欠けた人間
私は生まれつき欠けている。
私だけではない。この世の誰しもが基準──普通の人間と何かが異なっている。それが何かはわからない。身体上の問題は一切なく、医療技術の発展により、健康な子供ばかり生まれるようになったからだ。そして生まれたあとも病気になることはない。毎日自宅で行えるバイタルチェックや、三ヶ月に一度の健康診断で病気として発症する前に治療が行われる。もはや、障害や病気という言葉は死語になっていた。
しかし、その進みすぎた技術の副作用か、呪いか。表面には現れない欠損が見つかるようになった。政府の発表はこうだ。
現代を生きるすべての人間には目に見えない障害がある。それは一人一人異なっていて、前時代のいわゆる健康的な人間という基準が通用しない。そして基準が存在しない今、他人とその「欠けたもの」を比較することは難しい。何が個性で何が障害かの線引きができないため、安易な指摘は差別になりかねない。
人々は障がい者差別というレッテルを貼られることを恐れ、また差別を受ける側になることを恐れ、他者と異なる点を指摘しないという暗黙のルールが生まれた。今や小学校に入学する前に道徳的授業が行われる。前時代でも飽きるくらい言われてきたことだ。人を差別してはいけません。その時と意味合いは異なっている。
一週間前になぞった紙が私の手元に返ってきた。数字の羅列の中に、自信の無さが現れたようなか細い字には、大きな丸が付いている。ばつは付いていない。氏名の記入欄の隣には「よくがんばりました」とだけ書かれていた。満点ではない。丸もばつも付いていない回答は、誤答に変わりない。
私は数学が苦手で、進学先を決める際に文系と言わざるを得なかった人間だ。その苦手という範囲が、普通の範疇か、まさに欠けているものなのかの判別がつかなかった。テストの点数や成績は開示されなくなり、仲の良い親友と点数を比べたりはしなかった。
「ごめん」
「大丈夫、気にしないで」
いつもはコートを走り回るクラスメイトの後ろをついていくだけの時間に、思いがけないパスが回ってきた。球技の中では比較的大きいサッカーボールは、蹴ろうとした私の足の外側を流れていった。そのことを、誰も責めはしない。
運動も少し苦手な気がする。体育の科目のほとんどは体力育成の時間に使われ、たまに遊びのような試合とも呼べないゲームをするくらいだ。基盤を整えて勝ち負けのある試合やタイム測定をしてしまえば、明確に差が生まれてしまう。その考えは学校のカリキュラムから始まり、今や競技の世界まで広まった。スポーツは勝負の場ではなくなり、ただ楽しく、本気にならず、汗を流すものになった。
突出して得意なこともなく、苦手なものが多すぎて何が自分の障害かもわからないまま、私は唯一自慢できるものを手に入れた。将来安泰な職業、官公庁の職員。の、一番簡単な仕事が回ってくる雑務係。後半を伏せていれば、大体の友人は尊敬の言葉をかけてくれる。伏せた言葉を伝えたところで、非難や嘲笑はもちろん返ってはこないが。
半世紀前には人間が行なっていた仕事の大半はAIが担っている。私はその中で「AIにやらせても良いけど、コスト上人間にやってもらいたい」過去のあまり重要ではない会議資料などをカテゴリ分けし、関連するフォルダに詰めていく仕事をしている。ほとんどはファイルデータのタイトルで判断できるが、そうすると一日のノルマがあっという間に終わってしまうので、ひとつひとつファイルを開いては隅々まで文字を追い、やはりタイトル通りの内容で間違いないことを確認して、フォルダに移動させる。
この行為に給料が発生するほどの意味があるとは思えなかった。AIを利用した方がトータルコストが安く済むこともわかっている。しかし、このような仕事には私以外にもたくさんの人間が従事している。「やりがいのある仕事」をわざわざヒューマンエラーの塊に任せる企業が多いに減ったからだ。今や、人を働かせるためにAIが仕事を作っている。仕事をさせるための仕事のなかで、私たちは毎日働いている。イレギュラーは起こらない。
はずだった。とある午後、いつも通りほどほどの時間を使ってファイルを開け閉めしていたら、アーカイブフォルダの中に無造作に突っ込まれたファイルが見つかった。アーカイブフォルダはカテゴリ分けの優先度が低いため、半年に一度一番上のファイルを確認しては、また半年後に二番目のファイルを開けるくらいだった。そのフォルダの中に、タイトルではおおよそ中身の判断ができないファイルが存在した。日付しか書かれていない。タイトルの付け方すらフォーマットがあるこの仕事ではまず考えられない存在だ。
毎日同じ行動を取り、快や不快に刺激されることのない日常に、胸の高鳴りを覚えたのはいつ以来だろうか。もしかすると、赤ん坊以来のことかもしれない。もしかすると見てはいけないものかもしれないという恐怖は、もはや興奮材料としかならなかった。
震えるカーソルがアイコンを捉え、クリックする。とある会議資料のようだったそれは、あまりにも簡潔に感情がなく、そして私の中からも感情が抜け落ちた。
「障がい者差別がゼロになった弊害として新たな差別対象が大幅に拡大した。生来の得手不得手を極端に取り上げ、強者と弱者にカテゴリ分けをする集団による、互いの排除を目的とした事件が横行している。そのため、政府はここ十年の新生児検査の結果、生まれながらに全員に欠けが生じているという虚偽の内容を発表することで、その鎮静化を測る」
私は数学ができない。私は運動が下手だ。他にもできないことはたくさんある。それらのどれかが、みんなと同じだと思うことで生きてきた。安心して生きることができた。誰もが何かしらできない。なら私のこれも、みんなと同じだと、そう思っていた。
カーソルはもう揺れていなかった。代わりにマウスを持つ手は氷に触ったように冷たくなっていた。マウスと指の腹の間がしっとりと濡れている。目を背けたくなるような現実を、そのまま、ゴミ箱のアイコンへと持っていった。がさりと音を立てて、データは復旧できないまでに消え去った。
目を背けた。背けるしかなかった。これが真実なら、私は排除される側だ。差別される側だ。こんな簡単な仕事にも就けない。今以上に何者でもなかったであろう私が、一緒にゴミ箱に入っていった。




