第1話 モブとの遭遇
ルチアは追われていた。
それも、ゆっくりゆっくりと。
「ロレンツォ、次の角を右に曲がったらあなたは速度を落として直進して」
一歩後ろに従えている執事に作戦を告げる。
「私はすぐに更に右に曲がって広場へ向かう小道に入るわ。あの男が小道へ入ったら、あなたは気づかれないようにそこの角に戻って来て。その後はわかるわよね?」
その小声は、この距離ならば姿を隠しながら追ってきている男には、聞こえていないはずだ。
「御意」
耳障りの良い低音ヴォイスで、背後の執事が静かに返事をした。
あと三歩…二歩…一歩…くるりと右の道へ入る。
ロレンツォが速度を落とした気配があった。
この道は、大人の男一人がやっと通れる程度の幅しかない。
今ならロレンツォの影に隠れたまま小道へ入れる。
くるりともう一度右へ。
人工的に作られたであろうその散歩道は、左右に植えられた草木が青々と茂り、一見するとちょっとした森の小道のような風体である。
舗装されていない道も、制服スタイルでローファーを履いている今なら楽に歩ける。
重いドレスやハイヒールに慣れた公爵令嬢ルチアにとって、ここは不利なフィールドではない。
「さあ、追っていらっしゃい」
ルチアは、撒いているのではない。
追わせているのだ。
「今日こそ顔を見てあげるわ」
執事と離れて、一人きりの今なら。
そして、撒くためにロレンツォと別れたと思っているこの状態なら。
その男は確実に、執事の後ではなくこちらを追ってきて、それも油断しているはずなのだ。
放課後のこの時間、学園内でもここは滅多に人通りが無い。
数時間図書室で時間を潰し、わざわざこの時を待っていたのだ。
さあ、一人だ。
我が身を囮にした、一見捨て身の戦法。
木々の後ろに隠れながら追って来ようとすれば、当然その身が触れた草木が音を鳴らす。
背後の気配を正確に感じる。
「ふふ…」
ルチアはくるりと身を翻し、今来た方向へ一気に駆けだした。
「待ちなさいっ!」
当然のように、追ってきていた男は逃げて行こうとする。
しかし、相手は姿を見られたくなくて、木の陰を縫うように進む。
男の足とはいえ、足場の悪いところをわざわざ選んで走らねばならないのだ。
そう簡単には逃げおおせないだろう。
「観念しなさい、このストーカー!」
男が入って来たほうの小道の入り口にようやく辿り着く。
――否。ルチアがそちらへ追い詰めたのだ。
「ふっふふ!」
息を切らせながら、ルチアは不敵に笑む。
「ロレンツォ!」
ルチアが叫ぶと、ばっと躍り出た執事が、小道から出ようとしていた男を取り押さえた。
「あぐぅ…!」
「ふっふっふ!捕まえたわよ!」
ロレンツォによって地面にうつ伏せで押さえ込まれた男は、ルチアと同じ学園の制服を着ていた。
(んん…?こんな髪色のキャラいたっけ…)
銀色のサラサラとした綺麗な髪が生えた頭が、そこにある。
「ロレンツォ、とりあえず正座でもさせて」
「御意」
優秀な執事が、器用に男を正座させる。
学年ごとに色の違う胸のバッジは、ルチアの赤とは違って、青色。
青は一年下、下級生だ。
この時点で、ルチアが思っていた展開とは違う。
「とりあえず顔を上げて見せなさい」
おそるおそる、震えながら男が顔を上げた。
「ご、ごめんなさい…」
気弱そうな暗灰色の瞳いっぱいに涙を溜めて、彼は謝罪した。
「なんで…」
ルチアは瞠目する。
「なんでモブなのよっ!!!」
そして叫んだ。
(攻略キャラのうちの誰かだと思ったのに…!!!!)
