第一話 与えられたのは 名前 人狼族の体 能力 少女
光を見ていた。
希望の萌芽が心の底で芽吹いてゆく、静かな高揚を感じる。
全てが新しく始まる。
心待ちにしていた言葉は、快い風が颯爽と何もかもを洗って吹き抜ける感触に似ていた。
目に染みる青い空が、目の前いっぱいに広がっている。
新世界の青空だ。
太陽神レーベが真円のお姿を青空に浮かばせ、自分のことを見下ろしていた。
新たな世界は、人と神の距離がとても近い。
十二月は目を覚ましていた。
太陽神レーベの慈愛の陽光降り注ぐ下、その始まりは優しく、静かな祝福で満たされていた。
ゼケンヴリオス。
それがこの世界で少年に与えられた名前だった。
古代語で〝十二月〟という意味だった。
体を起き上がらせようとすると、予想外の重みが全身に広がる。
その重みを跳ね除ける力強さも、全身で躍動した。
重たい体は重力をものともせず、虫の糸のように引き千切りながら起き上がってゆく。
ゼケンの新しい体は、大きく、重たい体だった。
受けた印象は、膂力を内にみっしりと宿した力の結晶。
ゼケンは鉄の鎧を着込んでいた。そばには鉄の盾も落ちている。
防具に鎧われぬむき出しの首や顔は、うぶ毛ではなく、狼の体毛に覆われている。
ゼケンは人間ではなくなっていた。
ゼケンに与えられた肉体は、豊かな筋肉が彫像のような肉体美をみなぎらせる、人狼族の肉体だった。
マッチョいやだ!!
心のどこかで他人のような自分がそんなことを叫んだ気がした。
記憶は失われていた。
意識だけで聞いた神の言葉と、自分がひどい遣る瀬無さにさいなまれていた感覚だけが、涙の跡のように心のうわべに張り付いている。
顔から狼よろしく突き出た口吻をスンスンと鳴らし、ゼケンは匂いを嗅ぎ集めながら、辺りを見回す。
新世界で見た最初の風景だった。
石造りの朽ちた遺跡らしい。
五十人以上の少年少女がいた。
ゼケンと同様、目覚めたばかりの様子だ。
頭上のゼケンの狼の耳が、突然ピクリと横へ向く。
「お体にどこか、不具合などはございませんか?」
自分へ向けられた声だと、狼の耳は正確に聞き取っていた。ゼケンはそちらへ振り向いてみる。
少女が一人、くったくのない微笑みをゼケンへ浮かべていた。
彼女の姿を瞳に映すなり、ゆっくりと世界から音が遠のいていった。
時さえ前に進むのを忘れ、少女に見入ったようだった。
少女は幻想的と評せるほど、美しい容姿をしていた。
緩やかに波打ち長い金の髪が、輝きを発していた。
太陽神レーベの化身とは彼女の姿をしているに違いない。
その黄金の髪は、降り注ぐ陽光をそのまま紡いだような輝きを宿している。
少女の微笑みもまるで砂糖菓子。周囲の空気を飴細工のように甘く、優しげな輪郭へと変えてしまう愛撫だ。
彼女の微笑みに照らされたゼケンの狼の顔まで、蜂蜜状にとろけてしまうのは時間の問題かと思われた。
「あの、どうかなさいましたか?」
ゼケンの緩みそうだった顔に何か異常を感じ取ったのか、少女は顔を不安そうにしている。
ゼケンは顔を背けながら答えた。
「――ぃいや、どうもしてない。――体も、すこぶる快調だ」
「それはようございました」
少女はまた恋のキューピッドを独り占めにする笑みを浮かべた。
この美少女はいったい何者か?
見ず知らずのマッチョな狼男に怖じける事もなく、ここまで気に掛けてやるのは、その性格が見た目に違わず天使みたいなせいなのか?
