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第9話 悪役令嬢ルチアの前世

前世のルチアは、真面目な日本人女性だった。

特筆すべきことの無いつまらない人生であったと、本人は思っている。


容姿はそれほど悪くなかった。

黙って上品に座っていれば、そこそこ異性からお声がかかるくらいには、清潔感と常識のありそうな、まあまあ整った顔立ちの女性だった。

運動嫌いで少しぽっちゃり目なことを気にしていたが、見た目の欠点らしい欠点はそれくらいで、特別美人と言えるほどではなくとも悲観するようなものではなかった。

だが彼女は、恋愛面では慎重すぎるうちに歳だけを取って、そのうちに災難に遭って拗らせてしまった。


彼女の敗因は、とにかく真面目過ぎて、『恋愛なんて大人になってからいくらでもできる。学生は勉強をしなさい』という大人たちの言葉を素直に信じてしまったことにあっただろうか。

それとも、女好きの父に昔の武勇伝を聞かされて育って、男性に対する不信感と嫌悪感を知らず知らずのうちに植え付けられていた時点で、既に悲しい末路は決まっていたのだろうか。


努力家の彼女は、上記の大人たちの言葉を信じて、青春の淡い楽しみなど犠牲にし尽くして、勉学に勤しんだ。

トップの成績を維持して一流大学に入り、そして一流企業に勤めて高い業績を上げ、誰からも一目置かれていた。

それでも驕ることなく、常に謙虚に他人に親切に、ひたすら努力という努力を重ねていった。

それで孤立してしまっては別の面で迷惑をかけるだろうと、周りと上手くやっていく努力もまた欠かさなかった。


しかし、転生してから思い直せば、そうして生きるうちに彼女の中で妙に潔癖な価値観が育ち過ぎていたのだ。

程よく遊んできた人たちとは、どうあっても根底の部分で彼女は相容れないと感じた。

頑張ればできることをできない振りをして手を抜いたり、そんな器用な大人の在り方を、前世のルチアは心からは美しいと思えず、尊敬できなかった。

尊敬できない相手と友情を育める器用さもなかった彼女には、心から友人と呼べる人は少なかった。


理想の恋愛は、一生のうちにお互いにお互いだけを愛せる相手を見つけることだった。

結婚まで清くあることが当たり前の現世の貴族社会ならまだしも、前世においてそんなことは、ほとんど夢物語である。

それでも彼女は、彼女自身が清くあり続けてその相手を探し求めているように、同じように彼女に出会うためにその時を待っている誰かがいてほしいという、願望でしかないという自覚のある想いを何より大切に胸に抱いて生きていた。

