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第21話 蜜月と嫌がらせ

ルチアの脳内では、お花畑で妖精たちがワルツを踊り狂っていた。


(初めてちゃんと両想いの人とキスしちゃった)


重いドレスに高いヒール、完璧な公爵令嬢の装いで、モンテサント公爵家の廊下をルチアは軽快なスキップで進む。

暗闇の中で強引に好きな人から奪い取ったあれが、彼女の今世でのファーストキスである。

そして、前世では惨いことに唯一キスした相手が結婚詐欺師であったので、ルチアはその憐れな黒歴史の記憶を、今回の記憶で塗り潰して葬り去ることにした。


(約束守ってくれるわよね?数日もしないうちに、彼が私の婚約者よね?)


あまりの喜びに、踊り場でくるりと一回転し、ドレスの裾とプラチナブロンドの髪をふわりと舞わせた。


(もし約束破ったりなんかしたら、ベルトロット伯爵家に乗り込んで直談判してやるんだからっ!)


そんな物騒な情景は言葉にするだけで、想像しなかった。

ルチアは今度こそ、幸せになれると信じている。

欲しいものを欲しいと、ちゃんと言えたのだから。


その日の夕飯の席で妙にルチアがご機嫌であった理由を、モンテサント公爵は翌日知ることになる。

ベルトロット伯爵家の長男シルヴィオが、一度縁談を辞退したことを誠心誠意詫びた上で、弟ではなく自分をルチアの婚約者にと頼み込んで来たのである。

モンテサント公爵は、ルチア宛てに預かった彼女を美しく描いた絵の作者名がシルヴィオであったことを、よく覚えている。

だから、この展開はすっきりと腑に落ちた。


「お互いよく見知っているようだから、見合いは省略するということで、お前も合意するね?」

「はい、お父様!」


父の前では、ルチアも飛び跳ねたり回ったりすることは控えた。

しかしその表情は、これ以上ないほどに幸福に満ちている。

本人たちが急いだこともあり、この婚約は間もなく正式に纏まった。




「ルチア様、お昼をご一緒にいかがですか?」


婚約が確定した翌日から、シルヴィオは堂々とルチアを誘うために何かと彼女の元を訪れるようになった。


「ええ、勿論喜んで」


優雅に微笑み、ルチアは誘われるままに彼の手を取る。

そんな風景が日常になってから、少し困ったことが起こり始めた。


「お持ちします」


昼食にとルチアが持って来ていたバスケットを持ち上げようとすると、シルヴィオがにこりと微笑みながら紳士的に荷物持ちを買って出る。


「痛っ」


しかし取っ手を握った瞬間、シルヴィオの手に痛みが走った。


「ちょっと!見せて」


すぐにその手を、ルチアが自分のほうへ引き寄せる。

華奢な手を裏返して手のひらを上に向けると、きめ細かな肌にガラス片のようなものが刺さり、ぷつりと赤い血を滲ませていた。


「手当しなきゃ!医務室へ行くわよ!」


バスケットを置いて、ルチアはシルヴィオを医務室へ連れて行こうとその手首を取る。


「このくらい、大丈夫です。せっかくのお昼なんですから…」


しかし彼はバスケットを再び持ち上げようと手を伸ばす。


「駄目よ!手当が先よ!」

「ルチア様」