答えはゼケンが思い悩むまでもなく外から齎された。
目の前のまばゆいばかりの少女が言ったのだ。
「それでは、自己紹介に移らせていただきますね?」
少女は自己紹介をすると言った。
ゼケンを正面に捉えるように居住まいを正し、両手で白を基調とした簡素なローブのしわをそそと調える。
顔には笑顔が、作り慣れを感じさせる軽やかさで花開いた。
「初めまして、ゼケンヴリオス様。私はあなたのピスティー」
見ず知らずの美少女はゼケンの名を知っていた。
自らを“あなたのピスティー”と名乗った。
「あなたにお尽くしせよと、そう神に命じられ、この世に生を受けた者」
少女の笑みには、この口上を捧げる事が嬉しくてたまらないという風の充実感に満ちている。
「あなたと共に生き、あなたの為に生きましょう」
ゼケンへ少女がしたのは宣誓。
この身を捧げ、その生を終えるまで奉仕し続けようという宣誓。
「とりあえず、名前をお授け下さいますか?」
少女はゼケンへ、名前を付けてくれと希望してきた。
ゼケンは見知らぬ別世界へと転生したし、人狼族への変貌も遂げた。
しかしそれよりなにより、この少女との出会いと、その告白の内容に、圧倒的衝撃を受けていた。
ゼケンは呆然としている。
狼の顎がゆっくり下に下がって、長いベロがこんにちはをする。
目の前の美少女の正気を疑うことはなかった。脳裏を魂で聞いた神の声がよぎる。
『この新たな道行きに、一人の少女を伴わせましょう』
神の言っていた少女というのがこの子なのだろう。
少女はゼケンの為に生み出された少女。
神は言っていた。
『守ってやりなさい。あなたの心を守るように』
ゼケンはとりあえず、気を落ち着ける間を取りたかったし、何かしら反応を返すべきだと思ったので、通り一遍な確認をした。
「まぁ――待ってくれ。……今の、本気で、言ってたのか?」
少女はくったくのない笑みのまま。
「はい、もちろんです。嘘に聞こえましたか?」
「嘘みたいな、話だったからなあ……」
「ええ……まあ……突然こんな事を言われても、戸惑ってしまいますよね?」
ゼケンが芳しくない反応をしたものだから、少女まで顔を陰らせている。健気に笑みこそ保ってはいるが。
いかん、とゼケンは思った。
たぐい稀なる笑みと無防備なほどの誓いを捧げてくれた少女に、ゼケンはいかにもでくの坊めいた返答ばかりしていたと気付いた。
「いや、悪かった。こんな状況だったもんだから、ちょっとな。でももう、大丈夫だ」
何が大丈夫なのやら。
ゼケンは彼女を安心させたくて、とにかく見付かった言葉を口から出す。
「お前はつまり――俺の、あれだ、ピスチーなんだよな?」
「はい。“ピスティー”です」
少女は変わらぬ笑顔で訂正した。
ゼケンはまるでなにも現状把握できていないと露呈したようで気恥ずかしい。
「ピス“ティー”な。よし、細かい事は、気にしないことに決めたぞ」
異世界に転生した。体が人狼族になっていた。女の子付きだった。
全部ドンと来いだ。マッチョな体に見合った甲斐性を見せてみろ俺、と自分を鼓舞する。
「まずは――挨拶からだな。俺はゼケンヴリオス。“十二月”って意味らしい。種族は人狼族……以前は、人間だった気がするんだけど、細かい事は気にしねえ」
「あら、亜人だって人間です。お嫌なのですか?」
「嫌ってわけじゃない。別に気にしねえさ」
「気持ちのよい思い切りのよさだと思います。ベルセルクのゼケンヴリオス様もステキですよ?」
ニコッとまた笑顔を見せてくれる少女。
ゼケンは女の声で発された『ステキ』という単語の破壊力や、長ったらしい名前に“様”なんて付けられる違和感に、内心ドギマギドギマギ。
しかし少女がとてもゼケンに気を配ってくれているのは、わかった。なんともむず痒い感覚なのだが。
ゼケンが自己紹介をしたので、少女も返礼でもするように、お澄まし顔になって先ほどと同じ文句を繰り返す。
「私はゼケンヴリオス様のピスティー。名前は主であるゼケンヴリオス様にお付け頂きたいので、まだありません。――ちなみに、とても楽しみです」
名無しの少女はこの世の幸福を満喫してるといわんばかりな笑みを向けてくる。
ゼケンは顔が熱くなるのを感じて、意味もなく空を仰いだりする。
「――俺が、つけるもんなのか? 名前を? お前――っていうのは、ちょっとがさつだったか」
「いえ、“お前”で構いませんよ」
「名前か」
「はい。でないと不便してしまいます」
「そりゃ、同感だ…………まあ聞くまでもないが、ピスティーってのは――――」
「はい。名前ではありません。私たちのような、神に作られた奉仕者を、ピスティーと呼びます」
「私“たち”か。ほかにもいるのか?」
ピスティー少女は思案顔になって目を左右に泳がせる。
「いるのではないでしょうか? ちょっとまだ、わかりかねますが……」
「まずは、名前だな、お前の」
「ええ。私の名前を。ぜひ」
ゼケンは腕組みをすると、自分のセンスへ目を向けるように、視線をあさっての方向へ泳がせた。
ゼケンの頭の中にはこの世界の知識が詰め込まれていた。
この新世界で目覚める前、神――のものであろう声が言っていた『生き抜く術』なのだろう。
おもにこの異世界についてや“冒険者”と呼ばれる生業に関する知識だが、おかげでゼケンは、狼男=人狼族に変貌していても、狼狽する事がなかった。
そんなわけで、生まれたてにしては知識のあるゼケンなのだが。
