階段を上る花~毒杯を掲げて笑った悪役令嬢は、断罪の階段を逆に上る元社畜でした~
――薔薇の花びらが、大理石の階段を血のように流れ落ちていく。
その最上段で、私は毒杯を掲げて笑った。
「乾杯。あなたたちの結婚に、ね」
花びらは幾万枚。婚約披露の夜会のために敷き詰められたそれが、シャンデリアの光を受けて赤く燃えている。まるで、これから流れる血の予告みたいに。
階段の頂上には、王太子セドリック。その腕にすがりつくのは、継妹にして『聖女』ミレイユ。
「アリエル、お前との婚約を破棄する」
セドリックの声が、静まり返った大広間に響いた。
「真に愛しているのは、そこにいる聖女ミレイユだ」
ああ、来た。
私は――アリエル・フォンティーヌは、内心でため息をついた。
「アリエル様は……わたくしに毒を盛り、呪詛をかけたのです……っ」
ミレイユが潤んだ瞳で震えてみせる。名演技だ。この子、女優になればよかったのに。
群衆がざわめく。侮蔑の視線が、雨のように降り注ぐ。
『毒物所持』。『聖女への呪詛』。捏造された罪状。反論の機会など、最初から与えられていない。
(なるほど。断罪の階段から引きずり降ろされて、投獄されて、処刑。そういう筋書きね。……でも、それは、あなたたちの筋書きでしょう?)
私は毒杯を口へ運んだ。
「アリエル、何を……その杯を、まさか」
セドリックの顔が引きつる。
私は、笑った。凛と、静かに。
「自分の未来くらい、自分で決めさせてもらうわ」
喉を焼く液体。倒れる体。散る花びら。
最上段から転げ落ちながら、私の意識は光の渦に呑まれていった。
(……ああ、これ、残業代出ないやつだ)
そして――その瞬間。
死んだはずの脳裏に、まったく別の人生が、洪水のように流れ込んできた。
────────
河野杏里、二十九歳。都内の広告代理店勤務。死因、過労死。
最後の記憶は、深夜三時のオフィスで倒れた瞬間の蛍光灯の光だ。
『定時で上がります』が口癖だったくせに、一度も上がれなかった女。理不尽に耐えて、耐えて、耐えて――そして死んだ。
その記憶が、今、完全に覚醒している。
私はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天蓋。フォンティーヌ公爵家、私の寝室。
手を見る。小さい。子どもの手だ。
鏡に映るのは、プラチナブロンドの、まだ幼い少女。
「……十三歳」
呆然と呟く。日付を確認して、確信した。
死に戻った。それも、婚約披露の夜会よりずっと前――五年前。
『継妹が家に来た日』に。
つまり私は、この先の全部を知っている。ミレイユが毒を仕込むことも。聖女の奇跡が詐術だということも。セドリックが浮気すること。そして、あの階段で私が毒杯を呷ることも。
全部。
「なるほど、御社は納期を守る文化なんですね。毒殺までのスケジュール、しっかり組んでくださって」
誰もいない部屋で、私は毒杯を掲げるかわりに紅茶のカップを掲げた。
前世で学んだことがある。理不尽に黙って従う社員は、いいように使い潰される。証拠を残さない会社は、平気で人を殺す。
ならば。
「証拠を、残せばいい」
過労死した社畜には、身についたスキルがある。証拠収集。根回し。書類仕事。そして――現代日本の薬学・毒物知識。
コンコン、とノックの音。
「お嬢様、お目覚めですか」
侍女のハンナが入ってくる。四十代、実直な鳶色の髪。ああ、この人だ。前世でも今世でも、ただ一人、私のそばにいてくれた人。
「ハンナ」
私は、社畜スマイルではなく、本物の笑みを浮かべた。
「今日から、少し忙しくなるわ。手伝ってくれる?」
ハンナは一瞬まばたきをして、それから深く頷いた。
「……お嬢様が本気を出されるのですね。かしこまりました」
もう我慢しない。
今度は私が、階段を『上る』番だ。
────────
その夜、私は眠れずに屋敷の大階段へ降りた。
前世の記憶が戻ったばかりで、頭が冴えて仕方がない。夜風にでも当たろうと思ったのだ。
――そこに、先客がいた。
漆黒の軍装。銀灰色の髪。深夜の大階段で、一人しゃがみ込み、散った薔薇の花びらを一枚一枚、拾い集めている。
誰、この人。
「……何をしていらっしゃるの?」
声をかけると、その人は弾かれたように振り向いた。氷青色の切れ長の瞳。噂に聞く『氷の将軍』――第二王子オズヴァルト・レーヴェンハート。
戦場で無敵。民が震え上がる冷酷無比の英雄。
そのはずの人が、花びらを両手いっぱいに抱えて、盛大に固まっている。
「こ、これは……その」
(目が泳いでいる。将軍、目が泳いでいますよ)
「散らせたくない、と思って」
