目に見えないもの
礼拝において雑念とは毒である。
正確に言えば、今日の夕飯の内容であるとか、家の鍵を閉め忘れたことによる不安であるとか。
──眉目秀麗な客人と早く話がしたいと思う焦燥感であるとか。
神に祈りを捧げるのは神職者の努めである。リラは今日まで愚直に堅実に、一度も礼拝を怠った事はなかった。誰のせいと言えば、浮ついた心のまま礼拝に臨んだリラ本人のせいであるが、自分と共通な物を持ち合わせた人物と唐突に出会ったのだ。期待で胸がいっぱいになるのも無理はないだろう。
辛うじて褒められる点があるとすれば、そんな心情を修道女や司祭に悟られなかったことだろうか。毎日欠かさず礼拝に参加していた経験が地味に生きたとも言えよう。
午後の礼拝が終わり、リラは真っ先にあの丘へ向かった。走る必要は全く無いのだが、早くたくさんのことを聞いてみたい、早く村を案内してあげたい、という気持ちがリラの身体を動かす。
司祭服を翻しながら小道を駆ける彼の姿は異様に見えただろう。しかしそんな事を考える余裕は今のリラには無い。
丘までの道はこんなにも遠かっただろうか? という錯覚に苛まれるが、やがて丘の上に黒いローブを羽織った人物が視認できるようになった。そこに居ることが何故かたまらなく嬉しくて、リラは丘を駆け上がる。一分一秒でもはやく、彼女と話がしたい。リラの心はそれでいっぱいであった。
「……あらあら」
背後に現れた気配に気づいたのだろう。汗だぐになったリラを見て、ネロはくすくすと笑った。
「数日の間、お世話になるって言ったでしょう。そんなに急がなくても突然居なくなったりはしませんよ」
「あなたと、……はやく、…っ。話がしたくて!」
リラからすれば恋人を待たせているような感覚なのだろう。しかし肩を震わせて笑うネロとは対照的に、肩を大きく上下しながら呼吸を整えるリラの姿は彼女から見れば背伸びした子供のそれだ。
「ふふ。それは光栄です」
木漏れ日の下に腰掛けるネロの姿は、霞んで消えてしまいそうな儚さがある。白い髪の毛がきらきらと木漏れ日に合わせて煌き、ネロの肩や膝に降り立つ小鳥達がより一層彼女の不思議な雰囲気を醸し出していて違和感がない。
「実は、とある国のお姫様なんです」と不意に告げられても、冗談とは思わずにリラはそっくりそのまま鵜呑みにするだろう。
「とてものどかな村なんですね」
ネロの黄金色の瞳が遠くの家々を映す。眩しそうに目を細める彼女の隣に座り、リラもまた同じように村の景色を眺めた。
「ここ、ライラ村は比較的リズヴェーンの首都に近いので治安が良いんです。王国で商売をするキャラバンが一週間に一度やってくるから、その時に農作物や工芸品を換金するんですよ」
リズヴェーンの首都、バルハデスは山に囲まれた街である。山から取れる貴金属類や薬草を求めるキャラバンが後を絶えない。また、山に囲まれているが故に攻めにくい。西に位置する小国でありながらも他国と同等の力をもつリズヴェーン王国は、「神に守られし国」と表現されることもある。
「なるほど……。治安が良いということは、衛兵が警備しているのですか?」
「ううん、村に入るとき大きい柵を見ませんでした? あの柵は魔除けの術が施してあるらしくって、ぐるっと村を囲んでいるんです。術は村に対して悪意のあるものを追い返すもので、野犬や魔物、盗賊なんかも村の中に入れないんだって。ずうっとずうっと昔、王国の魔術師の人が作ってくれたってこの村の歴史書に書いてありました」
そういえば。と、納得したように微笑むネロ。釣られてリラも笑う。
「……ネロ様は、どうしてこの村に来たんですか?」
不意な疑問。ネロはぱちくりと目を瞬きをした後、穏やかな表情で答える。
「ネロ、でいいですよ。言ったじゃないですか、各地の魔術の知識を探求しているって」
了承されたとはいえ、呼び捨ては気が引ける。
「え、えっと。じゃぁ、ネロ……さんで…」
さん付けでもリラ個人にとってはやや抵抗があるものの、さん付けで呼ばれたネロがニコニコしているので言いにくい。その心の葛藤をネロももちろん理解している。
それで? と、リラの瞳を覗き込むように見つめるネロに緊張に似た何かが身体を巡るが、なんとか思考を整理して言葉を続ける。
「……こんなへんぴな村なのに? 魔術師は勿論、ちゃんとした医者だって居ない村なんだ。ネロさんが探しているような魔術の知識なんて無いと思うんだけど……」