新しく与えられた頭を道具箱みたいにかき回してみても、冴えた名前に関しては、見付かりそうな感触がない。
どうやら神は、人は“ネーミングセンス”がなくとも生きていけるとお考えのようだ。
そもそも、ペットの名前じゃないのだ。おいそれと付けられるものじゃない。
ゼケンの置かれた環境も、人の名前を考えるのにはとても不適格。
目覚めの時と違い、かなり騒がしくなっていた。
ゼケンの周りには五十人以上の転生者が右往左往し、騒いでいる。
自分のレアアイテムがすごいと自慢する者。
自分のレベルが2だと不安がるもの。
ステータスを見せ合う者たち。
遠くに大きな町が見えるぞとみんなに声を張り上げている者もいる。
ゼケンも悠長にピスティーの名前など考えている場合じゃない気がしてきた。
周りの転生者たちを観察してみると、どうやら皆が皆、“レアアイテム”を有しているようだった。
一目でそれとわかる装備を身につけている者もいれば、小さな物を見せながら声高に何かを解説している者もいる。
ゼケンは思った。
なんだ、みんなそんなの持ってるのか。知らなかったぞ。
俺は何か持ってないのか、と、かすかにあせりも覚えた。
ゼケンは自分の装備に、なにか目を引く物はないかと探そうと思ったのだが、唐突に上がった悲鳴が、その確認作業を阻んだ。
“うひゃあ!?”という、男にしては甲高い悲鳴だった。
遺跡中へと響き渡る悲鳴だった。
ざわめきが波の引くように遠のき、転生者たちが一斉に悲鳴のほうへ顔を向ける。
悲鳴の根っこを見つけた者は、次には驚きの声を漏らすことになったので、遺跡はすぐにどよめきで満たされることになった。
悲鳴を上げたのは、ほとんど猫を立たせただけのような亜人。
もう一人の少年から、剣を突き立てられようとしていた。
そう見えた。
剣は猫の亜人――化け猫族へと突き立つことなく、間にそそり立った土の壁に阻まれていた。
が、その土の壁がみるみると地面からそそり立ってゆくものだから、誰もが驚きの声を漏らし、危険を察知して身構え始める。
そそり立つ土の壁が形作ってゆくのは巨人。
土巨人だ。
遺跡のど真ん中に姿を現したのはゴーレム。
身の丈3メートルはあろうか。横幅があるので小山のように巨大に見えるゴーレムが、小柄な化け猫族の亜人を守るように、立ち上がっていた。
「な――なにすんだよお前?! あっぶないよなあ!!」
化け猫族の少年が、剣で突こうとした少年へと怒号した。
しかし非難されたほうの少年は、抜き身の剣をこれ見よがしに肩へと担いで、まるで反省の色を見せようとしない。ニヤついている。
「ダッセ。ビビッてんなよ。ちっと効果試しただけだって。――あー、騒がして悪い! なんでもねーから! マジで!」
少年は周りの転生者にそう声を掛けると、尻餅を突いている化け猫族に謝る事もなく、よそへ歩いていってしまった。
化け猫族は出現してしまったゴーレムをどうしようかと手をこまねいている。
どうやら危険はないらしい。
事情はよく飲み込めなかったが、攻撃した少年は、化け猫族のほうのレアアイテム、ゴーレムが出現する効果を試す為、剣で突きかかったのだろう。
危ない事をする奴だ。
剣――力を手にして、それをふるってみたくて興奮しているのかもしれない。
ゼケンは途端にピスティーのことが心配になり、彼女を見下ろした。
少女も少し不安に当てられているようだ。感心しないとも不安そうとも取れる顔付きで、先ほどの物騒な少年の行方を目で追っている。
ゼケンは少女に声を掛けようとしたが、名前がないので、仕方なくこう呼んだ。
「――ピスティー」
「なんでしょう?」
ピスティーの少女はすぐさま振り向いた。瞳の中で期待するような輝きが勢いを取り戻してゆくのを見ると、ゼケンは決まりが悪い。
「――人の名前だ。適当になんて付けられない。もう少し待ってくれないか?」
「ええ、はい、こんな騒がしい所ですし。――ゼケンヴリオス様がどのような名前を用意して下さるのか、楽しみです」
ピスティーの浮かべた再三の輝くような笑顔に、ゼケンもようやく耐性を持ち始めたようだ。もう無様に見とれはしない。
「ゼケンでいいって。様もいい。柄じゃねえや」
「では、ゼケンさんとお呼びしましょうか?」
「“さん”もねえって。呼び捨てでいいさ」
むず痒そうにするゼケンへと、ピスティーは幸福そうに言った。
「あなたのご所望の通りに、ゼケン」
少女が無防備に捧げてくる忠誠が、ゼケンは嬉しいやら照れくさいやら、置き場の見付からぬ感情を心の中で持て余した。
この少女をもっと知りたい。
もっと話したいと思った。
名前についてはとりあえず今後の課題と脇に置き、今はレアアイテムについての相談でもしようと思ったのだが――
またしても、悲鳴が、ゼケンの注意をレアアイテムから引き剥がした。
またあの男かと思ったのは、ゼケンだけではなかったろう。
しかし今度は、少し事態が違うようだった。
悲鳴はほとんど絶叫だった。
見れば、思ったとおり。
先ほどの物騒少年が、両手で構えた剣を相手へ突き立てている。
しかし今度はしっかりと、物騒少年の凝った意匠のつるぎが、相手の腹部――胸当てでは鎧われていなかった腹部へと、潜り込んでいる。
刺されたほうの少年は、腹から鮮血を迸らせながら、恐怖にこわばった顔でガクガクと足を震わせ、
一方刺しているほうの少年は、
暗い笑みに顔をゆがめていた。