第九話 この世界にあらがう力を欲した
小公園へと二人で歩きながら、ゼケンとピスティーはどっちがゼケンのパンツを洗うか決めた。
ピスティーは上機嫌だった
愛とは育むもの。
“こんなステキな言葉が自分たちの中にあった”と言い、夢見がちな顔でスキップでもし出しそうな足取りだった。
世界は残酷だ。人が幸福になると、必ずその終わりを用意しておく。
「すみませんでした……」
「別に気にしてないぞ?」
話すことに夢中になっていたピスティーは、道を選び間違えていたらしい。
公園に辿り付く前に、道に迷ってしまった。
二人はロランロランの迷宮の虜囚になる事こそなかったが、今は学校へと帰るべく、スコニ通りをすごすご引き返している。
まるで迷宮都市なる要塞の攻略に失敗した敗残兵。
少女が名残惜しそうに見上げるのは、二人の目指した小公園だ。
「ここからはあの建物が見えるのですけれど……ロランロランは意地悪な町です」
「この町の空気を少し知ったって事だな」
「知りたくない悩ましい一面でした。――いえ、そういう町なのだと、感じてはいたのですけれど」
壁の落書きに『ゼケンヴリオスに天罰を!』と願われたのをゼケンは思い出していた。
あの落書きの真相を究明できる日は来るのだろうか?
「ゼケン。次こそ行きましょうね? 約束ですよ?」
ピスティーはゼケンへと腕を上げ、細糸のような指をちょんと立てた。
小指がピコピコ動いて指切りを催促してくる。
「お前はどうしてこう、恥ずかしい事をしたがる……」
「恥ずかしくなんてありません」
ピスティーは真顔である。少女は“照れ臭い”という言葉を知らないのかもしれない。
ゼケンは『この恥知らずめ!』という言葉を飲み込み、少女の指と自分のソーセージみたいな小指を絡めた。
「約束ですよ?」
「そんなに行きたいんなら、付き合うさ」
こんな小さな約束なのに、ピスティーは笑顔を取り戻すのだった。
空にはもう星空が広がっていた。
スコニ通りの料理屋たちは、主役の座を飲み屋へと明け渡し始めている。
あたりの活気は、粗野で開けっぴろげなものへと移ろいつつあった。
騒がしい通りをゼケンはピスティーと歩く。
道幅の広くはないロランロランだ。通りの騒ぎと行き交う人の量に、隣のピスティーが心細そうな気がして、ゼケンは手を繋いでやろうかとも思った。
が、これが結構勇気がいるのだ。
さっきこそゼケンは何気なく手を繋いでいたのだが、いざ自分からそうしようと思うと、気恥ずかしい。ピスティーなら拒む事もないだろうに、中々できない。
する必要なんてあるかと自問自答し始める始末。
そして世界は残酷だ。
幸福で満たされた場所の中にも、不幸を作らずにはいられない。
酒場から伸びた一本の手だった。
それが二人の共有していたささやかな幸福を奪い去っていった。
その手は突然スコニ通りへと突き出して、ピスティーの腕を捕まえたのだった。
「キャア?!」
「うはは! キャアだってよ! 聞いたかオイ! たまんねえ声だあ!」
ピスティーの悲鳴に覆いかぶさるように青年の酔いどれた喝采が上がった。
青年は酒場の椅子に腰掛けたまま、通りすがりのピスティーの腕を掴んでいた。相手のことなど気遣いもしない乱暴さで。
「お前!? なにをしやがる!」
ゼケンは彼へと近寄るなり無礼な腕を掴み、高々と持ち上げた。
男の体が椅子から持ち上がったが、ピスティーの腕まで吊り上げられて彼女をうめかせた。
男はピスティーの腕を放そうとしなかった。
「なんだあー?! このかわいい子はよお!? 美の神ナルシースの伴侶たあ、こういう娘を言うんじゃあねえかあ!?」
男は腕を掴み上げられながらも、ゼケンのことなど眼中になかった。その両目は自分の釣り上げた奇跡のような容姿の獲物に釘付けになっている。
彼だけじゃなかった。
「やーめとけって」
「んな小娘に手え出すなよ」
興味なさそうに青年をいさめていた連れ合いが、彼の捕まえた美少女を認めるなり、目の色を一変させた。
男の一人は圧倒されたように身を引き、少女の全身を上から下まで確かめる。
「こりゃ――驚きだ……」
もう一人の男は席から立ち上がって声を上げた。
「気に入った! 店員! この子の料理と酒を! 一番上等なやつを用意しろ! 彼女は今から俺たちの賓客になった!!」
「ゼケン!」
少女は涙目だ。大人たちが彼女抜きで話を進めると、まるで断ってはいけないような空気になっていた。
「任せろ!!」
ゼケンの全身は怒りで膨れ上がっていた。
彼女を泣かせたな。乱暴に扱ったな。何を勝手に酒を飲まそうとしている!
