少年の名 3
夕暮れになると、イヴは湯気のたつ暖かな食事を持って一階の奥まった部屋へ向かう。
ノックスが教会で暮らすようになって数日がたった。
傷は神父の適切な治療と、イヴの献身的な看護のおかげかだいぶよくなって来ている。もうベッドを起き上がっていいと神父は言ったけれど、体力が落ちているため、食事はまだ部屋へ運ばなくてはならない状態だった。
「ノックス、ご飯の時間ですよ」
ドアの前で声をかける。ベッドから出られるようになった頃から、イヴが声をかければノックスがドアを開けてくれるのだけれど、この日はドアが開くどころか、返事さえ聞こえなくて、イヴは首をかしげた。
(いない、のかしら?)
そんなわけは無い、と思いつつも、食事ののったトレイを片手に持ち直すと、こんこんとノックしてみる。でも、返事はやっぱり無かった。
「入りますよ」と一言断って、イヴはドアを開ける。覗き込んだ室内はしんとしていたけれど、ベッドの上にノックスの姿を見つけた。
だから、ノックス、と声をかけようとしたイヴだったけれど、その言葉を声に乗せることはできなかった。
(……絵?)
夕日も沈んで暗い室内で、ベッドに座ったノックスは真剣な目で絵を描いていた。
いつだったか、暇つぶしにと頼まれた紙と鉛筆だった。イヴが入ってきたことにも気付かず、ひたすら絵を描く彼の姿に、イヴは目を丸くしてその場に立ち尽くす。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、ノックスが顔を上げた。そのまま振り返り、そうして初めてイヴがいるのを見つけて、紙を思い切り伏せた。
「っイヴ、いつから、そこに?」
「えぇと……さっき。あの、ごめんなさい。声をかけたんだけれど、返事がなくて……」
「……いや、」
あせりすぎて上ずった声になっているノックスに、イヴもまた上ずった声が出て、お互いに沈黙した。
「……絵を、描いていたんですか?」
しばらくの沈黙の後、言葉を切り出したのはイヴだった。
言って、視線をノックスがいるベッドの上に移す。ベッドに座り、鉛筆を握り締めたままうつむく彼は、しばらく迷ったように視線を泳がせ、ゆるゆるとした動きで伏せた紙を裏返した。
イヴは一言彼に断って、その絵を覗き込む。
あらわになった絵に、イヴは息を呑んだ。
それは、鉛筆一本で描かれたとは思えないほどに、透明な絵だった。
どこか天国を思わせる平原に、雲間から光が一筋降り注いでいた。その光に誘われるように、一人の少女の背中が空を見上げている。
たったそれだけの絵なのに、どうしてだろう。イヴはさびしいと思った。優しい、とも。
(優しい、人なんだ)
絵は、その人を現すという。
ならきっと、ノックスはとても優しい人だ。優しくて、寂しい、そして何よりも美しい、人。
イヴは優しく微笑んだ。
恥ずかしそうに顔をそらすその人を見つめ、そっと、頬をなでる。彼はくすぐったそうに目を細めた。
「……イヴは、天使みたいだな」
ぽつり、と小さく声が響いた。
告げた声は柔らかくて、愛しさに満ち溢れていたのに、イヴはその瞬間にびくりと体をこわばらせた。
その様子に、ノックスはきょとんとした顔を彼女に向ける。どうしたんだろ
う、そう問う瞳に、イヴの優しい笑みは向けられない。
「どうしたの、イヴ?」
だから、ノックスは頬から離れたところに浮いている彼女の手に、そっと触れた。