第一章〈発端は秋の冷たい風を伴って〉
相手が腹を立てるだろうと思っていたエリザベスは、彼の丁寧な返答に当惑した。だがエリザベスの振る舞いには愛らしさと茶目っ気がいりまじっているので、どんな相手でも怒らせるのは難しい。ましてダーシーはこれほどまでに魅せられた女性に出会ったことがなかった。彼女に身分の低い縁者さえいなければ、自分はまさに危険に晒されているとダーシーは本気で思っていた。(Jane Austen/PRIDE AND PREJUDICE)
第一章 ≪発端は秋の冷たい風を伴って≫
1
静謐な空気を揺するように電話が鳴っている。呼び出しの音は既に十をこえていた。電話の相手は余程辛抱強いのか、或いは、この家の構造に関して少なからずある程度の知識があるのか、そのどちらかだろう。長い廊下で幾重かに反響しながら耳に届けられる呼び出し音は、一向に止まる気配がない。
少女は怠惰な動作で布団から体を引っ張り出し、時計を見た。長い髪が視界を覆っていたので、それを指先で払う。時刻は正午。日曜日とはいえ、さすがに寝過ぎてしまっただろうか、と、僅かな罪悪感とささやかな充足感とをかき混ぜた感慨を少女は抱いた。いつもよりも長く寝てしまっていただろうかとは思っていたが、まさか正午までとは思っていなかった。しかし、その贅沢な時間の使われ方が、彼女は嫌いではなかった。
眠気を頭からはたき落とすように息を吐き、ベッドの縁から足をおろす。ベッドに腰掛けたまま窓の外に目を向けた。敷地に植樹された木々の、寂しげな枝が見えた。十月も間もなく終わる今、葉はだいぶ数を減らしている。空気は今日も冷たい。足をのせた毛の長いカーペットも、そこに乗るのを躊躇わせるには十分な温度だった。今彼女にとって最適なぬくもりを保っている場所とは、今し方出てきた布団の中だろう。だが、彼女を呼ぶ電話の音は未だに止まらない。
両親はどうしたのだろう。彼女はガウンを肩に掛け部屋を出ながら、眠気を残した頭でまずそれを考えた。後ろ手で扉を閉め、左右に伸びた廊下を観察する。ここは二階。左手に、紅葉と似た色彩をした円形のステンドグラス。反対へと進めば階下へ移動する為の回廊。その回廊の脇に、この音の本体となるクラシカルな電話が置かれている。音の数は、へたをしたならもう間もなくで百に達するかもしれない。それでも音は途切れる事なく鳴り響いている。
ここまでくると確実なのは、相手が暇だとか辛抱強いだとかという推測ではなく、この邸宅には今現在、彼女以外に人がいないという確証だった。電話の音以外、この邸宅の中は無音である。
両親は仕事だろうか。彼女の父も母も、曜日と仕事の関連性がない仕事をしている。朝から二人とも仕事で外に出ているというのは、大して珍しいことではない。また、仕事で急遽家を出ることが彼女に知らされていないというのも、同様だった。
まだ眠たく、気怠い足取りで電話にまで辿り着いた少女は、数秒、電話を見下ろした。音の数を数えていればよかったと後悔した。数えていれば、ちょうど百回目で受話器を持ち上げたのだが。
受話器を持ち上げる。ダイヤル式で骨董品のような形をした艶やかな黒色の受話器も外気と同様に冷たい。それを耳にあてがう。
今思えばその時に、これまでの平穏な日常は、蒸発をして、消えてしまったのだろう。
2
私が暮らす、すり鉢状の形をしたこの街の西端には、広い森がある。実際には森ではなく、由緒ある学園であるのだが、この街に住む人みんなが口を揃えてこの学園をそう呼ぶので、私もこう紹介することにしよう。この街の西端には、広い森がある。
学園に続く長い坂道には銀杏が立ち並び、そして学園の白壁もずっと続いている。白壁の向こうが、私の通う高校のある、聖蔭学園である。高校だけではなく、中学から大学までを内包した由緒ある学園で、高校は広大な敷地の中でもっとも見晴らしの良い特等席を独占するように校舎が置かれている。景観は最高である。なにせ、学園の周囲には校舎よりも背の高い建物がまるでない。土地の形状的に、この学園がこの街の中で一番高い位置にあるのだから当然である。街には背の高い建築物が存在しておらず、背の高いマンションは隣町に行かねば建っていないのだ。民家は大半が二階建てである。以上の条件によって、教室から外を眺める行為とは、俯瞰そのものだった。
学園に続く歪曲した坂道、パズルをするように並んだ家屋、東端にある山の深い緑色。それらが、私の教室からは眼下に見下ろせる。
教室から見下ろせるもの。
それが、この街のすべてだった。この街には、それくらいのものしかない。看板を煌々と光らせる娯楽施設や商業施設なんてものは、この街にはない。
この町の中心は、この聖蔭学園であると言って良い。西の端にあるのだが、この学園を除いてしまえば何もなくなってしまうようなこの街にとって、中心であるのは明らかにこの学園だった。
学園からは、四季の色彩が日毎に装いを変えていく様を眺められる。春の若草。夏の群青。秋の紅葉に、冬の純白。今は晩秋。景色は赤や橙を終え、雪の色に染まる前の、鈍色の季節である。
空は少しずつ高くなる。
陽が低い位置を飛ぶようになる。
空気は堅くなり、肌を刺しはじめる。
洋菓子店にモンブランが出る。
クリスマスケーキの広告が張り出される。
いつもの景色だ。毎年、変化もなく繰り返される定例行事が今年も通年通りに催されている。
だが、そんなすべてが今はどうでもいい。
どうでもいい。
そう、どうでもいいのだ。
情景描写やこの町の説明なんて、今はどうだっていい。
問題は、私が通う高校の横に並んだ絢爛豪華な邸宅で始まった。
住居とするには広すぎる敷地に、時代錯誤な佇まいをした住居。何世紀か前の貴族の住まいさながらの建築物が、私の住まいである。築年数はもうすぐで一世紀を迎え、もしも過去に偉人が住まっていたのならば文化財に認定されていてもおかしくはない、現在に数少なかろう、豪邸だ
私は、いわゆる、セレブというやつだ。さすがに自分から自己紹介で自分をそうは言わないが、周りの友人知人は口を揃えて私をそう呼ぶ。せれぶだ、と。だが、実際にセレブリティ全開なのは、私の両親である。母は定職をもたないが、結婚前には女性としては珍しかろう県知事を務めており、父の役職は、現職の学園理事長である。そう。何を隠そう――いや、隠してはいないのだが――私の父は、私が通う聖蔭学園の理事長なのだ。
なのだが、その父が、母と共に、何の前触れもなく、なぜか二度目のハネムーンに旅立った。
私がそれを知ったのは、起床した直後だった。
鳴り響いた電話の音。持ち上げた受話器。その向こうから一方的に告げられた現状。電話の向こうにいたのは父だった。その父が、前述した通りの衝撃的事実を私に告げた。母さんと一緒に世界を一周してこようと思う。突然の事ですまないとはおもうが、結婚記念日の祝いとして世界を周遊してくる。帰宅はいつになるかわからないが、なるべく卒業のタイミングには帰るようにする。それまで、ひとりにしてしまうが、どうにか頑張って生活していてほしい。理事としての仕事は、既に引き継ぎ済みである。学園には問題は起きないだろう。それじゃ。チャオ。
どうやら私は、私の意志やら何やらも尊重されぬまま、この邸宅での一人暮らしというものを強制されたらしい。父は出港の時間だからと、用件だけを告げるや否や、電話を切った。後から私の耳に響くのは通話終了を告げる無機質な信号音だけ。
茫然とした。体温が急激に低下するのを感じた。先程までしぶとく頭に居座っていたはずの眠気が、いつの間にか粉砕され、四散し、消滅していた。
まずい。
これはまずい。
両親がいなくなる、とは、つまり一人暮らしをしておけということだ。いかに豪勢な邸宅に住まっていると言っても、さすがに家政婦までは抱えていない。炊事洗濯などの家事は住人が行わなければならないのは、よその家庭と同じである。これまで、それらは、母が取り仕切っていた。その母がいなくなった。イコール、残された住人が代行せねばならない、イコール、私がやらなければならない。
自慢ではないが、成績優秀、容姿端麗が自他共に認める私の形容句であるが、私は一人で生きていく為の技術や知識に関しては皆無である。自慢ではないが、私は包丁を持った事がない。自慢ではないが、私はフライパンを持った事がない。自慢ではないが、いや、もういい、自慢してやるさ! 自慢だが、私は誰かがいなくては一人で生きていける自信がない! 平成も大分経ったこのご時世に天然記念物みたいな存在感を醸している箱入り娘。それが私、柊 月日だ!
