第9章:選別者の天秤
湊が医学書と格闘し、自身の身体で「気」の流れを観察している裏側で。
芽衣は一人、冷酷な『選別者』としての戦いを繰り広げていた。
彼女の住むマンションのダイニングテーブルには、ノートパソコンと、契約者の名義を偽装したプリペイド式のスマートフォンが三台並べられている。
湊の「一回五十万円の奇跡」は、大々的に広告を出しているわけではない。過去の依頼人からの口コミや、医療関係者しかアクセスできない裏の掲示板などを経由して、都市伝説のように語り継がれているだけだ。
それでも、藁にもすがる思いの人間や、金に群がる亡者たちは、どうにかしてこの連絡先に辿り着く。
ジリリリリ。
一台のスマートフォンが鳴った。芽衣は冷めたコーヒーを一口飲み、声のトーンを一つ落として電話に出る。
「はい、紹介センターです」
『あ、あの! ネットで見たんですけど、どんな病気でも一日で治す先生がいるって……』
「紹介者のお名前は?」
『いや、紹介っていうか、SNSの書き込みで見て……うちのおばあちゃんが認知症で……』
「申し訳ありません。完全紹介制となっております。また、認知症のような脳の器質的変化を伴う不可逆的な症状には対応しておりません」
ガチャリ。芽衣は容赦無く通話を切った。
冷やかしや、都市伝説の真偽を確かめようとするだけの暇人は、一日に何人も電話をかけてくる。そんなものにいちいち付き合っている暇はない。
すぐに別の端末が鳴った。今度は、紹介のパスワードをクリアした富裕層からの依頼だ。
『うちの会長が、癌の末期でね。とにかく金ならいくらでも出すから、その先生とやらを毎日病院に寄越してくれ。アンチエイジングの専属医として雇いたい。月額一千万でどうだ』
芽衣はため息をつき、極めて事務的に答えた。
「お断りします。先生の能力は、一回の施術につき二十四時間しか持続しません。また、施術後、先生ご自身が患者の病状を肩代わりし、一週間完全に寝込むことになります。物理的に毎日の施術は不可能です」
『なんだと? じゃあ、一週間ごとに来い。一週間元気にして、一週間寝て、また元気にしろ』
「それも不可能です。先生の命が持ちません。これは『治療』ではなく、人生の最後の一日を買い取るための『奇跡の切り売り』です。ご自身の延命のためだけに他人の命を消費しようとする方には、ご提供できません」
『チッ、使えねえな。金なら払うって言ってんだろ!』
怒鳴り声が響く前に、芽衣は通話を切断し、その番号を着信拒否リストに放り込んだ。
五十万円、あるいはそれ以上の金が払えるからといって、誰でもいいわけではない。
湊の一週間——あの高熱にうなされ、関節の痛みに泣き叫ぶ地獄の時間を消費するに値する人間なのか。それを決めるのは、今や芽衣の最大のミッションだった。
最近の湊は、変わった。
東洋医学の分厚い本を読み込み、自分の脈を測り、嬉しそうに「ちょっと気の流れが分かってきたかもしれません」と語る彼の瞳には、かつてないほどの『生への執着』が宿っている。
彼が医学を学ぶための時間。彼が太陽の下で、自分の足で歩くための時間。
その三週間の自由を守るためなら、私は悪魔にでもなってやる。
芽衣はそう心に誓っていた。
*
その日の深夜。
全ての選別作業を終え、ようやく眠りにつこうとした芽衣のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。
一般の問い合わせ窓口ではなく、過去に一度だけ、本物の奇跡を体験した者だけに教える『緊急連絡先』の番号だ。
芽衣は跳ね起き、電話を取った。
「はい、芽衣です」
『……芽衣さん! 助けて、助けてください! 私です、佐々木です!』
電話の主は、ひどく狼狽していた。
数ヶ月前、湊が五十万円で娘の結婚式に出席させた、あの車椅子の初老の男性・佐々木だった。
「佐々木さん? どうしたんですか、落ち着いて」
『私の……長年の友人がいるんですが、そのお母様が……九十歳になるんですが、今日、事故に遭いまして! 横断歩道で車に跳ねられて、今、救急救命センターに……。お医者様からは、今夜が峠だと……!』
芽衣の背筋が凍りついた。
病気ではなく、物理的な外傷。それも、九十歳の高齢で、今夜が峠。
『友人は、ずっと女手一つで育ててくれたお母様に、どうしても……どうしても言いたいことがあると泣き崩れていて。お願いします、湊先生に……湊先生に連絡を取ってください! お金なら私が出します、百万円でも、二百万でも! どうか、お母様を……友人を助けてやってください!』
芽衣は、息を呑んだ。
湊は、前回の依頼(老ピアニストのリウマチ)の代償から回復して、まだ一週間しか経っていない。今はちょうど、彼が一番楽しみにしている『三週間の自由と学びの時間』の真っ最中だ。
それに、交通事故の重傷を肩代わりすれば、湊の身体にどれほどの負担がかかるか未知数だ。
「……佐々木さん。落ち着いて聞いて。先生の能力は、怪我を『治す』わけじゃないわ。二十四時間だけ状態を戻すだけ。二十四時間後には、また瀕死の状態に戻るのよ。それでもいいの?」
『友人は、それでいいと……一日だけでいい、お母様と、ちゃんと目を見てお別れがしたいと。お願いします!』
それは、紛れもない「本物の覚悟」だった。
遺産目当てでも、虚栄心でもない。残される者が、これからの途方もない喪失の人生を生きていくために必要な、どうしても欠かすことのできない「儀式」。
芽衣は、手元のパソコンの時計を見た。
午前二時。
特急依頼(どうしても今すぐ、という緊急事態)。
ルールでは、一回百万円。
芽衣が湊の命を守るために設定した、最も高いハードルだ。それを、佐々木とその友人は今、血を吐くような思いで飛び越えようとしている。
「……分かったわ。病院名と、病室の番号を教えて」
芽衣はメモを取り、通話を切った。
そして、深く一つ深呼吸をしてから、湊のプライベートの番号に発信した。
コール音の三回目で、湊が出た。
声には眠気が混じっていたが、確かな力強さがあった。
『……芽衣さん? こんな夜更けに、珍しいですね』
「湊くん。……ごめんなさい、あんたの自由な時間を、一つ奪うことになりそう」
芽衣は、冷酷なマネージャーとしての仮面を捨て、祈るような気持ちで告げた。
「特急依頼よ。百万円。……今夜、あんたの命を貸してちょうだい」
電話の向こうで、湊が小さく息を吸い込む音が聞こえた。
そして。
『……分かりました。十五分で準備します。迎えをお願いできますか』
その声には、五万円で自分を売り飛ばしていた頃の卑屈さは微塵もない。
自分の命の価値を知り、それを誰のために使うべきかを理解した、本物の『治療者』の覚悟が宿っていた。




