう足跡を見つけた。
ルチアは取り憑かれたように夢中でその足跡を追う。
枯れ葉を踏み、枝を掻き分け、足元が更に傷ついていっても一切無視をする。
視界が拓けたと思った時には、そこは湖の淵だった。
片足が冷水に浸かって痛んで、初めてルチアは我に返る。
前を見ると、銀髪の綺麗に生え揃った頭と、シレア学園の男子制服を纏った胴が繋がって立っている。
その膝上辺りまでは既に湖の中である。
震えながらゆっくりと、やっとのことで足を動かして、彼はもう一歩湖の深いほうへ進んで行こうとしていた。
「シルヴィオ様!」
ルチアは叫ぶ。
すると彼は驚愕して振り返った。
シルヴィオの顔からは血の気が引き、青いのを通り越して土気色に見えた。
気温はマイナスとまではいかないものの、この日はまだ充分に寒い。
これは、入水自殺以外の何者にも見えない。
「ルチア様…ああ、ぼくは遂に幻を…」
ほとんど凍り付いたように強張った彼の顔で、目元だけが僅かに微笑んだ気がしたのも束の間。
ドボンと音を発てて彼の身体が湖に倒れ込み、水飛沫が上がった。
どのくらい彼がそこにいたかはルチアにはわからなかったが、冷え切った足は立っているのも限界だったのであろう。
「――っ!!!」
後先考えずに、ルチアは湖の中へズブズブと歩を進めた。
冷たすぎる水に感覚を奪われ、足を締め上げていくような痛みに苛まれる。
ぷかりと水面に浮いてきた、既に意識の無いらしいシルヴィオの身体を目指して、懸命に足を動かした。
「シルヴィオ様、シルヴィオ様、しっかりして!」
水底にはまだ足がつく。
体温を奪われて力が入らなくなっていく手を、シルヴィオの濡れた制服を掴もうと伸ばした。
彼の身体は仰向けだが、意識が無いのでは浮いてきても上手く呼吸できるか怪しい。
飲み込んた水で気道が塞がっていたらと思うと、目の前が真っ暗になりそうになる。
(落ち着いて、落ち着くのよルチア!)
かじかんだ指が彼の制服に触れた。
シルヴィオの冷え切った身体を、水面を滑らせるようにして引き寄せた。
ずしりと重く冷たい上半身をなんとか抱え上げて、抱きしめた。
「シルヴィオ…ごめんね。全部私が悪かったわ。だから死なないで」
背後で草木を掻き分ける音がする。
ロレンツォの呼ぶ声と、それに続く御者の声がした。
ルチアはそちらを振り返り、シルヴィオを抱えて進もうとするが、意識の無い人間というものは重い。
いくら華奢だとはいえ、男である上に衣服をぐっしょりと水に濡らしたシルヴィオを抱えては、ルチアは進めない。
「ロレンツォ、シルヴィオを助けて」
わなわなと震える唇を、ようやく動かす。
寒い。
凍っていくように感覚を失う身体にシルヴィオを抱える腕だけは、遠のいていく意識の中で放すまいと必死になれた。
ルチアが欲しいのは、失いたくないのは、その瞬間たった一人だけだった。
第三十話をお読みくださり、ありがとうございます。
たまには追われてみるストーカー…とはいっても、足跡をでした。
見守って頂けますと幸いです。