事態が判明するや否や、私は下ろした受話器を再度持ち上げ、親友に電話をした。
呼び出し音も数回で、親友は出た。
彼女は、少し意外そうな声音で何があったのかと聞いた。
「た……」私はたどたどしく言葉を紡ぐ。
『た?』親友はあまりに当然すぎる聞き返しをした。
「……助けてっ!」私は電話に向けて叫んでいた。「お願い、助けて! 大変なの!」
『なになに、どうしたの?』少しの動揺もなく彼女が聞き返す。『泥棒にでも入られた? それとも下着を盗まれた?』
「違うの! そうじゃないの! でも大変なの!」
私は自分に起きた現状を事細かに伝えた。
『へえ、そう。それは良いことを聞いた』少しの沈黙。『……じゃないや。えっと、大変だねえ。よしわかった。なら、私がもっと面白く……、じゃなくって、スパイスを……でもなくって。ええと、ええと、……力。そう、力になってあげよう、助けてあげよう。うん、まかせて。今すぐ行くから。じゃ』
一方的にまくし立てた後、彼女は電話を切った。その後、受話器から聞こえるのはツーツーという規則的な音だけ。
私は受話器を戻す。
少しだけ冷静になる。そして、思う。
私は、救いを乞う相手を間違ったかもしれない。
3
この町は、なんと言うか、まったりとした場所だ。俺が通う聖蔭学園以外にあるものと言ったら、駅くらいなものなのだ。まあ、生活に必要な各種店舗がないわけではないが、しかし割合で分別をしたならこの町で大きな存在感を醸し出しているのは紛れもなく聖蔭学園である。この町とは、この学園を骨子として成り立っているのだ。それ以外の娯楽的施設なんてものは存在していない。ただ、日常生活を滞りなく、かつ必要最低限に営める程度の環境が整っているだけで、ただただ、まったりと時間を経過させている、そんな場所である。
さて、不要な説明をぐだぐだと述べていても意味はないので、さくっと端的に俺の状況を説明しようと思う。
家を失った。
語弊もないよう、一言で説明をさせてもらった。意味はそのままである。家を失ったのだ。まだ高校三年生という、将来への夢やら希望やら展望やらも定まってはいないが、しかしそれらには無限の可能性を秘めているであろうこの年頃にして、俺は家を失ってしまったのだ。
俺の住まいは、通う聖蔭学園からは歩いて十分ばかりという好立地ながら、今時なかなかお目にかかれない古びたアパートだった。名前は『尾張荘』。なんとも縁起のよろしくない名前である。まあ、家主の名前が尾張さんであるから、その名を冠して尾張荘としたのは容易に想像出来うるものであるのだが、しかしその語音まで考えて命名してほしいところだ。尾張荘、そう、『終わりそう』だなんて縁起でもない。それに、たちが悪いのは終わりそうと銘打っているのだから終わりそうなだけであって、なかなかどうしてしぶとく終わらないのだろうと思っていた矢先に、家主さんからこのアパートを取り壊すという衝撃的な事実を明かされた事である。名は体を表せよ、この野郎、とは、さすがに家主さんを前にしては言えなかった。
「いやね、この一年で住んでいたのは君くらいなものだったから……」初老の家主さんは俺を前に申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。
「はあ」曖昧な返事を返しながら、俺は頭の中で、そう言えばこのアパートで人間というものを見かけていなかったなぁ、と思い返す。夜ともなれば、ただの箱だ。俺が帰宅しなければどの窓も灯りを外に漏らすことがなかった。「まあ、ええ、そうですね」
「それで、ね。申し訳ないんだけれど、来年には取り壊して土地も売却することになったんだ」
「はあ、そうですか。来年ですか」と、言うことは、あと二カ月ばかり猶予があるということか。
「だから、ね。すまないんだけれど、片梨くん、新しいお家を探して、そちらへ引っ越しをしていただけないかなあ、と……」
さあ、かくして俺、片梨栄光、十七才は、駅前の不動産屋の前で腕を組んでいるという訳である。
しかし、問題は山積みだ。
こうやって物件の数々を見る限り、この町にはアパートにしても何にしても、無人のままとなった部屋の数は相当なものであろう事がはっきりと理解できる。即入居可能、と書かれた物件のなんと多いこと。どうやらこの町は、総人口よりも住居数の方が上回っているようだ。需要と供給の不釣り合いというやつだ。なるほど、そういう状況であったのならば、終わりそうだった尾張荘が実際に終わってしまったという落語の落ちみたいな顛末にも納得がいく。しかし、どの物件も、俺の懐には見合わなかった。それが、問題だ。
掲載されている物件は、軒並みそれまで住まっていた尾張荘の家賃よりも高額な賃料を掲げている。おおよそ倍の金額である。これは、さすがに即決即断で引っ越し先を選ぶことができない。
はてさて、どうしたものだろう。いや、どうにかしなくてはならないのだが、目の前にしたすべての広告が、俺の懐事情に対して赤々とした警告の赤色灯を灯して現状を伝えてくる。さあ、どうする。家を失うか現在よりも高い家賃を選択し、徐々に徐々に貯蓄を失い、果てには蓄えなしの年中おけらとなるか、好む方を選ぶがよい。そんな声が幻聴ではなく、はっきりと聞こえている気がする。
俺は魂を吐瀉する気概で深々と息を吐いた。
本当に、どうしたらよいのだろう。栄光という本名が泣いている。こんな現状には栄光の影も形も存在していない。名前負けもよいところだ。尾張荘と同じだ。名が体を表さなくてどうするというのだ。
「まったく、この年でお先真っ暗という窮境に直面するとは……」
無意識に呟いていた。
なんとなく、頭を掻く。顔に左右非対称の表情を浮かべる。腕を組み、顎を揉むようにさすり、再びため息。首を傾ぎ、再び頭を掻き、そして、何度見ても減額することのない家賃を睨む。
そんな時だった。
「あれ、エーコーじゃん。どしたの?」
声がして振り返ると、そこには自転車に跨ったクラスメートの姿があった。空気が冷たくなったこの季節に短いスカートをはいて自転車で風を切るとは、また大層挑戦的な女子だなあ、と思うのと同時に、そんなどうでもいい事に思考の一部分を振り分けた俺の脳に対して、切羽詰まっていると思っていた割には大分余裕があるのだなあと、自己分析。
「おう」ポケットに突っ込んでいた手を引き出し、それを頭の上にまで持ち上げた。