メリメリと音を立てて活躍を喜ぶ筋肉たちが右腕を猛然と振り上げた。
ゼケン怒りの鉄槌は、いかずちを連想させる激烈さで青年の顔面を打ち抜いた。
ドンガラガッシャーンという騒音は雷鳴の雄叫びか椅子とテーブルの上げた悲鳴か。
ゼケンは青年をぶん殴った。
青年はピスティーの腕も手放して地べたへ叩きつけられた。
ピスティーは腕を解放されるなりゼケンの背後へと逃げ込んだ。
騒音が騒動の発生をあたりに触れ回り、通りは騒々しく騒ぎ立つ。
「エリーク!」
「大丈夫かよ!?」
エリークと呼ばれた青年は、鼻血を吹きながらゼケンへと目をかっぴらき、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がる。
「テメエ――武闘家アビ持ってんなあ? ダメージぃ、食らったぜっ。――どうしてくれんだよお?」
エリークは凄んで来た。ゼケンよりも五つは年上の大人だ。酔っ払って自制を忘れているからなお迫力がある。
しかしゼケンは一歩も引かない。
『男っていうのは力で女を勝ち取るものさ』
ファリアスの言葉が勇気をくれていた。
背中にすがりつくピスティーの存在が支えになっていた。
ゼケンは吼えた。声に怖気などまるでなかった。
「こっちのセリフだ! 俺のピスティーをよくも怖がらせた!」
「ゼケン!」
ピスティーの悲鳴のような声がして、ゼケンは彼女を振り返る。
ピスティーが首を横に振っていた。
その顔には恐怖と強い危機感とが刻み込まれていた。
彼女が何を言わんとしたのかゼケンも気付く。
青年たちは装備こそ身にまとっていないが、冒険者だった。
ゼケンの冒険者の本能が、彼らのレベルが19程度あることを警告していた。
ゼケンの鼻が死の匂いを嗅ぎつけ“ヒューン”という負け犬然とした情けない声を勝手に上げた。
男たちがその音を聞きつけ、揃って半笑いを浮かべる。
少年をなぶるように殺したエルダーの顔が彼らの顔にダブって見えた。
おおよそレベル19の彼らの攻撃力は、素手でどれくらいあるだろう?
どれくらいあろうとゼケンが敵うことはないだろう。
ゼケンはケンカを売ってはならない相手に歯向かった。
ゼケンの後ろにいたピスティーが、突然前へと回り込んできた。
「すみませんでした!!」
ゼケンの身を誰より案じる美少女は、男たちへと深々と頭を下げた。
始めに無礼を働いたのはあっちであるはずなのに。
力がないから謝ったのはこっちだった。
「私たち、転生者なんです!! まだこの世界の事をよく知らず、あなたに無礼を働いてしまいました!! すみませんでした!!」
「やめろピスティー! 謝るな!」
少女は聞くのが辛いほど必死な声をしていた。
ピスティーに守られるのなんて嫌だった。
この青年たちに自分が敵うわけないのはわかっていたのに、ゼケンは『謝るな』などと口走っていた。
その結果どうなるかを心配してる余裕なんてなかった。
必死だった。
そして男たちも少女の謝罪など受け入れなかった。
懸命に頭を下げるピスティーへと、男は手を伸ばしてきた。
男はまるでゼケンからピスティーを奪い取るように、彼女の手を掴み、自分らのほうへ引き寄せた。
キャアという少女の悲鳴は男の怒号に潰された。
「許さねえなあ!!」
男の目が破壊衝動と少女への欲望でギラギラとしていた。
「人狼族が!! “悪魔憑き”野郎が、こんな子といい仲になれるとでも思ってたのかあ!?」
男は興奮していた。“勘違いした人狼族のガキ”を不幸のどん底へ叩き落してやりたい暴力性でたけっていた。
「こういう子は、俺ら“人間様”のもんなんだよ!! この世界の“ルール”ってやつをよお、今からみっちり教えてやるぜ!!」
ゼケンはこれ以上の恐怖を感じた事はなかった。
この世界のルール――力こそ全て。
力のない者は何も守れない。
力のある奴が全てを手にする。
それがこの世界のルールなのか?
