第12話 悪役令嬢の文化祭
シレア学園では、秋の終わりに文化祭が催される。
ルチアの前世において文化祭の定番であった、模擬店の出店などは無い。
貴族子女が通うこの学園においては、出し物として高い完成度の文化的演目や展示を求められる。
全校生徒が学園に併設された劇場に集まり、一日中舞台を鑑賞することがメインの日となり、休憩時間は主にロビーに飾られた展示物を鑑賞して過ごす。
まず、学級ごとに必ず一つずつの出し物を義務付けられている。
その他に、個人や団体が有志で生徒会に出し物を事前申請し、認められればそれが文化祭の出し物として正式に登録されるということになっている。
シレア学園二学年目のルチアは、オルランドと同じ学級であるので、この学級の出し物として共に演劇に携わることになっている。
また、アドルフォを含めた“仲良しグループ”でも、野鳥のスケッチと観察記録を展示作品として出品することになった。
ルチアにとって一番楽しみなのは、レナートのヴァイオリンのピアノ伴奏である。
幸いというべきか、ダミアーノとは違う学級であり、この文化祭絡みで関わらずとも済む。
浮かれ気分で臨むこの文化祭に、ルチアの心は躍った。
学級の演劇では、本物の王子オルランドが王子役を、ルチアは彼と結ばれる隣国の王女役を演じた。
「王子様、この窓からお逃げになってください。私が追っ手を引き付けておきますから、その間に」
「いけません、姫!あなただけにそのような危険な役目を、させる訳には参りません」
「ですが、このままでは二人とも悪い魔女に捕まってしまいますわ」
「あなたのことは、必ずお守します。この命に替えても」
ここで、王子役のオルランドが王女役のルチアの手を固く握る。
どこにでもありそうな物語であるが、オルランドとルチアが美男美女であるので、学園中が彼らの演劇に見入っていた。
その中から、痛いほどに強い真っ黒な視線が突き刺されているのだが、その出どころはルチアには明白だった。
「悪い魔女め、姫を離せ!この剣を受けるがいい!」
「ぎゃー!」
「王子様、助けて下さってありがとうございます」
ありきたりの展開の末、ルチアは台本通りにオルランドの胸に飛び込んだ。
その時、どす黒い念が飛ばされてきた方向が一方向ではないように感じたのは、ルチアの錯覚であろうか。
「姫、どうかわたしと結婚してください」
「喜んで」
「あなたに永遠の愛を誓います」
ここで、キスをするフリをする。
あくまで、フリである。
しかし、何だか四方八方から負の念が飛んでくる気がする。
これは、オルランドのファンの女生徒たちのものであろうと、ルチアは解釈した。
(気にすることは無いわ。オルランドの好感度は…上がり過ぎてるかしら?)
二人が見つめ合うところで、ゆっくりと幕が下りていく。
儚げな美貌に喜色を浮かべて、オルランドは頬を紅潮させていた。
碧い瞳がうっとりとルチアに眼差しを注ぐ。
ただ役に入り込んでいるという表情には見えない。
「ルチア…君にもし、婚約者がいなかったら」
ぼそりと、オルランドが小さく呟く。
その声は、幕が舞台を完全に閉ざす瞬間のほんの刹那、幻のように消えていった。
「お疲れ様」
次の瞬間にそう口にしたオルランドは、先程の呟きなど無かったようにして、いつものように美しく微笑んだ。
「お疲れ様でした」
ルチアは内心で困惑しながら、微笑み返す。
好感度は、どう見ても必要以上に上がり過ぎている。
居心地の悪い焦りに、嫌な汗が滲みだした。
(これ以上は、危険ね)
ルチアには既に婚約者がいる。
いくら王子とはいえ、外聞も考えればそれを無理に奪い取ることはしないであろうが。
王命でオルランドとの結婚を強制されれば、ルチアには断る術が無い。
流石にそんなことまでするとは思えないが、メリーバッドエンドの病み切ったオルランドのスチルが一瞬、脳裏を過った。
野鳥のスケッチと観察記録は、特に教師陣に好評であった。
「ルチア様のスケッチが一番丁寧で綺麗だと思いますわ」
アドルフォルートの悪役令嬢ロベルタから、掛け値なしの賛辞が贈られる。
「まあ、ありがとう。ロベルタ様の観察文は、こうして展示されると一目で要点がわかる構成で、私感動致しましたわ」
「ルチア様にお褒め頂けるなんて、嬉しいですわ」
ルチアは前世でも現世でも優等生である。
頭脳派のロベルタとは話も合うし、アドルフォの攻略のことがなければもっと親しくしたかったのが本音であったりする。
前世で得た学術的な知識についても、ロベルタならば理解してくれるかもしれない。
そんな思いに耽りながら、皆で作り上げた野鳥の記録を眺めつつゆっくり横に移動していると、何かに躓いた。
「きゃっ」
「おっと」
逞しい腕に支えられた。
「お怪我はありませんか、ルチア様」
「ええ」
見上げると、アドルフォの茶褐色の瞳がルチアに熱い視線を注いでいた。
筋肉質な男らしい腕が腰に回される感触が、いつまでもそこにある。
アドルフォは、なかなかルチアを放そうとしない。
「あ、あの…。もう大丈夫ですわ」
「…失礼しました」
ルチアの指摘でようやく、その腕はルチアを優しく立たせて放した。
「い、いえ。ありがとうございます、アドルフォ様。私、ぼうっとしてしまって」
「ルチア様もわたくしも、これらの鳥のように自由であったなら…」