「おう」彼女もまた、俺と同じアクションをした。しかし、身長が同年齢の女子よりも低い小柄なこいつがするとこの行動は、あまりやり慣れていないからなのか、挨拶と呼ぶよりどこかの民族の何かしらの儀式のようにぎこちなかった。
それを自身で悟ったようで、彼女は持ち上げた手をすぐに下げ、自転車のハンドルに戻した。
「なにしてんの?」
「見ての通り」
「首の運動? もしくは表情筋のストレッチ?」
「そんなことを、こんな場所でやるかよ」いや、家でもやらないが。
「じゃあ、家探し?」言いながら首を傾ぐと、肩に触れるくらいにまで伸ばされた彼女の髪が、その動作と一緒にふわりと揺れた。
「家探し」
「どして?」
「まあ、いろいろと」
「ふうん」
「聞かないのかよ」
「なにを?」
「いろいろ」
「聞いてほしいの?」
そう聞かれてしまうと、説明するのも面倒、いや、そうではない。説明する事が俺にとって不名誉であろう事に気付いた。
家を失い、お先真っ暗、人生のピンチ。そんな状況をクラスメートに果たして説明など出来るものだろうか。ましてや、こいつに。
出来ない。絶対に出来ない。こいつにだけは。
察した俺は顔を背け、再び広告と向き合った。
「ひ……」
「ひ?」彼女は栗鼠のように首を傾げた。
「引っ越しでもしようかと思って……」少なからず、嘘は言っていない。
「高校三年生にして? このタイミングで?」
彼女は言いながら俺に接近した。そして、広告を見詰める俺の横顔を観察しだす。
「エーコー、そんなにお金に余裕あったっけ? バイトしてるけどお弁当はいつもモヤシ炒めのエーコーに、そんな余裕あったっけ?」
「何故おれの弁当の中身をお前が知っている」
「そりゃあ、長い付き合いですから」ふんと、誇らしげな息を吐く。
「ああ、うん、そうだな」
俺とこいつとの付き合いは、幼稚園からである。それを世間では、幼馴染と呼ぶのだろう。
「だからと言って、弁当の中身を知っている理由にはならないだろう」
「モヤシ炒めは、正真正銘モヤシ炒めのエーコーに、そんな余裕あったっけ? モヤシしか炒められない家計状況のエーコーにそんな余裕あったっけ?」
ぐ、と喉が鳴る。
こいつは、何故そういう事を知っているんだ!? いつも昼食は校舎の屋上で誰にも見付からないよう見られないようひっそりと食べていた筈なのに!
「小麦粉に醤油や塩、胡椒を混ぜて練ったものを焼いてお肉の代用品にしているエーコーが?」
ぐああ。
俺は心の中で悲鳴を上げた。
錆びた機械よろしく、俺はぎりぎりと彼女の方を向いた。
「ほ、峯福 鈴さん……」
「はい、片梨エーコーくん」
「鈴さんは今、な、何の事をおっしゃっているのか……」
「ねえ、知ってる、エーコー」鈴は急に深刻そうな表情を浮かべ、憐れむような口調で言葉を継いだ。「唐揚げの端っこの方って確かに美味しいけど、あれはただの小麦粉や片栗粉の塊なんだよ? あそこに肉はないんだよ? 肉のように感じているのは、ただの錯覚なんだよ?」
「いやだなあ、僕はそんな事――」
「最後にお肉を食べたのは、先月だよね。あの時のエーコーの顔は幸せそうだったなあ。美味しかった? あの時のコロッケ」そこで鈴は、あ、と何かを思い出した。「ごめん。違ったね。あの時のは、じゃがいも100パーセントだったっけ。その中に、例の、小麦粉の加工品を加えてたんだっけ。いやあ、それだというのに、あの時のエーコーの顔は幸せそうだったなあ。至福の顔をしていたなあ」
鈴は自転車のカゴに入れた鞄に手を入れ、自分の携帯電話を取り出した。それを開き、俺に向ける。
「ちなみに、私はその時のエーコーの顔を待ち受け画面にしております」
ぐがあ。
俺の心拍は、その瞬間確かに停止していた。
目の前にあるのは、クラスメートの携帯電話。そのディスプレイに映っているのは、紛れもなく俺の顔。屋上でひとり昼食をしている、いつかの俺の顔。
質が悪いのは、その写真には加工がされているという事。頬張っているコロッケには矢印で、今し方鈴が言った言葉がしっかりと注釈が入っている。
考えるより先に手が動いていた。鋭く、素早く動いた俺の手は目の前の携帯電話を奪取しようと無意識に動かされていた。が、彼女の動きはそれよりも早かった。
携帯電話は、すとん、と彼女の服の中に収納された。襟元から、その内側へ。すとんと。
俺は瞳を細めて彼女を睨んだ。
「そこは携帯電話を収納する場所じゃないと思うんだが」
「エーコーから奪われない為には、ここが二番目に安全だから」
確かに、服の中に仕舞われてしまうとその中に手を突っ込む事など男の俺に出来る筈もなく、もし実行などしようものなら、この相手、峯福鈴なら、たとえ相手が幼馴染であろうとクラスメートであろうと、警察へと突き出し、その後の人生が再起不可能になるまで徹底的に叩きのめすことだろう。
「ちなみに素朴な疑問なんだが、一番安全な場所はどこなんだ?」
「やだなあ、そんな事、クラスメートの前では言えないよ」
言えないような場所なんだ。
「その写真はどうしたんだ?」
「最近のカメラって高性能でさあ」彼女は満悦顔で言う。「遠い所からでもあの画質って凄いよね」
「いや、俺が聞きたいのはどうしてそれを撮影したのかって部分なんだが……」
「それは、そこに人の弱みがあったから」と言って、頬を僅かに赤らめる鈴。
赤らめる意味がわからん。
「とりあえず、その画像を消す気にはならないか?」
「どうして、せっかく手に入れた人の弱みを手放せるのかな」
「なら、加工した部分を消さないか」
「どうして、せっかく手に入れた人の弱みを手放せるのかな」ふん、と鼻を鳴らす。「大事な事なので二回言いました」
「そんなに力強く道徳心に背いた発言をしないでいただきたい」
「まあ、消してもいいんだけれど」鈴は右手の親指を上に向け、グッド、のサインを出した。「エーコーの写真は、この他にもまだまだ沢山あります」
「は?」
「人に見せられるものから、見せられないものまで。それはまさに、ゆりかごから墓場までのように」
きっと、言葉の使い方を間違っている。
「俺はおまえに何かしたか? 恨まれるような事をしたか?」
「え? してないよ?」
「なら、どうして……」
「だから、そこにエーコーの弱みがあったから」
「人の弱みを山のように言わないでくれ」
「ちなみに最新の弱みは、エーコーの住む尾張荘が、名前の響きも虚しく取り壊される事になり、尾張荘で唯一の住人だったエーコーが現在路頭に迷っているというやつね」
ぐんがあ。
もう、心の中の悲鳴は実際に口から出てきそうなほどの大きさになっていた。
