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第26話 悪役令嬢とストーカーの浮気の条件

音楽室でルチアとレナートが『チャルダッシュ』の初合わせをした翌日である。


「あれは浮気です!」

「浮気じゃないわよ!」

「婚約者のぼくの目の前で、あんなに仲睦まじくしておいて!」

「指一本触れてないじゃない!」

「ひとつになっていたではありませんか!」

「音楽的にでしょ!?」

「何的にでも、あんなに絡み合っていっしょくたになって、浮気じゃないなんておかしいです!」

「あなたがそんな言い方するから、おかしく聞こえるのよ!」

「ルチア様の浮気者!ぼくはこんなにルチア様だけを想っているのに…!」

「あなたしか踏んでないでしょお!?」


いつも気弱に泣いているばかりだったシルヴィオが、この時ばかりは強気に主張を曲げない。

婚約して初めて、彼らはこれほどに拗れて大喧嘩をしていた。

ルチアの言い分もおかしくなってきたところで、怒鳴り合っていた彼らは肩で息をしながら、フンッとそっぽを向いて反対向きに歩き出した。


その日から、二人の間にぎこちなさが生まれ、段々とおかしな溝ができ始めた。

ルチアに素直に声をかけずに、ストーカー行為を再発したシルヴィオ。

それをわかっていながら、気づかない振りをしてみせるルチア。

こうなっては、意地の張り合いで何の解決もしない。


(伴奏してるだけで浮気認定するほうがおかしいんじゃない!音楽はいかがわしい行為じゃないのよ!?だいたい、オーケストラなんて何人一緒に演奏すると思うわけ!?)


沸騰する感情を持て余し、心の中で抗議するルチアであるが、彼女にもなんとなくシルヴィオの気持ちがわからないでもなかった。

もしシルヴィオがそれなりに楽器ができて、他の異性と二人きりで息ぴったりの演奏をするところを見せつけられたら、ルチアだって少しは妬いたかもしれない。

過去に頭の可笑しくなりそうな酷いヴァイオリン演奏をしていたシルヴィオのことだから、音楽の中身なんてわかっていないものと侮っていたのは、ルチアの認識の誤りであったのだろう。

絵の得意なシルヴィオには、大きく括って同じ“芸術”に属する音楽に対しても、そこそこの感性が備わっていておかしくない。


(私がレナートに合わせることを嬉しいと思ってるのが、多分伝わったのよね…?)


かといって、それを浮気かと問われれば、やはり断じて違う。


(だいたい、シルヴィオだって他の女の子と何か一緒にすることくらいあるでしょ?)


何かなかったかと思い返してみる。

それが、何も思いつかなくてルチアは困った。


(私が悪いの…?でも、こんなのって束縛よね?)


それでもシルヴィオが好きかと問われれば、好きだというのがルチアの答えである。

しかしながら、ルチアは音楽も純粋に好きで、せっかく伴奏をさせてくれている音楽の天才であるレナートと縁を切れと言われれば、それだって辛い。


(これってもしかして、究極の二択なの!?好きな男か、音楽かっていう…)


ルチアはプロのピアニストになる気はない。

将来はシルヴィオと結婚し、ベルトロット伯爵夫人になるつもりである。

だから先を見越した賢い選択をするなら、趣味を捨ててでも愛する人を優先するのはひとつの手かもしれなかった。


(でも、音楽は、薬みたいなものなのよ)


前世から、時には精神安定剤代わり、また時には麻薬のような役割までを、ルチアにとって果たしてきた音楽。

それを彼女の中から切り離そうとするなら、それは断末魔の叫びを上げるほどの痛みになるだろう。


(もう!レナートのこと好きなわけじゃないって言ってるのに!どうしてここまで、悩んであげなきゃいけないわけ!?やっぱり理不尽よ!シルヴィオが我慢すればいいじゃない!?)


悪役令嬢がこんなことで悩むというシナリオを、ルチアは見たことが無い。

ヒロインにしても然りである。

余裕の攻略が不可能な現状に、ルチアは苛立った。


大喧嘩から三日後。

この日もルチアは、レナートと音楽室で練習をする約束をしていた。

背後には、尾行してくるシルヴィオの気配がある。


(勝手にすればいいわ…!私は、悪いことなんてしていないのだし。これは浮気に含まれるわけのないことだもの!)


胸を刺すような痛みと、尾行されることによって愛想を尽かされていないのだと安堵できる自分を知り、ルチアの感情がぐちゃぐちゃに掻き回される。

こういう時こそ、彼女の麻酔薬となってくれるのは、いつでも音楽だった。

だからこそルチアは、そんなルチアを最愛の人にわかってほしくて、意地になっている。


(そんな贅沢言えると思っているのが傲慢で、このままでいれば嫌われてしまうのかしら…)


不安を背に、音楽室に足を踏み入れると、既に準備を整えたレナートがそこにいる。


「ルチア様。今日はシルヴィオ様を中へ入れて差し上げなくてよろしいのですか?」


繊細な感覚を持ったレナートには、シルヴィオの尾行はお見通しである。


「あれは、いないものだと思って下さって構いませんのよ。勝手に後をつけて来ただけですから」


複雑な表情を浮かべながらも、レナートは頷く。

扉の外から負の念を送られているのを無視して、その日も必要なだけ練習をした。

帰り際に嗚咽が聞こえても、尾行するばかりで姿を現さないシルヴィオを、ルチアはいないものとして扱い続けた。


「馬車を出して」


婚約してから、大回りになってもシルヴィオと同じ馬車で帰ることが多かったルチア。

隣に誰もいないことに、何も感じないわけではない。


(もう、どうしてこうなっちゃうの!?)


