第29話 愛され悪役令嬢の思い込み
今日は彼らの伴奏合わせの約束の日ではなかった。
けれど、音楽室に来たルチアの様子がおかしいことを察したレナートは、気が紛れるのではないかと言ってそれを提案してくれた。
天才レナートによる『チャルダッシュ』の有名過ぎるヴァイオリンのメロディを乗せて、ルチアの指は華麗に鍵盤の上を動く。
彼らは少しも間違えるということがなく、タイミングも強弱も何もかもぴったりであるのに、レナートにはその違和感がはっきりと感じられた。
ルチアの奏でる音は、いつもはレナートの音楽にのめり込むようにひとつに合わさっていくのに、今はまるで心ここにあらずといった様子がありありと伝わってくるのである。
「…ルチア様。やめましょうか」
曲の途中で、レナートが演奏を中断する。
少し遅れて、ルチアも鍵盤から指を離した。
「…わたしにできることは、ありますか?」
神秘的な青紫の瞳から、斜め後ろに振り返ったレナートは気遣わしげな眼差しをルチアに注いでいる。
繊細な感覚を持つ彼には、ルチアが随分と弱っているのが見て取れる。
だから、とりあえず励ましたり、悩み事を強引に聞き出そうとしたりといった、無粋なことはしない。
ただ、自分を頼ってここに来た彼女の願いを、優しく問うのである。
「レナート様…申し訳ございません。私――」
ルチアは、そのレナートの優しさに触れて、翡翠の瞳からぼろぼろと涙をこぼした。
「いつも皆様の前で猫を被ってばかりだった私の、自業自得なんですの…。公爵令嬢らしく振舞って、優等生ぶって、にこやかに見せていたって、そんなものは私本来の姿ではなくて…」
黙って耳を傾けながら、レナートはピアノの前に座って項垂れるルチアに、そっと近寄る。
「私は、だから誰にも、本当の私を愛して頂いたことがございませんの。今世も、前世も…」
今世や前世という言葉に引っ掛かるものはあったが、彼は口を挟まなかった。
俯くルチアの右手に、彼のハンカチを優しく握らせてやる。
「一秒でも一瞬でも、本当に愛されたことが無いなんて、きっと価値のない女なんですわ…」
ルチアは嗚咽混じりにその声を震わせながら、レナートが貸してくれたハンカチで頬の涙を拭った。
その彼女の空いていた左手を、レナートはふわりと包み込むように握った。
繊細で優しい手のひらの感触が伝わってきて、ルチアは余計に涙が溢れてくる。
「ルチア様。そんな悲しいことをおっしゃらないでください。わたしは…本来、婚約者のいらっしゃるあなたにこんなことを申し上げてはなりませんが…」
青紫の瞳から向けられる真剣な眼差しから、ルチアは目を逸らせなくなった。
神経質そうな美貌に決意を滲ませて、レナートがルチアを真っ直ぐに見詰めている。
「貴女を、愛しています」
聞いてはいけないことを聞いてしまったと、ルチアは思った。
その想いには、応えられない。
「レナート様、ですがあなたは本当の私をご存知ありません。私は――」
ルチアはそこで言葉に詰まった。
レナートに接する時、彼女はほとんど他の攻略キャラたちの時のように、ゲームシナリオをなぞってこなかった。
「ルチア様は時折、作り物めいた意味深な言葉をおっしゃることがありましたね」
レナートの言うそれは、ルチアが攻略のために重要と踏んで発したゲームイベントに添わせた台詞のことのようだ。
「ですが、それ以外の時のルチア様は、わたしの前ではほとんど、教室にいらっしゃる時のご令嬢らしいルチア様とも違って、自然体のルチア様でしたよ。お気づきでしたか?」
ゆるゆると首を左右に振るルチアにも、言われてみれば思い当たる。
「音楽を愛し、その感動を素直に表し、貴女は純粋な目で微笑んでいました。わたしはそんな貴女を美しいと感じ、そんな貴女と接していると心を洗われるような気がしました」
ゲームでのレナートは、人見知りで口数が少なく、親しくなってもツンデレでなかなか素直にならない。
だからこんなにも捻りも誤魔化しもなく、多弁に感情を伝えてくるレナートというのは、もう彼女が前世で知っていた乙女ゲームの攻略キャラとは別人だった。
ルチアの態度が、レナートをゲームキャラとは別人格に見せるまでに変えていたのだろうか。
だとすれば、罪作りなことをしたとルチアは思う。
「わたしが素直なわたしでいられるのは、貴女の前だけです。貴女も同じなのだとしたら、それは奇跡のような特別なことではないかと、いつしか期待していました。けれど――」
シルヴィオと出会わなければ、ルチアはいつかレナートの前でだけ素直な自分に気づいていたのだろうか。
「貴女は彼の…シルヴィオ様の前で、もっと色んな表情をされていました。だから、貴女の一番はわたしではないのだと、わかっているつもりです」
一番や二番というよりは、ルチアの中での明確な違いは恋心の有無だった。