俺は鈴の肩を掴み、問うた。
「何故それを知っているんだ!? つい今し方突きつけられたばかりの俺の状況を、どうしてもうお前が知っているんだ!?」
鈴は手の甲で髪を掻き上げる。
「私の情報網を甘く見てもらっては困るなあ、エーコーくん。私の耳は、三里先の人の声だって聞き取れるのだよ」
それは情報網ではなくてただの地獄耳だと思うし、そんな聴力は絶対に嘘だとしか思えないのだが、だとすると彼女が俺の現在の窮境を知っていた事を説明できないし、何より、こいつならそれが本当でも信じられてしまうのが恐ろしいところだ。
「さて、家無しのエーコーくん」
「まだ失ってない。人をホームレスのように言うな」
「家無し候補生のエーコーくん。あ、ちなみにホームレスとは言わなかったところが私の愛だと思ってね」
随分とまあ、悪辣な愛だこと。
「……ああ、もういいよ。なんだよ。なんなんだよ」
「私は君に、とっておきの情報を提供しようと思っております」
そう言って彼女は、栗鼠のように笑ったのだ。
そうだ。
思えばこの時、この瞬間が、分水嶺だったのだろう、と俺は思う。
4
柊家。その応接室。
彼は、これまでにこんなにも居心地の悪い空間を体験した事はなかった。
向かい合わせに座るのは、この豪邸の住人である柊月日、そして、峯福鈴と片梨栄光。
月日は腕を組み、不機嫌そう、というレベルを超過し、憤怒と形容すべき双眸で目の前の客人を睨んでいる。それも、栄光の方だけを一方的にである。相手に茶を淹れる様子も、菓子を提供する素振りも彼女には見られないが、それは不可能な事であるから仕方がない。月日は茶葉や薬缶、湯沸かしのポット、そして湯呑みなどがどこにあるのかを知らないし、更には、茶を淹れられないという技術的、且つ、根本的な原因を持ち合わせていた。
しかし、これからいったい何が起こるというのだろう。
栄光は、嫌な予感しか感じられなかった。
そんな彼が、沈黙と空気の感触に耐えかねて、おずおずと挙手し、口を開いた。
「あ、あの、一体何の用件でしょうか……?」
「別にあなたに用はないわ」月日が言葉を遮るように言った。その言葉とは、形容するなら刃物のような鋭利さで、その鋭さを伝える為には、斬鉄剣だとかエクスカリバー的な、名状し難い代物を挙げねばならなさそうなものだった。
「ああ、そうですか。それじゃあ帰っても――」
いいでしょうか。と、丁寧な言葉で提案しようとしたのだが、横に座る鈴はそれを遮り、例の携帯電話をつらつかせながら満面の笑顔で言葉を返す。
「絶対にダメ」
呻きながら、栄光は肩を落とし、溜息を吐く。
あの後――。
彼は鈴にどこへ行くのかと尋ねたが、鈴は、すぐそこだとしか答えず、すぐさま移動を開始してしまった。そうして、到着したのが、この大豪邸だった、という訳である。
栄光は、この豪邸を知っていた。いや、この街に暮らす人間で、中世貴族が住まいとしているかのような時代錯誤で絢爛豪華なこの豪邸を知らぬ者などいない。聖蔭学園の横にあり、聖蔭学園に次いでこの街で広大な敷地を誇る、この邸宅だ。知らない筈がない。
だが、この豪邸に住んでいるのがクラスメートである事までは、知らなかった。理事長の娘だ、とは聞いていたが――。そう思いながら、栄光は向かいに座る月日を見た。
実のところ、彼はこれまでに柊月日という人物と交流した事がなかった。いや、彼だけでなく、学園すべての男子生徒が、彼女と言葉を交わしたり、何かしらの触れ合いを達成した事がない。
目の前に座るクラスメートは、同世代であるとは思えぬ程にプライドが高く、その高さ如何を比較するには一国の皇女が必要で、もし声をかけようと試みれば、返されるのは言葉ではなく、相手が言わんとしていた言葉を押し込め、抑圧し、近寄るなと命令する冷徹な蔑視の双眸のみで、それが誰に対しても差別なく平等に向けられているものだから、同世代の男子にとって柊月日とは、見目麗しいその容姿でありながら、畏怖すべき対象であった。高嶺の花という形容句は、残念ながら聞いた事がない。
正直、栄光は月日の顔を正面から見た事がなかった。その声を聞いたことも、ない。
だと言うのに、始めてみた表情がこれで、始めて聞いた声が、あれだ。
不運だ――彼は心底そう思った――今日一日は、本当についていない。家を失い、いや、現実にはまだ失ったわけではないにしろ、少なからずそうなるのは遠い未来の話ではなく近々で、どうにか危機を回避すべく行動していた矢先に、この状況を一番知られてはならない相手、鈴に、誰よりも早く知られてしまい、その鈴に訳も分からぬまま連行された豪邸で、茶も茶菓子も出されぬまま、自分は威嚇されている。喩えるならば、相手はホワイトタイガーで、自分はウサギだ。そんな立場関係だ。運悪くホワイトタイガーに出くわしたウサギだ。これを不運と言わずして何をそう言えばよいのか――彼の思考は、今以上の不運を思い付く事が出来ない――宿題を忘れた日に限って教師に名を呼ばれるなど、比較対象にもならない。登校中に雨に降られたなど、可愛いものだ。車にひかれた……そう、これだ。それなら、今の状況と対等だろう。それくらいの不運だ。あるいは、たまたま降ってきた隕石が頭に直撃したとか……。
「なんて、不運だ……」
栄光の口からは、無意識に不平がこぼれていた。完全な無意識だった。思考した内容が、彼の意思とは無関係に口を開かせ、実際に言葉として放たれてしまっていた。
しまった、と思った時には、手遅れだった。咄嗟に彼は目の前に座るホワイトタイガーへと目をやると、彼が予想していた通り、ホワイトタイガーこと柊月日は、瞳の端を一層鋭利にして彼を睨んでいた。
「なによ」月日は声を上擦らせながら言った。「なんなのよ、その溜息混じりの文句は。そんな文句は私が言いたいわよ。なによ、なんなのよ、もう。どうしたらいいのかわからない大変な時だって言うのに、見ず知らずの変な男が家に上がり込んできて、その上、不運だ、ですって? こっちの事情も知らずに!」彼女は強くテーブルを叩く。「ちょっと、スズ! どういう事なのか説明して!」
ああ、諸悪の根元はこいつか。栄光は今の一言で、事態をこのような状況にした張本人が鈴であることの確信を得た。数分前から、鈴がきっかけ、或いは、発端、原因、元凶。それらの類であろうと考えてはいたが、その立場の位が上がった。諸悪の根元、と。
栄光は、今度は気づかれぬよう、そっと目線をスライドさせ、横に座る鈴を睨んだ。
彼女は、この場に不釣り合いな笑顔だった。
