第25話 変態婚約者の嫉妬
モンテサント公爵家のサロンに、立派なグランドピアノがある。
ルチアはそこで日課のピアノの練習をしていた。
毎日二時間が基本なのだが、ここ数日はその時間が長い。
またレナートのヴァイオリンの伴奏をするので、その準備をしているのだ。
「ルチア様ぁ、ルチア様ぁ…」
雑音――もとい、婚約者のすすり泣きが聞こえる。
しかしルチアはそちらを振り向きもしない。
傍にいたいというので、大人しく聴いているならと招いたのだが、構ってほしそうな目で見ているだけでは耐えられなくなった彼は、ルチアの名を呼び始めた。
「ルチア様は…ぼくを捨ててピアノと結婚するんだ…うぅ、ひぃっく」
聞こえてきたその声を可愛いと思ってしまったルチアだが、ぐっと呑み込んでピアノに集中する。
本来練習しているところなんて他人に見せるものではないのに、そこへ招き入れている時点でシルヴィオは自分の特別なのだと、ルチアにすれば充分に示しているつもりであった。
しかし、公害レベルに酷いヴァイオリン演奏を披露したことのあるシルヴィオからすると、そんな事情は察せられるものではないだろう。
「ずるいです、それ…。ペダル…。ぼくもルチア様に、踏まれたい…」
ルチアの右足を見つめながら切なげに涙を溢すシルヴィオは、華は無いものの美形であるだけに、ピアノの蓋に映ったその表情にルチアは絆されそうになる。
しかし、言っていることは変態である。
「ぼくも、踏んでください…。練習しながらでいいから、踏んで…!」
公爵令嬢に相応しい豪奢なドレスにハイヒールを纏ったルチア。
その空いている左足に、シルヴィオは床を這って縋りつきに来た。
「ちょ、ちょ、ちょっと…!」
流石のルチアも鍵盤から手を放し、床に伏せて上目遣いにいじらしく見上げる足元の婚約者に視線を遣った。
「踏んでください、ルチア様ぁ」
不覚にも可愛いと思ってしまったことを隠すように、ルチアは左足を精一杯振り上げる。
「邪魔しないでよ、この馬鹿!」
「あぐぅっ」
ヒールの踵を背中に食い込ませてやると、シルヴィオは嬉しそうに悲鳴を上げる。
(これ、結構…悪くないかも)
ルチアの中で、支配欲に似た暗い炎が目覚めそうになる。
(…て、こんな奴に合わせてたら私まで変態になっちゃうじゃない!?)
変態の悦ぶ声を掻き消そうと、ルチアはピアノの練習を再開する。
「ルチア様、もっとぉ…!」
左足に自然とかかる体重は、曲の場面に合わせてその圧力が変わる。
その度にシルヴィオがおかしな声を上げるのを、ルチアはなるべく聞かないようにした。
(この公爵令嬢ルチア様が、変態の声の伴奏をしているなんて、認めない!)
別にシルヴィオの嬌声の伴奏をしているわけではないのだが、一瞬でもそう思ってしまった自分にルチアは腹を立てた。
(この!この!この変態!)
チャルダッシュの旋律を乗せるために鮮やかに指を滑らせるルチアの伴奏に、ハイヒールの下敷きにされた婚約者の嬉し気な悲鳴が混じり続けた。
翌日の放課後、シレア学園でレナートと合わせの約束をしているルチアは、音楽室へ向かっていた。
「ついてこないでって言ってるでしょ!?」
華奢なくせに振り払おうとすると凄い力でしがみ付いて来るシルヴィオを、引き摺るようにしてルチアは歩く。
「レナート様と二人っきりで…何をするんですか」
「練習だって言ってるでしょ!?」
「嘘だ…ルチア様、浮気するんだ…」
「しないわよ!」
涙目のシルヴィオを愛らしいと思ってしまうのは惚れた弱みというやつなのであろうが、しかし練習の邪魔をしそうなシルヴィオをルチアは連れて行きたくないのである。
「ぼく以外踏まないで、ルチア様ぁ!」
「馬鹿じゃないの!?あなた以外踏まれたがらないわよ!」
こんな婚約者に呆れながらも嬉しいと感じている自分にも、また呆れる。
彼をロレンツォに任せてくればよかったと、ルチアは後悔していた。
「ルチア様…ぼくのルチア様」
その言葉に、不覚にも胸を掴まれるような甘さが走る。
「…大人しくできる?」
こくこくと頷くシルヴィオが忠犬のようにしおらしく見えたので、ルチアはすっかり絆されてしまった。
「黙って座って聴いてるのよ?絶対に邪魔しないでね?」
「はい!ルチア様!」
シルヴィオは、涙を晴らして満ち足りて破顔する。
この顔にルチアは弱いのだ。
「…と、いうわけなんですの、レナート様。座っているだけですので、この部屋にいさせて差し上げてもよろしくて?」
神経質そうな美貌を歪めて僅かに不快を滲ませたレナートであったが、婚約者のいる相手と二人きりという状況に後ろめたいことを疑われるのも本意ではないので、しぶしぶ頷いた。
「ありがとうございます」
にこりと優雅に微笑むルチアの気遣いを台無しにする黒い念が、音楽室の最もピアノに近い最前列の席に陣取ったシルヴィオから飛んでくる。
(あのお馬鹿っ!)