力のないゼケンは自分のピスティーが三人の男によってたかって嬲り者にされるのを見てるしかない?
力のない奴は美少女ピスティーなんて持つべきじゃなかった?
ゼケンの心が“違う!!”と叫んだ。
ゼケンの心が“今度こそ勝ち取れ!!”と叫んだ。
立ち向かえ!!
間違った事に負けんな!!
くじけんな!!
あんな奴らに笑ったままでいさせんな!!
ゼケンは心の声に従った。
男たちへと叫んだ。
世界に反抗するように叫んだ。
「酔っ払いに――ルールを説教される覚えはねえよ!!」
恐怖に怯えるだけの心なんて投げ出した。
男たちへと襲い掛かるのに、怒りと覚悟以外の感情なんていらなかった。
「よく言ったあ!!」
声が横合いから乱入してきたと思った次には、ドロップキックの姿勢をした女が、ゼケンの目の前をかっ飛んで行った。
投げ槍のように飛来した女が、男の一人へ突き立ちながら飲み屋の奥へと消えていく。
ドンガラガッシャーンという騒音は悪への制裁かゼケンへの福音か。
ゼケンの前を、後ろを、粗野な相貌の男女がすり抜けて行く。
彼らはピスティーを捕まえていた青年たちへ一斉に殴り掛かっていた。
「ゼケン!」
「――ピスティー!」
ピスティーがゼケンの胸へと飛び込んできた。
彼女の細い身をゼケンが反射的に抱え込んだのはなぜだったろう。
『逃げろひよっこー!』という声を聞いたと思う。
ゼケンはピスティーを抱きしめながら、走り出していた。
背中では悲鳴と喝采が巻き起こっていた。椅子の飛ぶ音。陶器やガラスの割れる音。『見に行こうぜ!』と通りの大人たちがゼケンと反対方向に走り出す。
ピスティーが自分で走り出したので、ゼケンは彼女を解放し、手を取って遮二無二学校への道をひた走った。
死ぬかと思った。
生き残ったと思った。
とても怖くて走るのをいつまでもやめられなかった。
二人を襲った“絶体絶命”からは、いくら走っても逃げ切れた気がしなかった。
二人がその足をようやく止めたのは、学校のある“オルコス通り”へと戻ってきてからだった。
ゼケンもピスティーも肩を上下させ、息を切らしていた。顔面だけが運動をした直後なのに血の気が引いたままで蒼白だ。
ゼケンの[体力]の数値が2ポイント減っていた。
ピスティーが今来た道を振り返った。
彼らが追いかけて気やしないか、不安で仕方ない。バクバクと胸の中で跳ね続ける心臓が、恐怖を無限に生み出し続けているようだった。
二人の走ってきた道からは、誰も追いかけてなど来なかった。
『う』とピスティーがうめいた。
両目にみるみると涙が溜まっていく。
ピスティーはゼケンへと抱きつくなり、わんわんと泣き始めた。
ゼケンは少女をどう慰めたらよいのかわからなかった。
この時ばかりは、少女の美貌が不憫に思えた。
普通の容姿ならこんな体験をすることもなかったろう。
ピスティーが特別な輝きをあたりへ振り撒く限り、今日のようなことはまたあるだろう。
それはとても怖かった。
ゼケンは力が欲しいと思った。
今日これで何度目だろうか?
ゼケンがこの異世界へとやってきてから、何度こう思ったろう?
ゼケンは力が欲しかった。
ピスティーを守れる力が欲しかった。
この日。ゼケンは異世界へと転生した。
レベル1で、レアアイテムすら持たされなかった。
守りたい少女だけを与えられていた。
五十八人の転生者の中で、もっとも力を欲する生徒となった。
この話を第一話に持ってきたかったですね、できるものなら。
それが難しいから、小説は難しい。