「見ず知らずなんて、薄情なことを……」夏の花のような笑顔を咲かせながら、鈴が言った。「クラスメートじゃない。片梨栄光。知らない? あ、いや、まあ、いいや、エーコーの事なんて」
「まあいいやって、おい。無理やりつれてこられた俺が、まあいいや、扱いって……」
「エーコー。この人は柊月日さん。ま、知っていると思うけど」
「無視かよ」
「学園長の娘で、現代の世に残された天然記念物レベルの箱入り娘で、超弩級のお嬢様よ。エーコー程度の平民が口をきくどころか、そのお姿を拝見するのも重罪になりえるお方なので、ここでの言動には細心の注意をはらうことを、わたしは幼馴染としてアドバイスします」
「で、どうして俺がそんなお方の前に連れて来られたのでしょうか?」
「まあまあ、そう話を急かさないで。ええとね、事の発端は――」
鈴はそうして、月日からの電話の内容を端的に説明した。両親が家を長期間離れてしまい、卒業まで月日がこの広大な邸宅で一人暮らしをせねばならなくなってしまったと。
説明を聞かされ、栄光は応接間を見渡した。この部屋だけでもかなり広い。学校の教室よりも広いかもしれない。そんな部屋が、この屋敷には一体どれくらいあるのだろうか。いや、部屋数は関係ないだろうか。建物自体がただでさえ巨大なのだ。そんな屋敷に一人暮らしとは、なんとも贅沢な話だ。
だが、まだ、話が繋がらない。
栄光は、自分がここに連行されて来た理由を未だに理解できていない。それは、月日も同様だった。彼女もまた、自分の前に見ず知らず――ではなく、クラスメートではあるのだが――の人間が座っているのかがわからない。栄光は鈴に、家をなくした彼の為にとっておきの情報があると言われてやって来た。月日は、この窮境に対して力になってあげると言われていた。二人とも、まだ会話の中で迷子になっている。そして、鈴はと言えば、そんな状況を楽しんでいる。それは、もう、心底。彼女の輝く笑顔がそれを物語っている。この部屋に三人が揃ってからというもの、その表情に雲がかかる気配はない。
そんな会話迷子の状態は、その後の一瞬で終了する。栄光が、住んでいた尾張荘の解体に伴い家を失い路頭に迷っているという件の、直後に。
「と、いうわけで」鈴は一度呼吸を整え、目の前に座る月日と自分の横に座る栄光を交互に見ると、胸の前で、ぱん、と手を合わせた。「わたしは、二人が一緒に、ここで暮せばすべて丸く収まると思うのですよ」
しばし、空気が凍結したかのような静寂が訪れる。
「は――」やがて、月日は両目の端を吊り上げる。「はあっ!? な……なんですって!?」勢いよく立ち上がり、彼女は栄光を指差した。「わ、私が、こいつと!? 私の家で!? なんで、どうしてよ!?」
「なんでって、どうしてって、いやだなあ。それでお互いの問題は解決するじゃない」
「解決って、なにが、どう解決だよ」栄光は呆れながら聞いた。彼は月日と違い、鈴の提案のあまりの突飛さに驚く事も、月日のように激昂する事もできなかった。
「ご飯をまるで作れない月日ちゃんと、家をなくしたエーコー。二人が一緒にいれば、どっちの問題もカバーできるじゃない。あ、エーコーはね、料理が上手なんだよ。ねえ、エーコー?」鈴は例のカメラを持ち出し、意地悪く笑いながら栄光に見せた。「なんといっても、小麦粉だけで唐揚げが作れてしまうくらいに」
ぐあぁ。栄光は喉を鳴らした。
「だからって、見ず知らずの……その、仮にも思春期の男女が一緒に暮らすなんてふしだらよ、破廉恥よ!」
月日の顔は今、熟れた果実のように紅潮している。それは、怒りに由来するものと、それとは別のものとがない交ぜになり、見る間に色が濃くなっていく。
「そうだ。そんな強引な解決方法をとらなくったって、他にもっといい案があるだろう」栄光は手振りを添えて必死に他の案を模索する。「ほら、お前の家って金持ちなんだろ? だったら――」
「お前って言うな!」鋭い一括。
「つ、月日さんのお宅はお金持ちなんですから、使用人の一人や二人……」
ふん、と鼻を鳴らし、月日は肩にかかる髪をふわりと払った。
「いるわけがないじゃない。漫画の世界じゃあるまいし、使用人だなんて、お金の無駄よ」
「無駄って……」
栄光はショックを受けた。自分も節約を心がけてこれまで一人暮らしをしてきたつもりだ。それこそ、無駄な買い物をせず、そういった買い物は無駄だと強く噛み締めながら生計を立ててきた。そんな彼からしてみれば、月日にはそういった考えは不要であるように思えていたからだ。勿論、たとえ裕福な家庭であれ節制を心がけるのは大切な事だとは思う。だが、逼迫しているかそうでないかの差は大きい。月日は――悪い言い方かもしれないが――節約しなくても大きな影響はない筈だ。食事をとれなくなるわけでも、家が無くなるわけでもない。
だが、彼は違う。そうせねば、その日の暮らしもままならなかった。バイトで得た収入のほとんどが家賃で消えてしまうので、彼にとっての節約とは、死活の問題なのだ。食事が無くなる。今回はアパート解体といった結末となってしまったが、もしも家賃の支払いができなくなれば、追い出されるなんて事態もありえた。
「だけどさ、今は話が別だろ。生活能力がないんなら、この際は――」
「そう。この際だから二人が一緒に住めばよいのです」ぱん、と、再び胸の前で両手を合わせ、鈴が彼の言葉を遮った。
「だからどこの馬の骨とも判らないこんな男と暮らせですって!? 冗談じゃないわ! 絶対にごめんよ!」
馬の骨、という単語を実際の会話の中で初めて聞いた栄光は、それが自分をさしているにも関わらず、少しの憤慨も抱かなかった。
「それに、校則に違反するわ! 不純異性交遊に抵触するわ!」
不純異性交遊、という単語も実際の会話の中では初めて聞いた。
「校則なんて、黙っていればばれないって。だいじょぶだいじょぶ、月日ちゃん」
「大丈夫じゃないわよ! 理事長の娘が校則違反だなんて、他の生徒に示しがつかないじゃない!」
「じゃあ月日ちゃん、これからどうするの? 一人暮らしなんて出来るの? 掃除とか洗濯とか、いろいろしなきゃいけないんだよ?」
「服なんて、脱いだら翌朝には綺麗になっているものだし、部屋だって勝手に綺麗になるものよ!」
ならねえよ。栄光は心の中で言い返した。
「料理も出来ないんでしょ?」
「料理なんて、毎日その時間になったら勝手にダイニングテーブルに並んでいるじゃない!」
「いや、それはどんなファンタジーの世界での出来事ですか」