「花びらを、ですか」
「……いや」
彼は言葉を探すように視線を彷徨わせ、それからぼそりと呟いた。
「散った花は、もう元には戻らない。だから……嫌なんだ」
変な人。でも――なぜだろう、その言葉が胸に刺さった。
私は散ったのに。前世でも、今世でも。
「あの」
気づけば、私は口を開いていた。
「よろしければ、紅茶をお淹れしましょうか。おいしい焼き菓子もありますの」
前世レシピの、あれだ。ブラック企業の休憩三分で自分を慰めた、唯一の贅沢。
オズヴァルトの瞳が、ぴくりと動いた。甘いもの、という単語に反応した犬みたいに。
「……いただこう」
氷の将軍が、花びらを抱えたまま、こくりと頷いた。
(この出会いが、五年後の運命を変えるなんて――このときの私は、まだ知らなかった)
────────
十五歳。私は着々と『証拠』を積み上げていた。
事件その一。継妹ミレイユが、私の茶に毒を仕込んだ。
前世の薬学知識で、私はとっくにそれを見抜いていた。使ったのは緩効性の植物毒。数日かけて弱らせ、病死に見せかける典型的な手口。
私は毒を、無味無臭の仮死薬とすり替えた。もちろん、本物の毒は証拠として保全済み。ハンナが小瓶に封をし、日付と入手経路を記録する。
「お嬢様。ミレイユ様が、また庭でこちらを見て笑っていらっしゃいます」
「勝ち誇っているのね。順調に私が弱ってると思ってる。緩効性の植物毒、数日かけて病死に見せかける典型。……とっくに仮死薬とすり替え済みだけど」
「本物の毒は、小瓶に封をし、日付と入手経路を記録済みでございます」
「有能。この侍女、本当に有能。ついでに具合の悪いふりもしておくわね。『なにこの人、演技うますぎ』ってあの子が引くくらいに」
私はにっこり笑って、わざと具合の悪いふりをしてやった。
事件その二。聖女ミレイユの『奇跡』。
枯れた花を蘇らせ、病人を癒す――と評判の聖女の力。だが私は知っている。あれは闇市場の魔道具による詐術だ。
問題は、その魔道具の運用資金。ミレイユはそれを、公爵家の帳簿を改竄して捻出していた。
「ハンナ、過去三年分の帳簿の写しを。聖女の奇跡は闇市場の魔道具。その運用資金は――公爵家の帳簿改竄で捻出しているはず」
「こちらに」
有能。この侍女、本当に有能。
私は前世で鍛えた数字の目で、改竄の痕跡を洗い出した。
「不自然な出金。存在しない取引先。二重帳簿。……見つけた。上司の経費不正を暴いたときと同じ感覚。ぞくぞくする」
社畜時代の記憶が、こんなところで役に立つとは。
「筆跡鑑定つきで保全して。原本には手をつけないで、写しだけで動くわ」
「かしこまりました。……お嬢様、その手際、どちらの世界で身につけられたのです?」
ハンナが、慇懃な口調のまま、ちくりと刺してくる。
私は思わず吹き出した。
「ふふ。ブラックな職場よ。二度と戻りたくない」
危機。回避。そして、種明かしのための保全。
このサイクルを、私は淡々と繰り返した。
盤面は、着実に整いつつあった。
────────
十七歳。オズヴァルトは、すっかり我が家の常連になっていた。
きっかけは、あの夜の紅茶と焼き菓子だ。
一口食べた瞬間、氷の仮面が音を立てて崩壊した。以来、彼は隙あらば公爵家を訪れ、私の焼き菓子を無心する。
「……もう一つ、もらってもいいだろうか」
「三つ目ですけど」
「……だめか」
(しょんぼりする氷の将軍。戦場では無敵、令嬢一人の前では挙動不審。この落差、心臓に悪い)
「オズヴァルト様」
私は紅茶を注ぎながら、さりげなく切り出した。
「もし――誰かが、罪を犯していると知っていたら。あなたはどうなさいます?」
彼はカップを置いた。氷青色の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「証拠を集める。そして、正しい階段の上で裁く」
(……この人)
「君は」
オズヴァルトが、静かに続けた。
「何かをやり直そうとしているんだろう。ずっと前から、そう感じていた」
心臓が跳ねた。気づかれている。私の『死に戻り』に、薄々。
「散らせたくないんだ」
彼はぽつりと言った。
「君の未来を」
ああ、この人は――知らないうちに、ずっと私を守ろうとしていたのか。
「オズヴァルト様。お願いがあります。すり替えた毒、詐術の帳簿、そして――王太子セドリックの、浮気の手紙。全部、筆跡鑑定つきで保全してあります」
聖女ミレイユとの密会を記した手紙を、一通残らず。
「近衛を動かせるのは、あなただけ。婚約披露の夜会で、力を貸してください」
オズヴァルトは、焼き菓子の皿をそっと脇へ置いた。