さりげなくルチアの耳元に唇を寄せたシルヴィオが、他の誰にも聞こえないよう小声で呼びかける。


「またあの視線です。おそらく手当てして戻って来ても、また何かを仕込まれているのが関の山です」


そこまで言うとシルヴィオは、ルチアの耳元から顔を遠ざけつつバスケットを持ち上げた。


「わ、わかったわ」


耳元で囁かれたくすぐったさに妙にぞくぞくとしながら、ルチアはほんのりと頬を染めてシルヴィオに頷いて見せる。

上品に柔らかくシルヴィオはルチアに微笑みかけ、怪我をした手のひらの血でルチアの制服を汚さないよう気を付けながら、美しい姿勢で彼女をエスコートする。

ストーカーでしかなかった頃が嘘のように、今では彼はルチアの自慢の婚約者だった。


「中庭へ行きましょう」

「わかりました」


教室を出て行く彼らを、じっとりとした視線はまだしばらく追ってきていたが、いくつめかの角を曲がる頃にはもう彼らはそれを感じなくなった。


「また同じ犯人かしらね」

「ええ、多分」


最近多いのだ。

このような、ルチアかシルヴィオのどちらでもいいから、被害に遭うように仕組まれた悪戯が。

怪我までしているという現状、これをただの悪戯と呼んで良いものかも、怪しくなってきている。

このままエスカレートして大事に至らないうちに、何かしらの対策を講じるべきであろう。


「ルチア様、どうぞ」


中庭に着くと、シルヴィオがベンチにハンカチを敷いて、ルチアの座る場所を作る。


「ありがとう」


ルチアはそんな、古風ではあるが、大切にされたい乙女の憧れを具現化したようなシルヴィオの振る舞いに、毎回胸が高鳴ってしまう。


「ねえ、手は本当に大丈夫なの?」


ルチアはシルヴィオの前では、公爵令嬢の仮面を脱ぎ捨てて砕けた口調で話すことが多くなっていた。

幸い中庭は貸し切り状態で、彼らの他に人影はなく、ルチアは遠慮なく素のままでいられた。

真冬の中庭で昼食を摂ろうなどと考えるほうがどうかしているのであるが、婚約したての彼らは蜜月のような幸福の最中にあり、寒さなどものともしないほど熱い視線を交わし合っている。


「ええ。大したことはありません」


そうは言うが、ルチアはシルヴィオの怪我をした右手をもう一度引き寄せ、その手のひらを太陽の光の下で確認し直す。

ガラス片は取り除かれていたが、小さな傷口からは血が滲み出して、彼の手のひらの中心を薄赤く濡らしていた。


ルチアは唐突にその手を口元へ持っていき、ぺろりとその血を舐めとった。

シルヴィオの手のひらを、濡れた舌が滑る感触がくすぐる。


「ルチア様っ!?!?」


慌てふためいて顔中真っ赤に火照らせたシルヴィオが、そんなルチアから目を離せないままに瞠目する。


「ふふっ」


妖艶に微笑んで、ルチアは優しくシルヴィオの手を彼の膝の上に返してやる。


「お返しよ。色々とね」


その“色々”の中に含まれるのは、彼のこれまでの変態行為であったり、単に彼女をどきどきさせる紳士的な振る舞いであったりした。


「さあ、昼食にしましょう」


そう言ってルチアが膝の上でバスケットを開いても、シルヴィオはまだのぼせ上がって真っ赤に硬直したままだった。


(かわいいんだから)