栄光は思わず口に出した。しかし、その横に座る鈴は、腕を組み僅かに俯いて数秒考えると、「この屋敷だったらありえるか」と呟いた。「小さい妖精とか、或いは、小人が住んでいて、知らない内に部屋を綺麗にしているとか……」
「だから、それはどんなファンタジーの世界での話なんだよ」
「とにかく!」月日は会話を断ち切るため、一字一句に力を込めて発声した。「こんな男と二人で暮らすなんて絶対にごめんよ! いくらスズからの親切な提案であっても、それはイヤ!」
「えー」鈴は頬を膨らませ、目に見えて不服そうにした。「そんなにいや? 役立つと思うよ、エーコーって」
「イヤよ、二人なんて!」
「そんなに二人がイヤ?」
「ええ、イヤよ!」
「よし、じゃあ」唐突に鈴の顔が輝いた。「三人にしましょう」
そのやおらな提案には相当の摩擦係数があったのか、活火山並みに激怒していた月日の心は急激に減速し、瞬く間に消滅した。
「え……?」月日は数回まばたいた。「さん、にん?」
「は?」栄光は言葉の意味を正しく理解出来なかった。「さんにん?」
「そう」鈴だけが笑顔を浮かべ、胸の前に挙げた左手で三を示し、もう一度「三人で」と言う。三を示した左手をそのままに、もう一方の手で月日、栄光、そして自分を順に指差していく。「ひとり、ふたり、さんにん」
会話に、間が生じた。鈴を除いた二人は、その言葉の意味を理解する事に苦戦していた。あまりにも単純で明解な言葉であるにも関わらず、鈴の意図を把握するのには、数秒が必要だった。
「え、ええと……」先程までの感情の高ぶりを失せさせた月日は、今度は当惑した様子で口を開いた。「あの、スズ? えっと、どうしてあなたまで一緒に住もうなんていう案が出たのかしら……?」
「だって面白そ――」言いかけて、わざとらしく咳払い。「――月日ちゃんが心配だから」
「今、明らかに本音が出ていたよな」栄光は瞳を細めて横を睨んだ。鈴の事だ。人の不幸やトラブルを遠目に眺める事に至福を感じているような彼女にとって、今この状況とは豪勢な晩餐に他ならないのだろう。月日と自分が共同生活をするなんていうのは、金輪際起こり得ない一大イベントである。それを逃す手はない。なんとしてでも、このイベントは成立させなくてはならない――。そう思っているに違いない。しかし、その為に自分まで蚊帳の内側に飛び込むとは思ってもみなかった。「本音を言え、本音を」
「月日ちゃんが心配だからだって。ホントに」
栄光は更に瞳を細めた。
「うわー、なにその、胡散臭そうな目」鈴は栄光からの冷ややかな視線を受けて、一度言葉を休ませた。深呼吸でもするように胸を軽く上下させた後、小さな咳払いして、再び口を開く。「ま、正直に言うとね、私も生活環境を変えたかったのよ」
「環境って、お前、寮生活じゃん」
栄光が聞くと、鈴は気重そうに頷いた。
「そ。寮生活。たださ、寮って起床時間も就寝時間も決まっているし、部屋にテレビ置いちゃいけないってルールや、外出許可なんていう訳の判らないシステムまであるし、部屋は一人一部屋だけどトイレとお風呂は当然共同だし、食事は朝晩出るけど美味しくないし、部屋は狭いし、ベッドは硬いし、寮長は偉そうだし、ムカつくし、ご飯美味しくないし、寮長偉そうでムカつくし、ご飯不味いし、寮長ムカつくし、マジムカつくし、サイテーだし、ムカつくし」
「ああ、つまり寮長が嫌いだから寮を出たいのね。うんわかった」もういい、と栄光は鈴の不平を遮った。
確かに、由緒ある聖蔭学園の寮での生活規則には、引き合いに軍規を出される事もしばしばある程に厳しいというのは学園内外問わず有名な話だった。もともとメソジストを起源に持つ日本でも有数のミッションスクールであるからこそ、当然、寮は規則正しい生活を徹底的に教え込む為の空間となっているのだという。つまりは、聖蔭学園の寮とは生活の場ではなく、教室と同等かそれ以上に厳格な教育空間と言える。十数年前に共学化されて校則が改定されても尚、寮のみは体制を変えず女子寮となっているのも、見目麗しき大和撫子を育て上げると評判高い聖蔭学園の古くからの流れだった。
共学化の前は全寮制だったという聖蔭学園も、男子生徒の入学に伴い、その制度を撤廃。しかし、一種のステータスから入学する女生徒の殆どが寮での生活を希望している。確か、鈴もそうだった筈だ。共に入学式を迎えたあの春の日、まだ幾分幼かった鈴が誇らしげに胸を張っていたのを、栄光は鮮明に覚えている。「これで私もお嬢様の仲間入りよ」そう言って男子禁制の寮の中へ駆けて行った、あの日の鈴。そんな彼女が、心底嫌気がさしたという顔で、寮での生活の不満を羅列している。主に、特定の人物への愚痴である事に多少の問題はあろうが、そもそもの彼女の性格を知っていれば、寮生活が彼女にもたらすであろうものがストレスである事は、想像に難くない。そうだ。栄光は加えて思い出した。入学のあの日、鈴がこれより何日目で音を上げるだろうかと考えていた事を。そう考えれば、今は三年目の晩秋。よく耐えたと褒めてよいのか、残り半年くらい頑張れよと叱咤すればよいのかに困惑する。
「とにかく、寮に戻るなんてまっぴらごめんよ」鈴は腕を組み、今度は怒りに起因した理由から頬を膨らませた。「絶対に戻らないんだからね」
「だからって、私の家に住むって……」月日は未だに頭の中で状況の整理が追い付いていないのか、両手を忙しなく動かしながら言葉を探した。「ほ、ほら。そんなこと言っても、スズの御両親が反対するんじゃないかしら。寮を出るなんてけしからん、みたいに」
「あー。それは大丈夫。聞いてみたら、好きにしろ、だって」
「は?」「は?」月日と栄光の声がぴたりと重なった。「なんて?」「なんだって?」語尾以外、こちらも綺麗に重なる。
「だから、説明したら好きにしろって。あ。エーコー。お父さんがね、娘に手を出したら全身の毛穴を溶接してやるだって。これ伝言」
「うわー。鈴さんのお父さん相変わらずこわーい」返しながら、彼は鈴の実父の造形を思い浮かべた。嘘や誇張でなく、あの人物ならやりかねない。
「で、でも鈴はいいとしても。ええと、その――そ、そうだ。あなただって、そんな勝手は出来ないでしょう」落ち着かない手先で、月日は栄光を指差す。「いくらこれまでが一人暮らしだったからと言ったって、そんな、急に誰かと住むだなんて……」
「え?」
「いや、だから御両親が聞いたら、絶対に反対するでしょう? こんなはなし……」
