第28話 尾行は続くよどこまでも
ロレンツォは追われていた。
それも、ゆっくりゆっくりと。
「…シルヴィオ様。こんな爺を尾行して、まさかルチア様からこのわたくしに乗り換えるおつもりで――」
「違います」
ロレンツォの冗談を本気の勘違いと受け取ったのか、シルヴィオは慌てて姿を現した。
もうすぐ放課後という時間帯、ルチアを迎えに行くために馬車から校門へと歩いていたロレンツォを、この時間まだ学園で授業を受けていなければならないシルヴィオが、何故尾行しているのか。
ロレンツォの脳内には疑問符が飛び交う。
「ロレンツォさん、ぼくはルチア様に嫌われてしまいました」
言いながら、シルヴィオは滝のように涙を流し始める。
「た、助けてください…!」
ぼたぼたと涙が冬の大地を打つ。
目の前の厄介な生物からロレンツォは目を逸らしたくて、どうすればこんなに涙が流せるのだろうかと、ぼんやり考えた。
「ルチア様ぁ…ルチア様ぁあぁあ…!うぅっ、ひぃっく」
「……」
ロレンツォは、彼がお世話する大切な令嬢が、何故こんな非常識で泣いてばかりの男を選んだのか、納得いかなかった。
当初ルチアが未来の婚約者候補として考えていたのは、もっとまともで好条件の男たちであったはずである。
彼女が心から愛せる相手に巡り会ったことを一度は喜んだロレンツォであったが、その相手が以前捕まえたルチアを尾行していた変質者と知るや、苦い表情にならざるを得なかった。
以降も彼らが一緒にいるところを何度も見ているが、優秀なこの執事は、不可解で変質的なシルヴィオの素行を心からは許容しかねる。
「初めは、ルチア様のお姿を見られるだけで…同じ空気を吸っていられるだけで、よかったのに…ひぃっく」
涙塗れのシルヴィオに、とりあえずロレンツォはハンカチを差し出してやる。
「それだけじゃ、我慢出来なくなって…。後をつけて…ルチア様のものを拾って…うぅっ」
ロレンツォから受け取ったハンカチを目元に当てて泣くシルヴィオだが、両目のある場所にすぐに涙が染み込んで、湿った丸が二つ滑稽に並んだ。
「話かけてもらえた時は…怒られてるって、わかってたけどぉ…うぅっ。嬉しくってぇ…。想いだけでも、伝えられたらって……うわぁあん!」
ハンカチは既にぐっしょりである。
「それだけで、満足できると…思ってたのにぃい…!どんどん欲張りに…なってしまって……。ルチア様に、捨てられたくないぃ……ふぇぇえん!」
ロレンツォは困った。
こんな情報では助けてやろうにも状況が何もわからない。
こんな男を喜んで助けてやりたいとも思えないのが本音であるが、そこはルチアの将来の伴侶ということを考えれば、放っておくわけにもいかない。
「シルヴィオ様。何をなさってルチアお嬢様に嫌われたのですか?」
シルヴィオは泣き顔からハンカチを離し、潤む暗灰色の瞳から必死な眼差しをロレンツォに向け、嗚咽を抑えて話し始めた。
ルチアとレナートが一緒に演奏していたことを浮気だと言って騒いだことから、前世の話がルチアの気に障ったらしいことまで。
「つまり一番の問題は、シルヴィオ様がお慕いしておられるのは今のルチアお嬢様本人ではなく、前世で見かけられたその登場人物としてのルチアお嬢様であると、お嬢様に思われてしまったことですね」
「…ロレンツォさんは、前世なんて話を信じてくださるんですか?」
「ええ、ルチアお嬢様からも前世のお話を伺っておりましたから」
シルヴィオはロレンツォのこの態度に驚きはしたが、今はそれに構ってはいられない。
「ぼく、考えたこともなかったんです。ルチア様はルチア様だと思っていましたから、他の人を見ていたと思われてしまうなんて、その、なんというか…ぼくも混乱していて…」
「ルチアお嬢様もシルヴィオ様も、前世への未練が強すぎてあらゆることを混同しているようにお見受けしますね」
「そう、なんでしょうか…」
頼りない上に奇行ばかり繰り返す婚約者ではあるが、ルチアのその未練を断ち切るには、シルヴィオと幸せになる以外ないだろうとロレンツォは思っている。
その相手がもっとまともな子息であればより望ましかったのだが、公爵令嬢がそう何度も婚約破棄と婚約を繰り返すわけにもいかず、ロレンツォとしては渋々ながらであるが彼らの仲を応援するしかない。
「シルヴィオ様は、ルチアお嬢様のどんなところをお慕いしていらっしゃるのですか?」
「お美しいところや、良い匂いがするところは勿論、誰より努力家なのにそれを隠して涼しい顔をして見せる強がりなところも、たまに悪ぶってても本当はすごく情に厚くて優しいところも、隙が無いように見えて実は寂しがり屋なところも、何より親しい人にだけ見せるあの女神の様な笑顔が…全部大好きで、愛しくて、ルチア様のことで頭がいっぱいです」