リラがそう言うように、ネロのような宮廷魔術師が求めるほど重要な知識がこの村にある筈が無い。辛うじてあるとすれば、あの魔除けの柵に関する事ぐらいだろう。首都バルハデスに比較的近い村といっても生活に欠かせない設備が全て整っている訳ではない。国の特産品の一環である薬草のおかげで薬にはあまり困らないが、重い病気や大怪我に対応できる医者は居ない。医者ですら居ないこの村に魔術師が居る訳が無いと考えるのが妥当だろう。
さらに言えば、リラにとってネロが初めてお目にかかる魔術師だ。少なくともリラが生きている内で、魔術師がこの村を訪れたのはネロが初めてになる。
「目に見える全てが、真実とは限らないのですよ」
リラがそこまで言っても尚、ネロの瞳は何かに期待するような光で満ちていた。
ネロはくすりと小さく微笑み、そっと手を前に伸ばす。
「ここはマナの流れがとても強い。村の外は至って普通なんですけどね」
ふわりと、温かいそよ風がネロの手のひらに渦巻く。その風は僅かに蒼みを帯びていて、どこか優しい感じがした。
「マナ……?」
リラが不思議そうにその小さな旋風を見つめていると、ネロは黄金色の瞳に強い何かの意志を灯した眼差しで言葉を紡ぐ。
「マナとは、奇跡の根源。世界の糧。そして生命の力」
ふっと旋風を霧散させ、リラに向き直る。
「貴方にとっては地脈とか霊脈……神の歩く道、といった方が分かりやすいでしょうか」
神の歩く道。遥か昔、神様が歩くための道を自ら作ったとされる道のことを指す。
道といっても本当に道がある訳じゃなく、目に見えない一種の流れのようなものであるとか。ライラ村は行ったことはないが、神が歩く道に沿って巡礼する協会もあるらしい。
そういえば、神の歩く道があるかどうかで農作物の育ちやすさが違ったり、鉱脈の当たり外れに左右したりすると協会で自由貸し出ししている本に書いてあった気がする。
それを瞬時に思い出してこくりとリラが頷くと、ネロは説明を続ける。
「マナの流れが強い地域は統計的に豊かで活気があることが多いです。強い生命の力──マナが大地に流れていると農作物の育ちは良くなるし、鉱山の出土物が貴金属を多く含んでいたり、動物や人間も病気に掛かりにくく健康な生活を送ることができます」
当然、リラが魔術に触れる機会は一切ない。新しい知識の片鱗に触れているような気がして、一言も聞き逃すまいと耳を澄ませる。
「首都のバルハデスが山に囲まれているという点もそうですが、リズヴェーンが『神に守られし国』といわれる由縁もこれにあるでしょう。自然が多く残っている場所は、必然とマナの流れが強くなります。魔術師から言わせれば、リズヴェーンは『マナに守られし国』と表現した方が正しいですね」
そう雄弁に語ると、ネロはおもむろにローブの上着の下に隠れていた小さな鞄から、鎖の先に透明な水晶が繋がれた道具を取り出す。細い鎖の端を右手で摘み地面に向かって真っ直ぐに水晶を垂らすと、淡く蒼い光を帯びながらくるくると回り始めた。
「これは、マナの流れの強さを図る道具です。回転の勢いが強いほど、地面に流れているマナの本流は強いという事になります」
ネロの右手はピタリと静止したままなのに、水晶はくるりくるりと回転に勢いをつけ始める。その様子を目を輝かせながら見つめるリラとは対照的に、ネロは苦い顔をした。
「予想より大分強いですね……」
回転の勢いがそれ以上増さない事を確認してから、左手で水晶を止める。ほう、とため息をひとつつき、そっと鞄に道具をしまった。
「えっと……マナの流れが強いことは、良いことなんですよね?」
その様子を見て、純粋な疑問としてリラは問う。
「そうなんですけど……」
疑問を投げかけられたネロは、やや困った表情を浮かべて、言葉を慎重に選んでいるかのように思案する仕草を見せる。リラはまだ子供だ。例え話無しに理解出来るような魔術の説明をするのはなかなか難しい。
「……では、常日頃から運動をする訳でもないのに、たくさん食事をする男が居るとします。好きなだけ食べに食べてそのまま寝る、その生活をずっと続けていたら男はどうなりますか?」
難しい用語が飛び出してくるのではないかと意気込んでいたリラは思わずぽかんとする。が、話はまだ続いてるのだと即座に認識し、あわてて答えた。