婚約者のこんな反応を見ると、ルチアは愛されていると感じられる。

自分ばかりがどきどきさせられていると、彼女は不安になってしまうタイプだった。

だからこうして、大胆な悪戯を時折仕掛けないではいられない。


「ほら、口を開けなさい」


バスケットから取り出したサンドイッチをルチアが差し出すと、真っ赤なシルヴィオが恥ずかし気に口を開く。


「むぐぐっ」


そっとそのサンドイッチを頬張ったシルヴィオの口に、ルチアは勢いをつけて詰め込めるだけ詰め込んだ。

噎せたいのにそれを我慢して、口を閉じたまま涙目になっているシルヴィオの頬は、リスのように膨らんでいる。


「あははっ!ふふっ!」


そんな状況に彼を追い詰めた張本人であるルチアは、嬉しそうに爆笑する。

言いたいことがあるであろうシルヴィオは、とにもかくにも口を自由にするために必死に咀嚼する。

その様子を横目に、またルチアは笑い声を上げる。


「ふっふふふ!あなたって、かわいい」


付き合いたてのカップルがいちゃついているだけに見えるこの情景を、実際にシルヴィオのほうではそう解釈したであろう。

しかしルチアは、胸の奥でほんの僅か、ちくりと刺すような痛みを感じていた。


こうしてシルヴィオを翻弄していると思っていなければ、ルチアは不安なのだ。

主導権が自分にあると思えないと、相手を信じられない。

前世で負った心の傷が、彼女をまだ苛み続けている。

ルチアからすれば何の罪もないシルヴィオを、手放しで信じてやれないことが、彼女に自分の心を汚れたもののように感じさせていた。

ストーカーが罪だと思わないルチアのほうがどうかしているということは、この時の彼女の頭には無かった。


「ルチア様、酷いです…」


ごくりと嚥下したシルヴィオが、暗灰色の瞳に涙を溜めたまま、恨めしさと嬉しさを綯い交ぜにしたような表情で抗議する。


「あら。こんな悪い女に引っかかったあなたの自業自得じゃない?」


不敵に微笑むルチアは、余裕のふりをせずにはいられない。

シルヴィオが齧ったサンドイッチに、彼女はさも当然といった様子で齧りつく。

彼の歯形が彼女の歯形で齧り取られていくのを見て、シルヴィオは息つく暇もなく慌てる。


「ル、ルチア様!」


ルチアの小さな口は、上品に咀嚼を繰り返す。


「何?」


慌てっぱなしのシルヴィオを満足そうに見上げる翡翠色の瞳に映る景色は、ルチアがようやく手に入れた奇跡のような幸福そのものだった。

好きな人が自分の挙動で一喜一憂している。


「何って…ルチア様、そんなことをされると…」


赤らめた頬を更に赤くしていくシルヴィオが、ルチアは愛おしい。


「あなただって似たようなことをしていたくせに、私にされると困ることでも?」


そう言われると、負い目があるシルヴィオは言葉に詰まってしまう。

数秒視線を彷徨わせた暗灰色の瞳が、ルチアの翡翠の瞳にその視線を戻す。


「…困るのはルチア様のほうですよ。あなたの婚約者として恥ずかしくない振る舞いをと思って、ずっと我慢しているのに」


いつになく真剣な声色でそう告げるシルヴィオの眼差しが、焦げそうに熱い。

ルチアの心臓が、トクトクと騒いだ。

壊れ物を扱うように丁寧にルチアの肩に手をかけて、シルヴィオは優し気な目元を潤ませてその顔をルチアに近づけていく。


(この前は暗かったからできたけど…は、恥ずかしい)


あれからキスをしていない。

彼のほうからされるのは初めてだ――そう思いながら、期待に胸を高鳴らせて待つルチアは、ゆっくりと瞼を下ろす。

しかし――。


「え、あ…ちょっと!」


シルヴィオの顔はルチアの耳の横を通り過ぎ、彼の鼻が髪の香りをクンカクンカと嗅いでいた。

そしてプラチナブロンドの一房を掬い上げ、そこに頬ずりし始めた。


(髪フェチなの!?そうなのね!?変態は所詮変態ってこと!?)


ピキピキと青筋が立つ音が聞こえてくるのではないかというほどに、ルチアは急激な怒りに震えた。


「期待させておいてがっかりさせるんじゃないわよ、この変態!!!」


耳元で怒鳴られたシルヴィオは、びくりと震えあがって飛び退いた。


「ご、ごめんなさい!!!ごめんなさいぃいいい!!!!」


銀の髪がさらりと揺れて頭が下げられる。

ルチアは肩で息をしながら、その懐かしい風景を涙目で睨みつけた。

第二十一話をお読みくださり、ありがとうございます。


嫌がらせを受けるだなんて、まるでヒロインにでもなったかのような悪役令嬢ルチア。

惚気る変態たち(?)、好みは分かれるものかもしれませんが、お楽しみくださる方がおひとりでもいらっしゃれば幸いです。

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