ルチアの不安は限界に近く、今にも癇癪を起こしそうだった。

もともと前世の傷を引きずっているルチアは、恋愛面で精神的に強い方ではないらしい。


「こんな不安になるなら、恋なんてしたくないわよ…!」


ルチアは幸せになりたかった。

そのためには犠牲も必要なのであろうか。

いくら転生悪役令嬢ルチアでも、欲しいものの全てを手に入れることはできないのかもしれない。


その夜、ルチアは枕を濡らして泣きじゃくった。


(私を一喜一憂させないで!もう、夢中になるのは怖いのよ!こっちが夢中になったら、捨てられる時、愛されてなかったって知った時、生きていけなくなるじゃない…)


その恐怖は、前世の記憶から来るものである。


ルチアの知っている転生悪役令嬢といえば、ここまで前世を引き摺らないパターンが多かった。

記憶さえ曖昧であるという設定も少なくない。

なのにルチアには、前世の記憶があまりにもガッツリ有った。

まるで今、身体だけを替えて、六十三年間の前世の続きを生きているように感じるくらいに。


(生まれて来た時から勝ってると、思ってたのにね。先天性のトラウマ持ちだなんて、もう何の罰なのよ…)


虚しい泣き笑いを浮かべて、天蓋付きの豪奢な寝台で寝返りを打つ。


(助けて、シルヴィオ…。あなたしか、愛せないのよ)


強気で強情な公爵令嬢ルチアだが、ひとりでいて心細い時にだけは、素直に心の中で縋った。

その声が届くはずもなく、助けを求めて伸ばした手を取るのは、今は明け方の眠気と短い夢だけである。


翌朝、ロレンツォや侍女たちが苦心した結果、ルチアの泣き腫らした目を隠し切ることはできなかった。


(この気配…シルヴィオね)


馬車を降りて校門から校舎へ向かう、無駄に長い距離の間。

ルチアは背後によく知る気配を感じる。

しかし今日は特に、腫れた目を見られたくなくて、彼女は振り返らない。

足取りは重く、教室へ向かうことすら億劫に感じられた彼女は、ふらふらと脇道に逸れていく。

いつしか無意識に、初めてシルヴィオの顔を見た日に通った小道に来ていた。


(こんなところに来ちゃって…授業はもう、遅刻ね)


授業をサボったことなどない優等生ルチアが、無断で姿を現さなければ、それはちょっとした騒ぎになるかもしれなかった。

しかしルチアには、今から真っ直ぐ教室へ向かう気も起きない。


「ねえ、シルヴィオ様。ついてきてるんでしょ?」


木陰に感じる気配に、振り返らないままで声をかける。

ガサリと枝を掻き分ける音がして、シルヴィオの気配が素直にルチアに近づいてきた。


「ストップ!それ以上来ないで」

「…どうして、ですか?」


久しぶりに耳にするシルヴィオの声は、弱々しく掠れている。


「顔を見られたくないの」

「それは…ルチア様が、ぼくのルチア様じゃないから…?」

「違うわよ!目が腫れてるからよ!」

「じゃあ、レナート様に泣かされたんですか…?」

「どうしてそうなるのよ!」


疑心暗鬼過ぎるシルヴィオに、ルチアは思わず向きになって声を荒らげる。


「だって、だって、ルチア様、ぼくのことなんて少しも、見てくださらないから…」


嗚咽が聞こえた。

顔を見られたくなかったはずなのに、ルチアは振り返ってしまった。

これだって惚れた弱みだと思うのに、シルヴィオには伝わっていないのだろう。


「それは、ぼくはオルランド王子やアドルフォ様やレナート様みたいに、華やかな容姿はしていないし…。ルチア様に初めてお会いした時も、対象外だなんて言われてしまいましたけどっ…!」

「あなたもしかして、()()()って言ったことを気にしてたの…?」

「当たり前じゃないですか!好きな人に、男として見てもらえない宣告を受けたんですよ!?」

「あれは、そういう意味じゃないのよ!!」


ルチアの言った()()()というのは、ゲームにおけるモブキャラで、()()()()()という意味である。

それをおそらく、シルヴィオは恋愛対象外という意味に受け取ったのだろう。

しかし、それをこの場でどう説明していいかもわからず、ルチアは口ごもる。


「例えルチア様が、本来ぼくと結ばれる運命じゃなくても、婚約者だって言ってくださるなら…!心も全部、他の人になんて譲りたくありません!」

「運命って…何のこと?」


ルチアの目には、シルヴィオもまた、見えない何かに怯えているように見えた。


「ルチア様のこと一番好きなのは、絶対ぼくです!だって、前世から好きだったんですから!」


前世。

その言葉に瞠目したルチアの時が止まる。

始業の鐘が鳴って、それがぐわんぐわんと耳の奥を揺らす間も、ルチアは凍り付いたように動かなかった。

第二十六話をお読みくださり、ありがとうございます。


シルヴィオにとっては、きっとルチアが他の人を踏んでも浮気なんでしょうね。

変態の主張とルチアの癇癪、見守ってやって頂けると嬉しいです。

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