シルヴィオだけに感じた唯一無二を、レナートに対しては持たなかった。
けれどもし、シルヴィオに恋をしていなかったら――。
「幸せな時は、どうぞわたしのこの気持ちのことは忘れていてください。けれど、貴女がご自分を無価値に感じて辛くなることがあれば、どうか思い出してください。ルチア様を何より尊いお方だと思っている男は、少なくとも世界に一人はここにいます。わたしは、叶わなくても、この心だけは貴女に――」
「そ、そんな!いけませんわ、レナート様。そのお心は、将来あなたの伴侶となる女性のために、とっておいてくださいませ。私のようなくだらない女には、そんな綺麗な想いは過ぎたものです…!」
ルチアの自己否定感の根底にあるのは、前世の記憶である。
唯一愛を捧げて無様に捨てられた相手が最悪な事に結婚詐欺師、そのトラウマから女としての自分の価値を感じられなくなって、理屈ではない部分で自分にも相手にも信頼ができなくなってしまったのだ。
それを溶かすようなレナートの言葉は、ルチアにはあまりに優しすぎる。
「これがわたしの素直な心です。貴女が愛しいと、尊いと思う気持ちは、例え貴女に否定されても変えることはできません。これは、わたしの想いだからです」
レナートの白すぎる頬に赤みが差し、青紫の瞳が熱く潤んでいる。
ルチアの手に触れる彼の手の温度が上がっていく気がする。
彼の気持ちにルチアが応えられないことを知っていて、レナートはルチアにこんな綺麗な想いをくれるというのだ。
無償の愛、という言葉が脳裏を過ぎる。
ルチアの頬をはらはらと流れていく涙の温度も、いっそう熱くなったように感じた。
「レナート様、私…」
女は自分の愛する人より、自分を愛してくれる人と一緒になったほうが幸せになれる、という前世で聞いたいかがわしいと思っていた言葉をふと思い出した。
「私、シルヴィオ様を愛しておりますの。でも…」
レナートが見ていたルチアは、公爵令嬢としての余所行きのルチアでも、ゲームキャラの悪役令嬢ルチアでも、上辺だけでヒロインの真似事に徹する偽りのルチアでもなく、紛れもなく今ここにいるルチアだ。
そしてそれを、彼は信じさせてくれた。
「シルヴィオ様のほうは…私、わかりませんの。その恐怖を、レナート様は拭ってくださいます。こんな…」
優しすぎる想いに触れて、溶けた心にそれが染み込んでくるような気がする。
レナートの澄んだ心に触れれば触れるほど、ルチアの中にはそれに縋りたくなる、どろりとした怠惰で濁った感情が芽生えそうになる。
「こんな弱い私には、そんな優しさはいけませんわ…」
もし、好きになったのがレナートだったなら。
レナートを好きになれたら。
今からでも――。
ぐちゃりと視界が歪んでいく気がした。
溶かし出されたルチアの苦しみが、怠惰と自己嫌悪に泥のように濁って溢れ出しそうな錯覚に囚われた。
「私の心は醜いんですの。汚れています…私、楽になってしまいたい」
暗い微笑みを湛えて涙を流していても、レナートはルチアの手を離さなかった。
それ以上も以下もないだけの美しく示される愛情とは対照的に、ルチアの内側から心が腐食していくようなおぞましいものがせり上がってくる。
レナートのこの手を拒絶できないどころか、欲しいと思う。
愛しているのはシルヴィオだけなのに、シルヴィオだけを求められない。
その弱さと浅ましさを、ルチアは自分で侮蔑する。
「どうかそんなに…優しくしないでくださいませ」
溺れていく間際の懇願のように、ルチアはレナートに苦しげに告げた。
そんなルチアの心を測りかねたように困惑に眉尻を下げたレナートは、ゆっくりとルチアの手を離して労しげにルチアを見詰める。
誘惑を振り切るようにぎゅっと瞼を閉ざしたルチアは、肩で息をした。
「ルチア様…」
好きな女性が心細げに苦しんでいるのを見れば、抱き締めて守りたくなる気持ちはレナートにも確かにあった。
けれど彼は、優しく名を呼び見守るだけでいる。
そのレナートの誠実さが、ルチアの心には最後の誘惑の蜜のようにどろりと落ちた。
(シルヴィオ…。私、本当に浮気者なのかしら)
助けを求めるように、ルチアは音楽室の扉に目を向ける。
そこは僅かに開いていて、暗灰色の瞳とほんの一瞬目が合ったと思うと、さっとその気配は扉の裏に回る。
(全部見ていたのね、シルヴィオ…)
今なら、浮気だと責め立てられれば、素直に謝れるかもしれない。
ただしそれは、シルヴィオだけを求めてずっといられるという、ルチアの自信と揺るぎない愛と引き換えに。
第二十九話をお読みくださり、ありがとうございます。
ストーカーの本領発揮、負の念を送ることなく気配を消しての尾行&覗きに成功です。
悪役令嬢とストーカー、お似合いの二人を目指してまだまだ奮闘して参りますので、今後もよろしくお願い致します。