栄光は言葉の選定に戸惑った。
戸惑った後、こう言った。
僅かに顔を逸らして。
「俺のところは、そういうのないんだ。文句を言うようなやつ、いないし」
それを聞いて、不意に、鈴の表情が陰った。空気もどんよりと濁ったような気がした。
おや、とは思った。月日は、鈴のそういった表情を見た事がこれまでになかったのだ。だが、それを訝る隙もない程の一瞬で、鈴のその表情はどこぞへと消えていた。見間違いだっただろうか、と感じるくらいの一瞬だった。
「と、まあ、そんな訳でして」声をワンオクターブばかり跳ね上げた鈴が、座ったソファーから身を乗り出させて月日に詰め寄った。「あとの問題は、月日ちゃんがオッケーの返事を出すだけなんだよ。それで三人はめでたく幸せに暮らせるんだよ。昔話みたいに幸せに暮らせるんだよ。それとも、月日ちゃんは人生のバドエンドを見てみたいって言うの? 二人の同い年の若者が、志も半ばに倒れていく様をじいっと見ていたいなんて言うの?」
「ちょ――」月日は鈴の接近に伴って、同じ距離だけ後ずさった。後ずさった、が、ソファーに腰掛けているので、当然逃げられる距離は限られている。「ちょっと待って! それじゃあまるで無理矢理じゃない! 私に選択権がない――!」
「まるで、じゃなくて、無理矢理そのものだよ」
「ほ、他に何かの名案とか……」
「やだなあ月日ちゃん。退路を残して攻め入るような愚策を私が考えるとでも?」
「スズ、待っ――」徐々に接近する鈴越しに、彼女は栄光を睨む。「あんたもなんとか言い返しなさいよ!」
「いや、もう十何年の付き合いになると、こいつにはどうあっても勝てない事を痛感しているので」
「この意気地なし! 少しは抵抗しなさいよ!」
「抵抗したいが、しかし、言うとおり、居候とは言え住まいがすぐに決まるに越した事はないわけでして……」正直、それが本音だった。「俺の意志としては、心底悔しいが、早く家を決めたい」
「ちょっとは私の意志を尊重しなさいよ!」
「ちなみにね、月日ちゃん」いつの間にやら互いの間にあったテーブルを乗り越え、正真正銘月日の目の前にまで迫った鈴が、そっと月日のその肩に自分の手をのせた。「最後の一手があるんだけど、聞きたい?」
ここまでくると、嫌な予感しかしてこない。つい先程までは彼女が目の前に座る人物を威圧し、委縮させていたというのに、今やその状況は荒波にのまれた小舟の末路のように、文字通り転覆してしまった。彼女は今、鈴によって威嚇され、委縮している。先程まではホワイトタイガーだった筈の彼女が、である。見れば、その肩が震えているようにも見えた。その様子に、栄光はこう考えた。俺はウサギ。月日は、確かにホワイトタイガーだったかもしれない。だが、世の中には上がいるものだ。たとえば、悪魔などのような、そういうもの。
鈴は、これ以上ない程に眩しく輝いた笑顔で言った。
「まずひとつ」そう前置いてからすらすらと彼女は語った。「私、行動が早いんだ。ここに来る前にね、もう退寮の手続きを済ませておいたの。だから、私は月日ちゃんが三人での共同生活をオッケーしてくれなきゃ、今日この後行く所の当てがなければ夜風をしのぐ場所もないの。それがひとつね。もうひとつは――」
「もうひとつは……?」
「以上の状況を|理事長(月日ちゃんのお父さん)に相談したの。電話繋がるかなーって思ったら奇跡的に繋がってさあ。で事情を説明したら、理事長の権限でもって今回の件を認めます、だって。つまりはね。これって聖蔭学園からの命令的なやつなのよ。特例として、男女の共同生活を、学園が、認めたの」最後の方は、単語一つ一つを強調して言葉を発した。「つ、ま、り。これは学園からの、め、い、れ、い、だよ。月日ちゃん」
そう言って鈴だけが、無垢に笑んだ。
5
鈴の手腕に脱帽したのは、それからすぐの事だった。少しだけ気持ちを落ち着かせる時間がほしいと言って退席した月日が、再び応接室に姿を現した時である。
彼女が姿を見せるのと同時に、屋敷に来訪者を告げるクラシカルな音色のチャイムが鳴った。誰かしら、と首を傾ぎながら、少し待っていて、と言ってまた姿を消した月日を見て、鈴は、時間ぴったり、と呟いた。それがどういった意味なのか、その瞬間には栄光には理解が出来なかったのだが、直後には理解が出来た。
応接室の外から、月日の声が聞こえた。応接室は玄関に最も近い位置にある部屋なので、その声はよく聞こえた。なにこれ。月日は裏返った声でそう言っていた。二度、なにこれ、と。
様子を窺おうと応接室の扉を僅かに開けて玄関側を見てみると、大きな玄関の向こうに動きやすそうな格好をした人物――すぐに運送会社の配達人だと気付いた――と、その向こうに幾つかの段ボールが見えた。
そこで、栄光は察した。同時に少し前に発した鈴の言葉を思い出した。時間ぴったり、という言葉もそうだが、それよりも更に前に発していた言葉だ。
ぎぎ、と音でもしそうな動作で振り向く月日は、蒼白の顔で、それでも鈴の姿をその視界の中に認めると、どういうこと、とぎこちなく言った。
私の荷物、とは、その場に似つかわしくない鈴の朗らかな返答だった。なんでも、退寮の手続きと理事長への根回し共に、自身の引っ越しも済ませていたと言う。
「言ったでしょ」鈴は親指を立てた拳を前に突き出して言った。「退路を残して攻め入るような愚策、私は考えないって。本当は、これが最後の手段だったんだ――あ、そうだ、エーコー」
なに、と呆れながら聞き返す栄光に、鈴は輪をかけて告げた。
「エーコーの引っ越しももう済んでるから、そろそろ届くと思うよ」
「は?」「は?」またしても、声が綺麗に重なった。
そうして、鈴の言葉の通りに、栄光本人でさえ与り知らぬところで尾張荘の引き払いが済み、引っ越しの手配も済ませ、柊邸へと届けられていた。それをどのように行ったのかは、不明である。本人不在で、尚且つ、本人の意志のはたらいていない場所で行われた事である。現実の事とは言え、何か、魔術的な力を鈴が持っており、それを行使して現状を構成しているのではないかとさえ考えられてきていた。
さすがの月日もこの現状には憤慨も叱責も出来ず、ただ目を丸くし愕然として呆けるしかなかった。