器用な人には理解できない心中であろうが、遊び人の何番目かわからない女になって無残に捨てられるくらいなら、一生清いままでいたいと彼女は本気で願っていた。


学生時代、脇目も振らずに勉強してきた彼女である。

大人になってから恋愛しようとしても、当然のように慎重になった。

理想かもしれない相手を、信じて良いものかと熟考しているうちに、相手は待てずに彼女のもとを去っていく。

成人してからの時の流れは、彼女がまだ夢見る少女でいられた頃には想像もしなかったほどに速かった。

あっという間に歳を取る。

同世代は、魅力的な人からさっさと結婚していく。

彼女の理想は年々叶い難くなっていく。


それでも前世のルチアは、理想でない恋愛ならいらないと、頑固なほどに思い続けた。

愛せもしない人と、したくもないかたちの恋愛をするくらいなら、独りで強く生きる方がいいと信じていた。

実際彼女は、その生き方を長年貫き、その間に誰でもいい誰かを恋人に欲しいと思ったことはなかった。


そんな彼女が自分の生き方を後悔したのは、彼女が二十六歳の時。

初めて勇気を出して交際した男性が、実は結婚詐欺師で、惨めな捨て方をされて打ちのめされた時である。

唯一彼女が不幸中の幸いであったと思ったのは、結婚するまでは清い関係をと頑なに言い続け、そんな男に身体を差し出すことまではしなかったということであった。


身体の関係はなかったとはいえ、その男は前世のルチアが生涯で唯一、結婚を望んで心から愛した男であった。

そんな彼が結婚詐欺師だったのである。

彼女の落胆は計り知れず、食事も摂れず不眠に陥って寝込んだ末に辞職、そこから二年間鬱病に苦しむことになる。


なんとか立ち直った彼女は、二十八歳で新たな職を得て心機一転、もう一度頑張ろうと決意する。

しかし、そこからの人生は、何もかもが虚しく感じた。

以前のように努力を重ねて結果を出すことに、喜びも感じられなかった。

今まで何のために頑張ってきたのか、全てが無駄にさえ思えた。


彼女は少し老け込みはしたものの、傍から見れば女としての魅力を完全に失うほどではなかった。

特に二十代のうちは、まだまだ異性から声がかかることはあった。

その中には、結婚前提に真剣なお付き合いをという申し出もあったのであるが。

彼女は、二度と異性を好きになれなかった。

恋をするために必要な心の器官が、死んでしまったようだった。


八つ当たりのように、ふと恨み言が彼女の中に浮かんできた。


「恋愛なんて大人になってからいくらでもできるって、あんな嘘っぱちを教え込んだのは誰よ…!」


こだわりさえなければ、それは嘘ではなかったのかもしれない。

しかし前世のルチアが求めたような綺麗な恋物語は、こうなってからの彼女には叶えられるはずのないものだった。


彼女は深く後悔した。

せめて、高校を卒業する時にでも、淡い憧れを抱いていた同級生に告白しておけばよかったと。

その結果振られようが、そんなことはどうでもいい。

ただ一言、自分の気持ちを伝えるくらいのことをしておけば、ひとつだけは綺麗な思い出ができたのに。

真面目過ぎた彼女は、受験生は恋愛御法度という先生たちの言葉を真に受けて、浪人して第一志望を目指すと決めたその同級生に想いを伝えることさえ遠慮した。


彼女は、理想の恋愛が叶わなかったことが悔しいのではない。

彼女なりに恋愛というジャンルの中に欲しいものが明確にあったのに、それを何一つ手に入れられなかった自分が情けないのだ。

別に世界中の美男子を侍らせたいわけではない。

彼女は、たったの一つだけでも、綺麗な思い出が欲しかっただけなのだ。

そのことに気づくまでに、随分と無駄な時間が過ぎて、もうそれすら叶わなくなってしまった。


「今頑張ったら将来幸せになれるって、先生たちは言ってたのに。全部嘘だったのね…」


本当は彼女にもわかっていた。

それは嘘というよりも、頑張り方を間違えただけの話なのだ。

幸せになりたかったのに、彼女は自分にとっての幸せを見誤った。

彼女は、知識や学歴や能力が欲しかったわけでも、それらを評価されたかったわけでもない。

美しい心の証のような、宝石のような一粒の記憶を慈しみたかっただけなのだ。


現実にはもう何も期待できなくなっていた。

また騙されたり、裏切られたりするのが怖かった。

胸が裂けるほどに、あの結婚詐欺師を愛おしいと思っていた過去は消えない。

自分の見る目の無さを証明してしまってから、自分自身に期待することにも疲れた。


彼女は物語の世界の中にのみ、安らぎもときめきも見出だせた。

乙女ゲーム、漫画、小説、そこで叶わなかった全ての願いを叶えることだけが、彼女の楽しみになっていた。

特に、彼女が三十歳前後の時に流行った転生ものの物語は、死ぬまで彼女のお気に入りだった。

もし記憶を持ったまま生まれ変わったなら、今度こそ努力の方向を間違えず、幸せを掴んでやる――そんな空想に耽りながら、彼女はもう、疲れ切って瞼を閉じることを許される最期の時を静かに待つような生き方をしていた。


享年六十三歳。

あれから誰も愛せず、清いままに老いた身体は火葬場で灰になった。

第九話をお読みくださり、ありがとうございます。


こだわりの強い拗らせ女子、前世のルチアのお話でした。

次回からはちゃんと乙女ゲームの世界に戻りますので、ご安心くださいませ。

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