「神様から罰を受けると思います!」
ネロが吹き出す。一方のリラはネロが何故吹き出したのか分からなくて、ただひたすらに困惑するしかない。子供の発想とは随分純粋なものである。それが協会で生まれ育った子供なら、尚更だろう。
「くっ……あはは! 聞き方が悪かったですね。ほら、たくさん食べる人ってどんな体型が一般的ですか?」
肩を震わせてくつくつと笑うネロの付け加えた質問で答えが分かり、リラはかあっと頬を染めた。暫くなんとも言えない声を小さく上げたあと、気恥ずかしさと今度はきちんと合っているかどうかの不安で、しどろもどろになりながら答える。
「……えっと、えと…太って、います……?」
語尾が上がってしまっているあたり、よほど答えに自信が無いのだろう。それを察したネロが、「大丈夫。自信を持って」と、無言で伝えるかのようにリラの背中を軽く叩いた。
「そうそう。運動をする人なら良いんですけど、食べて寝るだけの生活をしている人は太っていますよね。……では、太った男がさらにその生活を続けたらどうなりますか?」
さらにその生活を続けたらどうなるか。
男は既に太っている。既に太っている男がさらにその生活を続けるなら。
「さらに、太る……?」
不安げに答えたリラだが、ネロの表情を見て安心した。
「そう、正解です。よく出来ました」
さながら難しい問題を解いた我が子を褒める母親のような。そんな笑みを湛えながら、ネロはリラの髪をくしゃりと撫でた。
「太って太って、男は動けなくなって、それでも食べ続けたらそのまま死んでしまいます」
正解出来たことの満足感と自信と、そして撫でられた嬉しさを感じながら、リラはネロの言葉に耳を澄ます。
「農作物にも同じ事が言えるんです。作物に栄養をあげすぎると、根が傷んで土から栄養を摂ることが出来ず……そのままダメになってしまいます」
「へぇ、そうなんですか!」
今までリラの知識源は協会が管理している書籍からのみだった。農家の人間や畑仕事を任されている修道院の人間からすれば当たり前の事なのだろうが、畑仕事を一切させてもらえないリラにとって、そういった口伝や経験から学べる知識というものはほぼない。
新しい知識を思わぬ形で手に入れたことが堪らなく喜ばしく、堪らなく愛おしい。
「マナの流れが強い所は農作物の育ちが良くなるって言ったでしょう? それはさっき話した栄養をあげすぎてもダメになるのと一緒で、マナの流れが強すぎても良くないんです」
リラの中ですとん、と何かが落ちた。ネロの話を理解できたことに興奮を覚える。
それも束の間、理解したからこそ興奮を覆い尽すように不安と焦燥が襲った。
「じゃ、じゃぁこの村は……」
その不安げな声音と表情で、リラの心情の全てを理解したのだろう。ネロも真剣な表情を浮かべる。
「さらに言えば、農作物だけのお話じゃないんです。人間にも、同じようなことが言えます」
心臓を突かれたような衝撃が、リラの身体に走る。人間にも同じようなことが言えるとはどういうことなのか。それは既に、リラの想像できる範囲を容易く超えていた。
「普通に生活できてるのが不思議なぐらいですよ。いや、この村人達の特有体質なんでしょうか。……ともかく、これ以上マナの流れが強くなったりすると村の人間が全員倒れてもおかしくありません。それほどまで、ここは危険な土地と化している」
目の見える全てが、真実とは限らない。
この話を始める前に言ったネロの言葉が、脳裏を掠める。
マナの流れはネロはともかくリラには見えない。それを調べる道具すら、リラは持ち合わせていない。それは当然だ。リラは今の今まで、マナなどという存在すら知らなかったのだから。
リラは村の中で結構博識な方である。やることが無いが故に本を読み尽くしていたのだから当たり前と言えよう。そのリラが知らないことなのだから、間違いなく村の人間が知っていることではない。
これは親から子への口伝や経験から得られる知識とはわけが違う。魔術師から直接教えてもらわなければ、一切知ることなく生涯に幕を閉じるに違いない。
ぐるぐると頭の中を巡る様々な思考の中、ぱん、とネロが手を打つ音でリラは現実に引き戻された。
「と、いうことで」
ニコリ、と笑うネロ。
「この村を救うために、私を案内してください」
話の展開テンポが早い病気を克服したい…です…(゜ω゜)