しかし、荷物が届いたからと言って簡単に部屋を明け渡す事は出来なかった。父が許可したとは言え、柊邸の中は、まだ新たな住人を迎え入れる準備が当然ながら出来ていなかったからだ。完全に観念した様子の月日は、取り敢えず荷物を応接室の中に搬入させた。もともと広い応接室という事と、二人分の荷物とは言え、学生二人のそれであるから大した荷物という事もなかったので、ものの数分で業者が持ってきた荷物は全て運び終える事が出来た。その後、二人に貸す部屋は、明日の日曜日に決めようという月日からの提案を断る条件や代案もなく、波乱と激動に満ちたその一日の終わりは、柊邸の一階にある客間で迎える事になった。
「一階のここが応接室で、その向かい、ここがリビングとダイニング。キッチンは、たぶん、そこ――」疲弊した様子で、月日が栄光に説明する。鈴は今、この場にいない。彼女は柊邸の構造に関して少なからず知識があるようで、月日からどこそこの部屋を使って、と言われると、了解、と敬礼をして去ってしまった。
「――応接室の隣に、えっと……そこは物置。で、トイレ、お風呂、お風呂、お風呂、知らない部屋。で、客間と、客間」
「聞き違いかな。今、風呂が三回呼ばれたような気が」
「ううん。二階に私用のお風呂もあるから、全部でよっつ。トイレは、むっつね」
「ははは。凄いな。もう笑いもひきつるよ。金持ちってすげー」
「え、なにが?」何が凄いと言うのか本当に判らないといった顔で、前を行く月日は振り向いた。「何がすごいって?」
「いや、なんでもないわ」これまでの自分の生活との落差に、栄光の口はため息しか吐き出せない構造になってしまったようだった。「もう、映画館が家にあっても驚かねえ」
「シアタールーム? ああ、地下にあるわよ。あと、お父様専用のワインセラーとお母様専用のワインセラーも」そこで思い出したように彼女は、あ、と声を漏らした。しばらく忘れていた感情を沸き立たせ、月日は栄光の胸元に右手の人差し指を突き立てた。「言い忘れていたけれど、あなた、二階は絶対に立ち入り禁止だから!」
「に、にかい……?」久しぶりの剣幕に、栄光はたじろぐ。
「そう、二階。二階は、私の寝室があるの。それに、トイレにお風呂も。だから、あなたは何があっても二階立ち入り禁止! 雨が降っても槍が降っても!」
「それ、言葉の使い方間違ってないか?」
「いいから、ハイって言いなさい!」
「ハ、ハイ!」
その返事の後、しばらく頭一つ背の高い栄光を上目に睨んでいた月日は、深い深い息を吐いた。
「まったく。今日はとんだ一日だったわ。両親の二度目のハネムーンを聞いた時は、これ以上驚く出来事は起こる筈ないって思っていたのに……これだもの。なんなのよ、スズってば、まったく」
「ああ、それは俺も同意」栄光は右手で首の後ろを掻きながら頷いた。「あいつ、実は疫病神かなんかの生まれ変わりなんじゃないのか? 貧乏神とか――」
「ちょっと、貧乏って何よ」
「え、あ、いいえ、ナンデモアリマセン」
「ま、いいわ。厄介事を運んできたのは間違いないわけだし」そして再びため息。「学校でもあの子といると、いつもこう、騒々しいのよね。でも、初めて知ったわ。鈴に幼馴染だなんて。聞いた事なかったから」
「ああ、こっちから言う事がまずないからな。クラスが一緒でも、基本別行動だし。小さい頃から近い距離にずっといただけ、って感じかな。腐れ縁だよ、腐れ縁」
「ふうん」頷いて、月日は歩き出す。栄光も、数歩下がった位置を維持しながらその後を追った。
そして、栄光の今日の寝床となる客間の前に着いた時、意を決したような口調と表情で、月日が言った。
「今日は、その――ごめんなさい」
突然の謝罪に、栄光は何の事を言っているのかがまるで判らなかった。謝られている事は判った。だが、何故彼女が謝るのか。謝らなければいけないのは、こちらの方だ。部屋を一つ貸してもらえるのだから――いや、本当に謝らなければならないのは、諸悪の根源、峯福鈴、その人だ。今日一日の元凶なのだから、本来ならば一番に謝るべき人物は彼女に他ならない。だと言うのに、気まずそうに顔を背け、月日は栄光に謝罪した。
「や、ちょっと待てよ。なんで俺、謝られてんの。謝るのは俺のほうだろ、部屋、勝手に借りるんだし……」
「そ、そっちじゃなくて、その――」俯いた彼女の頬に、季節外れの桜色が舞う。「――さっき、私、ひどい事を言ったから。馬の骨とか……」
「ああ、あれ……」
「のろまとか愚図とか、ぼっちとか」
「それは言われた記憶がない」或いは、思われていたのか。
「だから、きちんと謝っておこうと思って」彼女は腰を折り曲げ、深々と頭を下げた。「感情的になって、ひどい事を言いました。本当にごめんなさい」
あれ。栄光はその動作に戸惑ったが、しかし、心のどこかで安堵していた。なんだ。普通の女の子じゃないか。そんな事を彼は思った。数時間前、初めて対面し、初めて会話をした時に感じた隔たりのような見えない壁が今、取り払われたように感じられる。一国の皇女のように気高そうであった気質が、平静を取り戻したであろう今となっては、どこにも感じられない。柊邸の中を案内すると言ってくれたのも、月日からだった。屋敷が広いからどこに何があるか判らないだろうと気を使ってくれたのだ。そして、自分の失言を悔恨し、気に病む程でもない小さな出来事にもかかわらず、こうして頭を下げている。十代の頃の口喧嘩なんて、瑣末な物である。その大半が傷跡すら残さないだろう。現に、言われた栄光自身が忘れていたくらいだ。そんな些細な事にも誠心誠意謝罪をする。そんな月日の態度に、思わず頬が熱をおびるのを隠せない。
「い、いいって、そんな……!」
「よくないわ。これから、その……一緒の屋敷で暮らす事になったのだから」
そう言いながら顔を上げた月日の顔は、やはりまだ上気しているようだった。長い睫毛にはさまれた潤みがちな瞳が栄光に向く。薄紅色の唇が、開き、何かを言いかけて――。
かしゃり、とシャッターが下りた。同時に、周囲はフラッシュで刹那に明るくなる。
横を見ると、一足先に客間へ向かった鈴が、その扉から顔だけを出して携帯電話を構えていた。
構えた携帯がどういったモードなのかは容易く理解した。
むふふ、と微笑んだ鈴は、携帯を持っていない方の手でグッドのサインを作り、未だ向かい合ったままの二人に向けた。
「早くもフラグが立った?」
「――……っ鈴!」
顔を熟れたトマトのようにさせた月日が鈴へ向かい、携帯を奪おうと試みる。返せ。イヤだ、そもそも私のだ。写真を消せ。イヤだ。よこせ。イヤだ。そんな騒々しさを眺めながら、栄光は考えた。先程までの考えを良い方向に考えよう。不幸だとか不運だとか、考えるのを、ひとまずやめよう。
高校生活残りの半年。
賑やかになりそうである。