「…ルチア様に踏まれていいのはぼくだけ…」
しかもシルヴィオは小声でとんでもないことを口走った。
「ぷっ」
レナートが噴き出した。
「ふっ、あははっ!ルチア様、ご婚約者を踏んでいらっしゃるんですか?ふははっ!」
物凄く珍しいことに、レナートは腹を抱えて笑い出した。
「た、頼まれたので、一度だけですわ!わ、私の趣味ではございませんことよ!」
焦ったルチアは間抜けにも正直に答えてしまう。
「これは、敵いませんね。わたしではどのみち、ルチア様のお相手はつとまらなかったということですね」
「私の趣味ではないとっ!!」
赤面しながら、ルチアは貼り付けていた公爵令嬢の仮面も剥がれ落ちて、必死に叫ぶ。
「シルヴィオ様。伴奏をして頂くだけですから、少しルチア様をお貸しください」
シルヴィオの前へ歩み出たレナートが、礼儀正しく礼をする。
人見知りの彼にすれば、かなり気を遣ってくれているのであろうとルチアには察せられる。
「ぼくだけのルチア様なのに…」
それでもシルヴィオが不満気に小声を漏らすので、ルチアはシルヴィオの耳を引っ張った。
「痛い痛い痛いですぅ、ルチア様ぁ!」
「大人しくしてないと縛り上げるわよ」
縛り上げられることを想像したのか、シルヴィオは頬を紅潮させてだらしなく口元を緩めた。
「もうっ!レナート様、こんな馬鹿は放っておきましょう!」
さっさとピアノの前に腰掛に行ったルチアだが、レナートはまだシルヴィオの近くで笑い声を上げていた。
(変態だとは思ってたけど…そっちの属性が入っていたとはね。まあ、逆よりはいいかしら)
いくらでもシルヴィオに甘くなっていくルチアである。
レナートも満足に笑い尽したところで、彼が譜面台の前でヴァイオリンを構える。
シルヴィオからじっとりとした気配が漂ってはいるものの、それを凌駕するほどに空気が変わる。
モンティ作曲の『チャルダッシュ』は、超絶技巧で知られる名曲である。
正直、ピアノ伴奏も馬鹿にできない難易度なので、ルチアは緊張して挑んでいる。
伴奏から始まる曲なので、レナートの気配に全神経を集中しながら、ルチアは鍵盤に指を置いた。
音楽が始まると、ルチアは完全にその世界に入り込む。
レナートのヴァイオリンが入ってくると、ルチアはいつも通りそこに身を委ねていく。
天才レナートの織り成す音の芸術に、ただ絡め取られていくようにルチアは溶け込む。
前世から純粋に音楽を愛してきた彼女にとって、それが至福で、いつでも恍惚としてしまう。
この時ばかりは、いくらシルヴィオが真っ黒な視線を突き刺すように投げかけていようと、構っていられないのである。
一通り曲が終わって、レナートの青紫色の神秘的な瞳がルチアを振り向く。
自然と、ルチアも翡翠の瞳を輝かせてレナートに微笑みかけた。
ガタンッと、座っていたシルヴィオが立ち上がる音が鳴る。
「…失礼します」
彼は俯き加減に、黙って音楽室を出て行った。
「追わなくてよろしいのですか?ルチア様」
「え、ええ…。そうですわね」
困惑して眉尻を下げるルチアは、動けないでいた。
あんな様子のシルヴィオは今まで見たことがない。
けれど、今日はもともとレナートと練習する約束をしていたのだし、別に悪いことは何もしてない。
後ろめたいことが無いからこそ、シルヴィオをこの場に座らせていたつもりなのである。
(いったい、何だっていうの…?)
「…レナート様、練習を続けましょう」
「本当にそれでよろしいのですか?」
レナートの白すぎる頬が、もう一度気遣わし気に振り返る。
「本日はお約束しておりましたし。邪魔が入らないうちに練習しておきませんと、またいつ戻って来るかわかりませんし」
ぎゅうと音を発てそうに痛む胸と、背中を伝う嫌な汗がルチアを苛む。
頭のどこかで警報が鳴っているように感じるが、それでもルチアはここに留まることを選ぶ。
(だって、悪いことなんてしてないもの!)
シルヴィオのことなど振り払うように、そこからも練習を続けた。
音楽に集中している時だけは、全て忘れてそこに真剣になれる。
ルチアは生半可な気持ちで音楽に向き合っているつもりはない。
だからこれは、レナートに浮気心があってのことではないと、胸を張って言えるのだ。
それなのに、シルヴィオは何故あんな態度を取ったのかと、この時のルチアは腹を立てさえしていた。
第二十五話をお読みくださり、ありがとうございます。
ストーカーという設定だけだったのが、段々とあらゆる変態を極めていくシルヴィオですが…。
愛想を尽かさず、ゆるっと眺めてやって頂けますと幸いです。