初めて見る、将軍の顔で。
「――任せろ」
そして、こう付け加えた。
「その日、俺は君の隣に立つ。守る対象としてじゃない。共に階段を上る相手として」
(不覚にも、ときめいてしまった。社畜には、恋愛する暇なんてなかったのに)
────────
そして、運命の夜が来た。
婚約披露の夜会。花びらを敷き詰めた、あの大階段。
最上段で、セドリックが高らかに宣言する。
「アリエル、お前との婚約を破棄する。真に愛しているのは、聖女ミレイユだ」
(前世で聞いたのと、一言一句違わぬ台詞。ああ、来た。ここだ)
ミレイユが、勝ち誇った笑みで毒杯を差し出す。
「アリエル様。せめて、最後の一杯を」
ああ、来た。ここだ。
前世の私は、この杯を呷って死んだ。
でも――今の私は、違う。
私は杯を受け取り、高々と掲げた。
「乾杯」
菫色の瞳で、二人を見据える。
「……あなたたちの“罪”に、ね」
その瞬間。
大階段の頂上に、漆黒の軍装が現れた。銀灰色の髪をなびかせ、近衛を従えて。
「アリエル・フォンティーヌへの断罪を、中止する」
オズヴァルトの声が、大広間を凍らせた。
「王太子セドリック。聖女ミレイユ。両名に、重大な嫌疑がある」
ハンナが、証拠の入った箱を運び込む。
「その一。すり替えられた毒物。ミレイユ嬢がアリエル様の茶に混入したもの。入手経路、日付、封印済み」
「その二。改竄された公爵家の帳簿。聖女の“奇跡”は、闇市場の魔道具による詐術。運用資金は横領によるもの」
「その三」
ハンナが、束になった手紙を掲げた。
「王太子殿下と聖女ミレイユ嬢の、密会の記録。筆跡鑑定つき」
大広間が、地鳴りのようにざわめいた。
ミレイユの顔から、血の気が引いていく。
「そ、そんな……そんな話は聞いてない……!」
「聞いてないのは当然でしょう」
私は微笑んだ。淡々と、静かに。
「あなたが私に、何も教えてくれなかったように」
セドリックが階段の上で、みっともなく後ずさる。
「ま、待て、アリエル、これは何かの間違いで――」
「間違いじゃないわ。全部、あなたたちがやったこと」
毒杯を、私はそっと床に置いた。中身は仮死薬。私が毎回残していた保険であり、オズヴァルトへの信頼の証。
「聖女の資格を剥奪。王太子は廃嫡。そして」
オズヴァルトが手を上げると、近衛がミレイユとセドリックを取り囲んだ。
「毒殺未遂の罪で、両名を連行する」
今度は、彼らが引きずり降ろされる番だった。
花びらが、加害者たちの足元で散っていく。
セドリックが階段の下で泣き崩れた。
「アリエル……お前が、こんなに……こんなに有能だったなんて……!」
失ってから気づく。いつだって、そういうものだ。
「気づくのが、五年遅かったわね。……前世も含めれば、もっと遅い」
────────
騒然とする大広間で、オズヴァルトが階段を降りてきた。
花びらを踏みしめ、まっすぐ私の前に立つ。
そして、そっと手を差し出した。
「アリエル。今度は、自分の足で上るといい」
私は、その手を見つめた。
(前世の私は、誰の手も取れなかった。取る余裕もなかった。定時で上がることすら許されず、ただ理不尽に使い潰されて死んだ。……でも、今は)
「ええ」
私は彼の手を取った。
(温かい。氷の将軍のくせに、手だけは春みたいだ)
一段。二段。三段。
私は自分の足で、花びらの階段を上っていく。かつて引きずり降ろされた、あの階段を。
最上段に立って、私は振り返った。
連行されるセドリックとミレイユ。呆然とする群衆。散り続ける薔薇。
「私、決めたの」
私は、凛と告げた。
「散る花じゃなくて、階段を上る花になるって」
オズヴァルトが、ふっと笑った。初めて見る、やわらかい笑顔で。
「らしいな、君は」
「ええ。だって私、決めたことは必ずやり遂げるの」
菫色の瞳を細めて、私は前世の口癖を、ほんの少しだけもじって言った。
「――今日はもう、上がります。私の、階段を」
オズヴァルトの手が、ぎゅっと私の手を握り返した。
この人となら、どんな未来だって上っていける。そんな気がした。
――ところで。
連行されていくミレイユが、最後に一瞬だけ、こちらを見た。
その瞳の奥に、ほんの刹那、見覚えのある色が走ったのを、私は見逃さなかった。
諦観。既視感。そして――『またか』という、疲れきった色。
まさか。
背筋を、冷たいものが走る。
もしかして。
この世界に死に戻ったのは――私だけじゃ、ないのかもしれない。
もう一人。記憶を持って、この夜に還ってきた者がいる。
花びらが、また一枚、階段を流れ落ちていった。
血のように、赤く。
(――続く)