力強い眼差しが、ルチアを捉えていた。
「…え」
ルチアは瞠目する。
アドルフォの好感度は、上手く調整できているつもりだったのだ。
「いえ、忘れてください」
微笑むアドルフォの精悍な顔立ちには、彫刻のように美しく鍛え上げられた体躯に不似合いな、どこか寂しさが漂っていた。
(このルートもこれ以上は進められないわね)
この段階に来ていてロベルタが抗議して来ないのが、不思議なくらいである。
事がこじれて騒ぎにならないよう、細心の注意を払わなければならない。
ルチアは、文句の付け所の無い公爵令嬢でいなければならないのだ。
この文化祭でレナートと演奏するのは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番、いわゆる『スプリングソナタ』『春』などという愛称で親しまれている名曲中の名曲である。
燕尾服に着替えたレナートが舞台へ上がると、それに続いて黒いドレスに身を包んだルチアも歩み出す。
ルチアの至福の時が始まるのである。
ヴァイオリンを構えたレナートがルチアを振り返ると、青紫の神秘的な瞳の輝きが真っすぐにルチアの翡翠の瞳に向けられる。
ルチアの指が調弦のためのAの音を鳴らすと、確認するように弓を滑らせたレナートのヴァイオリンはいつものごとく既に狂いなく整えられていた。
この曲はピアノとヴァイオリンが同時に始まる。
ルチアはレナートの呼吸と意思に全神経を集中し、彼の音楽に心地良く溶け合うように鍵盤を奏でていった。
こうしていると、ルチアはレナートの音楽の一部になれる。
ルチアだけではなく、ここにある世界の全てがレナートの音楽の一部であるようにさえ感じる。
恍惚としながら音楽に身を任せていると、夢の時間はあっという間に終わってしまった。
鳴り止まない大きな拍手と、誰かの『ブラボー』と叫ぶ声が響く。
客席の一点から黒い念が飛ばされていることにルチアは気づいていたが、そんなものは気にならないくらいに、この時のルチアは心から幸せであった。
礼をして舞台袖に下がっていくと、照明の下から抜けてその暗闇へ足を踏み入れた瞬間、レナートに手を握られた。
背にした舞台の更にその向こうの客席で、喝采はまだ続いている。
「…レナート様?」
「ルチア様。秋のこの日に、春の異名を持つこの曲を選んだのは、わたしの気持ちを表すためです」
神経質そうな美貌が真剣に強張り、ルチアの手を握る力が痛いほどに強くなる。
ゲームではツンデレキャラだったはずのレナートの様子が、どうもおかしいと思ったのはこの日が初めてではなかった。
「貴女の伴奏は…いえ、貴女という女性は、暖かく清廉な光で包み込む、春のようだ」
透き通るほどに白い頬を赤く染め、青紫の瞳を潤ませて、レナートはルチアを射るように見据えた。
喝采が緩やかに静まり、彼らの世界が静寂に呑まれていく。
やっと手を離されても、ルチアは緊張が解けないままに立ち尽くした。
「形のない心だけは、何にも縛られない、ありのままでいたい。音楽のように。だから…それだけです」
それだけ言うと、ヴァイオリンを抱え直して、レナートはルチアの前を横切って着替えに向かってしまう。
ルチアはそこからまだ数十秒、動き出せないままにおかしな呼吸をしていた。
レナートは、ルチアに婚約者がいることも、貴族社会の都合もわかった上で、心だけを捧げると言ってくれたのだろうか。
(これじゃ、あまりにも…。私、悪い女じゃない)
レナートの攻略については、ルチアはかなりゲームの流れから逸脱した方法を取って来た。
いっそ、攻略そっちのけで、彼の音楽と接することを楽しんできたくらいである。
ルチアの中では、他の二人に比べ、最も攻略できていないキャラという認識であった。
(好感度が上がり過ぎてるどころじゃないわ。早く、決めなきゃ)
ピアノのペダルを踏みやすいように、高めのヒールを履いてきた。
その足で歩きながら、眩暈がしそうになって壁に手をついた。
三又で攻略を進めるのは、最終的な本命を決めるまで。
そしてそれまで、彼らのうち誰とも恋愛関係と呼べない絶妙のバランスを保つ。
それが、当初のルチアの戦略であった。
彼女の中で、ルチアはルチアであって、ヒロインではないということへの認識が、甘かったのかもしれなかった。
ゲームになかったはずのイベントまで起こり、既にこの世界はゲームの筋書き通り進んではいない。
キャラの攻略など、攻略法を知る転生悪役令嬢のルチアには余裕であると高を括ってきた。
しかし、あくまでそれは攻略することが余裕なのであり、攻略し切らない場合においてまで全てを都合よく動かせるというわけではないのだ。
ルチアは神ではない。
この世界を作ったのも動かしているのも、ルチアではない。
公爵令嬢ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントとして彼女が現世に生を受けて、初めて味わった挫折感であった。
第十二話をお読みくださり、ありがとうございます。
また、ブックマーク・評価など頂きとても励みになっております。
読んで頂けていることに心より感謝です。
悪役令嬢は、ヒロインがいて初めて悪役。
ヒロイン入学前に私Tueeeしてしまった、悪役になり切れない三又令嬢ルチアの運命を、ご興味の続く限り見届けて頂けますと幸いです。