こんなはずではなかった。
ルチアは、自分が攻略中の誰かだと思っていたのだ。
しかし、こんな男はルチアは知らない。
少なくとも、ゲームには登場していなかったはずだ。
それに、悪役令嬢ルチアがストーカーされているなんて描写も、なかったはずだ。
だからこそルチアは、自分がストーリーに逆らった行動をしてきた結果だと踏んで、攻略キャラのうちの誰かだと思っていたのだ。
「ごめんなさい…」
色白で貧弱そうな銀髪の下級生は、そんなルチアの意味のわからない叫びに対して、心底申し訳なさそうに謝罪した。
「もう、いいわよ!ロレンツォ、放してあげなさい」
「…よろしいのですか?」
「いいの!そいつは対象外だから!」
ロレンツォは、押さえつけていた彼を放してやった。
「うっ…うっ…うぁあああん!」
彼は泣きながら走り去って行った。
「な、何あれ…?逃がしてあげたのに大泣き?」
ルチアは、呆気に取られてしばらく立ち尽くした。
「…帰るわよ」
「御意」
これ以上その場にいても仕方がないので、校門に向かう。
そして、モンテサント公爵家の家紋が入った豪華な馬車で、悪役令嬢らしく帰っていくのだ。
公爵令嬢ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントには、物心ついた時から前世の記憶があった。
そして、彼女が今生きているこの世界は、前世でプレイした乙女ゲームの世界で、ルチアというキャラは悪役令嬢である。
そのゲームの名は、何の捻りもセンスもない、『愛憎のシレア学園』。
貴族子女が通う学園で、爵位の低いヒロインが悪役令嬢にいじめられながら、スペックの高いヒーローたちと愛を育んでいくという、王道ストーリーである。
転生悪役令嬢。
それをよく聞く設定であると誰よりも思ったのは、実はルチア自身である。
前世のルチアは、悪役令嬢が前世の記憶を使って破滅ルートを回避する、という設定の物語が好きで、そういう小説や漫画を好んで読んでいた。
だから、自分が本当にそういう設定を持った悪役令嬢として転生してきたこの人生を、最高に楽しんでいる。
彼女は前世で思っていた。
せっかく前世の記憶があって、ヒーローたちの攻略法がわかっているのに、単にバッドエンド回避で終わるなんて勿体ない。
自分が悪役令嬢に転生したら、例えヒロインでなくとも彼らを攻略できるということを、証明して見せるのに――と。
そしてそれを実現する機会を得た今世。
ゲームの舞台となるこのシレア学園へ入学した十五歳から、キャラの攻略を始めた。
ルチアにとって幸運だったのは、このゲームのヒロインは、三年間ある学園生活の三年目に編入してくるという設定であることだ。
ゲームストーリーで描かれるのは卒業までの一年間。
しかし、ルチアにはこの学園での生活は丸々三年ある。
ヒロインより余程有利な状況で、攻略に取り掛かれるわけである。
更には、このヒロインのスペックが、ルチアにとって大した脅威にならない。
プレイヤーが感情移入しやすいようにと作られた設定であろうが、ヒロインは美人でも才女でもない。
素朴で親しみやすい容姿として描かれ、学園での成績は平均的。
そんなヒロインは、攻略キャラたちと交流を深めていく中で、その“信頼”と“絆”を決め手に愛を勝ち取っていく。
可愛くもないのに何故かモテるという無理矢理な設定ではなく、プレイヤーが選ぶ選択肢こそが先の展開を左右するこのゲームは、努力で恋が叶うという夢を与える内容が功を奏し、前世で熱狂的なファンを獲得していた。
つまり、何をどうすれば攻略キャラたちとの絆を深められるか知り尽くしていて、その上に公爵令嬢という身分と、容姿端麗という設定を持っているルチアにとって、そんなヒロインは敵ではないのである。
勿論、ゲームのようにヒロインに対して姑息な嫌がらせなどしないのだから、断罪イベントなんて起こりようがない。
勝ち組確定だと初めから高笑いしているルチアは、今世をエンジョイするために、公爵令嬢という立場をフル活用して最高の教育を受け、自分のスペックを上げることにも余念がなかった。
更に前世の記憶が丸ごとあるのだから、同じ法則でできあがっているこの世界で、理数系科目など復習にすぎず、前世でも勉強好きだったルチアは天才児扱いされた。
正直、私Tueeeと年がら年中思い続けているのだが、高飛車なのは内心だけ。
外側は文句の付け所の無い公爵令嬢を演じている。
素を見せるのは、唯一気を許している執事のロレンツォの前だけである。
プラチナブロンドのふんわりとした長い髪。
形良くぱっちりとした切れ長の目に、輝く翡翠色の瞳。
上品に通った高くて細い鼻筋。
小さめの口は、下唇のほうが少し厚めで艶めかしい。
それがルチアの顔立ちである。
肌は勿論、沁みもなく滑らかで真っ白。
身長は女性の平均より少し高めで、中背以上の男性なら隣に立って引き立ててやれる。
そして、豊満な胸に括れた腰と、スタイルも抜群。
彼女は、知性と愛らしさと色気が上手く調和している今世のこの容姿に、何一つ文句はない。
生まれて来た時から勝っている。
ルチアはそう思っていた。
第一話をお読みくださり、ありがとうございます。
ゆるゆると連載して参ります。
ストーカーとの恋なので、ちょっと変な性癖に走ることになるかと思いますが、お気に召しましたら、お付き合いいただけますと幸いです。