少年の名
一夜明け、朝一で彼の傷の具合を診た神父は、これなら数日で歩けるようになるよと少年の頭をなでて言った。
用意した朝食はまだ粥だったけれど、あっという間に平らげる様子を、神父とイヴは安心した笑みで眺める。なにしろすごい出血だったから、彼の顔色はまだ随分悪くて、熱もまだ下がっていなかった。
それでも食欲があるならきっとすぐに良くなるよ、と神父は言った。
「ところで」
神父が少年を見て口を開いたのは、食後の薬を飲んだ後すぐだった。
イヴは食器を片付けていた手を止めて神父を見上げる。少年も、ベッドの上から、にっこりと笑う彼を見上げた。
「しばらくここで暮らすのなら自己紹介しないとね。私は柊冬夜。この教会の神父をしているんだ」
「わ、わたしはイヴです。柊イヴ。この教会でお世話になっています」
笑顔の神父が名乗ると、イヴも慌てて言った。
神父とイヴがそろって少年を見つめた。けれど少年は、少しだけ目を伏せて、申し訳なさそうな顔を二人に向ける。
どうしたのだろう。イヴはそう思うけれど、少年の言葉を待った。
「……おれは、名前ないから、その……」
言いにくそうにそれだけ言うと、彼は口を閉ざしてしまった。
イヴと神父は顔を見合わせた。
(名前が、ない)
名前は、親からの最初の愛だ。だから子供はみんな名前を持つ。
でも、彼は持っていない。
――その言葉だけで、彼がどんな境遇を生きてきたのかがわかった。
イヴは胸の辺りをぎゅっと掴んだ。目の奥が痛くて、喉が熱い。唇に力を入れていないと、震えてしまいそうだった。胸が痛くて仕方ない。
でも、泣かない。彼に涙は決して見せまいと、イヴは自分を戒めるように、強く手を握り締めた。
「なら、名前を考えなきゃいけませんね」
握り締めて真っ白になった指をさりげなく隠して、イヴは優しい声音でそう告げた。
ふわりと微笑んで見せれば、彼ははじかれた様にイヴを見る。神父も、イヴを見下ろして、そっと小さなその肩に手を載せた。
「神父さま。彼の名前をわたしが決めてもいいですか?」
「いいよ。彼を助けると決めたのは君だから」
見上げた神父に見守られて、イヴは視線を少年に戻す。
彼は、ベッドに体を起した状態で呆然としていた。
イヴは微笑みながら考える。名前。どんな名が、彼にあうだろう。
自分を見つめてくる瞳は、美しい闇色だった。目が合った瞬間に魅入られて動けなくなるほどに、それは美しい。曇りもくすみも無く、ただ、飲み込まれるほどに深く底の見えない闇。髪も同じように深い闇色。
新月の夜の闇から生まれたような色彩の人だと思う。
「――ノックス」
ぽつり、と小さく声が落ちて、イヴはその言葉を口の中で反芻した。
人の名前には珍しい音の響きだけれど、彼にはきっとぴったりだと思った。