もし見た目だけという答えが返ってきたら、流石のロレンツォも彼を溝に放り込んで放って帰ったかもしれない。
しかし、シルヴィオは半端な付き合いのあるルチアの友人たちと比べて余程、彼女の本質をよく見抜いた上でそこをきちんと好いているようだ。
「なるほど。シルヴィオ様は、前世では乙女ゲームというものの中に登場するルチア様の性質を、何もご存知なかったわけですよね?」
「はい。恥ずかしながら、見た目だけで好きになりました…」
「同じ見た目の女性なら、同じように好きになれますか?」
「いいえ、それは無理だと思います。ルチア様のことを知ってしまった今は…。ぼくの知っているルチア様でないと、お慕いできません」
「そのあたりをきちんとお伝えになれば――」
その時、終業を告げる鐘が響いた。
シルヴィオは、いてはいけない時間と場所にその場にいたことを隠すためか、すぐに木陰に身を潜めた。
やがて、無駄に広い校庭に下校しようとする生徒たちの姿が現れ始める。
「シルヴィオ様、いつまでそんなところにいらっしゃるおつもりです?」
「……」
ロレンツォが声をかけても、シルヴィオは動かない。
しばらくすると、ルチアが一人で歩いて来るのが見えた。
シルヴィオが隠れている木陰に視線を送って眉を顰めたのを見て、ロレンツォは彼女が婚約者の存在に気付いたと確信する。
「ロレンツォ」
ルチアの余所行きの声が響く。
その表情は、完璧な公爵令嬢を演じている時のものである。
「ごめんなさい、今日は用事ができてしまったの。校舎が閉まる頃にもう一度迎えに来てくださるかしら?」
ルチアの顔に貼り付いているのは、目が腫れていることを除けば、完璧な作り笑いである。
「承知致しました」
執事は恭しく頭を下げ、公爵令嬢に従う意を示す。
「ではまた、後程」
くるりと背を向けて、ルチアは優雅な足取りで校舎に逆戻りを始める。
それを一分ほど見送った頃、木陰でガサガサと動く気配があった。
「…きっと、音楽室です」
今にもまた号泣を始めそうな悲壮な表情のシルヴィオが、ルチアの後ろ姿を見つめている。
そしてそのままフラフラとした足取りで、彼女の後をついていこうとする。
「シルヴィオ様。差し出がましいようですが、今はルチアお嬢様は貴方とお会いしたくないのでは?」
ロレンツォのほうを振り返ったシルヴィオもまた、先程大泣きしたせいか、目が腫れている。
「そうかもしれません。でも、ぼくはどうしても…。ぼくの知らないところで、ルチア様とレナート様が二人きりになるのが怖いんです。だって、だってルチア様は…」
華奢な拳を握り締め、シルヴィオはそれをふるふると震わせている。
「レナート様の前では、他の人の前と違って、あの笑顔を見せるんです。以前はロレンツォさんの前でしかしなかった笑顔…少し前まで、僕にも見せてくれていた、あの素敵な表情を…。レナート様には見せるってこと、ぼく、知ってるんです…!」
堪えきれなくなった涙を溢すと同時に、シルヴィオは小走りでルチアの後を追った。
距離が詰まったところで、それがお得意のコソコソとした尾行に切り替わるのを、ロレンツォは離れた場所から見た。
そんなことをどうして知っているのか、なんていう無駄な質問は、この執事の頭には無い。
彼もまた知っている。
シルヴィオがいつもルチアを付け回し、彼女のことを真っ直ぐに見ていたということを。
その行為の善し悪しは、この際言うまい。
もしルチアがレナートの前であの笑顔を見せるというのが本当であれば、彼女はレナートに心を許しているということになる。
ロレンツォから見ても、シルヴィオが心配になるのも無理のないことかもしれなかった。
(ルチアお嬢様。ご自身の幸せを見誤りなさいませんよう)
ロレンツォは、ルチアが前世のトラウマを克服して幸せになることを、心から願っている。
幼いころから世話をしてきた令嬢であるということは勿論、彼女の前世での逝去が六十三歳の時というのも、現在六十二歳のロレンツォには響くものがあるのだ。
彼女の未練を、今世に託す願いを、理解できないわけではない。
けれど今の彼女はルチア・ヴェルディアナ・モンテサントとして新たな生を受けた身であることも事実である。
ルチアが“今”を生きられるようになるには、今回のことを乗り越えることは必須なのかもしれない。
そういった意味では、彼女の相手が同じ転生者であることは、運命的な巡り合わせと言えなくもない。
人の波にうまく擬態してルチアを尾行する銀髪の男子生徒を、令嬢想いの執事はなんとも複雑な気持ちで見送った。
第二十八話をお読みくださり、ありがとうございます。
流石ストーカー、初老の執事までを尾行しました!
次回はルチアもレナートも登場させますので、またご覧頂けますと嬉しいです。




