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第8章:学びの習慣


 無謀な人体実験の代償は、文字通り骨の髄まで響いた。

 佐々木の腰の損傷を肩代わりした際、素人知識で気の流れを制御しようとしたみなとは、体内で『気』をショートさせ、かつてないほどの激痛と高熱にのたうち回ることになった。

 百六十八時間が経過し、ようやく熱が引いた時、湊の体重はさらに数キロ落ち、頬はげっそりと削げていた。

「馬鹿じゃないの、あんた」

 ベッドの傍らで腕組みをする芽衣めいの声は、氷のように冷たかった。

 彼女は、湊の壁に貼られた手描きの経絡図や、床に散らばる東洋医学の入門書を呆れたように見下ろしている。

「本を数冊読んだくらいで、自分の身体のシステムを弄れると思ったの? あんたのやってることは、素人が心臓の手術を自分にやろうとするのと同じよ。一つ間違えれば、一生車椅子か……最悪、死んでたわよ」

「……すみません」

 掠れた声で謝る湊に、芽衣はため息をつき、スポーツドリンクのペットボトルを押し付けた。

「サエさんの奇跡を見て、焦る気持ちは分かるわ。でも、あんたには基礎が圧倒的に足りてない。西洋医学の解剖学も、東洋医学の歴史も。奇跡に頼らない『本物の治療』を目指すなら、もっと地に足を着けなさい」

 芽衣の言葉は、痛いほど正論だった。

 魔法のような能力を持っているからといって、僕自身が人体を理解しているわけではない。

 湊は、空になったペットボトルを握りしめながら、静かに頷いた。


 *


 その日からの「三週間の自由」は、これまで以上に濃密なものになった。

 湊は、手当たり次第に本を読むのをやめた。代わりに、医学生が使うような解剖生理学の分厚い教科書と、鍼灸師の国家試験用の参考書を買い込んだ。

 まずは、西洋医学的な人体の構造——骨、筋肉、神経、血管の正確な位置と役割を頭に叩き込む。それができて初めて、東洋医学における「経穴ツボ」が、いかに神経の束や血管の分岐点といった解剖学的な要所とリンクしているかが理解できるからだ。

「ここが『太淵(たいえん』……肺のツボと言われるけど、要するに橈骨とうこつ神経と血管が交差するポイントなんだな」

 湊は自分の手首を親指で強く押し込みながら、ノートに細かい文字を書き込んでいく。

 さらに彼は、薬局で市販されているお灸や、シール状になっている極小の円皮鍼えんぴしんを買い込み、健康な三週間の間に、自分の身体を使ってひたすら実験を繰り返した。

 ツボに鍼を刺した時の「ズーン」と重く響くような感覚(得気・とっき)や、お灸の熱が皮膚の下を走っていくような感覚。それを、知識だけでなく身体の感覚として記憶していく。

 僕はこれまで、他人の病気をブラックボックスのようにただ飲み込んでいた。

 でもこれからは違う。敵の正体を知り、自分の身体のどこで、何が起きているのかを理解するんだ。


 *


 そして、一ヶ月後。

 新しい五十万円の依頼がやってきた。

 依頼人は、かつて世界的に活躍していた老ピアニストの女性だった。

 重度の関節リウマチにより、彼女の指は無惨に曲がり、自力で鍵盤を叩くことはおろか、箸を持つことすら困難な状態になっていた。

「もう一度だけ……海外に留学する孫娘のために、彼女の好きなショパンを弾いてやりたいの」

 高級老人ホームの一室。グランドピアノの前に座る老女は、涙ながらに五十万円の束を差し出した。

 湊は静かに頷き、彼女の曲がりくねった両手に、自分の手を重ねた。

 

 ドクン。

 能力の弁を開く。

 

 今回は、無理に気の流れを制御しようとはしない。ただ、流れ込んでくるリウマチの『気』を、正確に観察することに全神経を集中させる。

 冷たく、重く、そして関節を内側から破壊するようなジンジンとした痛みが、湊の指先から手首、そして肘へと這い上がってくる。

「……っ」

 

 湊は奥歯を噛み締めた。

 老ピアニストの指は、魔法のように真っ直ぐに伸び、彼女は震える手で鍵盤に触れた。柔らかなショパンの旋律が、部屋に響き始める。

 それを背中で聞きながら、湊は芽衣の肩を借りて足早に部屋を後にした。

 *

 アパートに帰り着いた途端、湊はベッドに倒れ込んだ。

 代償の百六十八時間が始まる。

 全身の関節が軋み、四十度近い熱が湊の身体を焼き尽くそうとする。

 しかし、今回の湊の枕元には、解熱剤と水だけでなく、別のものが用意されていた。

 体温計、鏡、そしてノートとペンだ。

「……開始から、六時間」

 湊は震える手で体温計を脇に挟み、同時に反対の手の指を、自分の手首の脈に当てた。

 

「熱は三十九度二分。脈は……一分間に百十回。浮いていて、速い脈だ」

 

 ノートに乱れた文字で記録をつける。

 次に、湊は手鏡を顔の前にかざし、あっかんべーをするように舌を突き出した。東洋医学の基本診断である『舌診ぜっしん』だ。

 

「うわぁ舌の先端が真っ赤だ」


 関節をノコギリで引かれるような激痛が走る。

 湊はうめき声を上げながらも、その痛みの性質を客観的な言葉に置き換えていく。

 

「熱が関節の血流を完全にせき止めているみたいだ……」

 痛い。死ぬほど痛い。熱で脳が茹で上がりそうだ。

 しかし、湊の心の中には、かつてのような「なぜ僕だけがこんな目に」という絶望の闇はなかった。

 彼は今、自分の身体という名の実験室で、『病』を安全に観察している研究者だった。

 痛みを「恐怖」として受け止めるのではなく、「データ」として分析する。

 客観視するというフィルターを一枚挟むだけで、精神的な苦痛は劇的に軽減されるのだ。

「……面白い」

 

 湊のひび割れた唇から、熱を帯びた吐息と共に、そんな言葉が漏れた。

 

 三日目までは観察する元気があったが、四日目以降は痛みと熱と寝不足で何も考えられず、

ただ耐えるしかなかった。


それでも三日間の観察で得られるものは大きかった。

 自分の生命力が、いかにして病の邪気と戦っていくのか。その壮絶なシステムを、リアルタイムで体感し、ノートに書き留めることができた。

 そして、百六十八時間後。

 

 熱が引き、関節の痛みが嘘のように消え去った時。

 湊は、汗と涙でぐしゃぐしゃになったノートを胸に抱きしめ、静かに天井を見上げていた。

「湊くん、生きてる?」

 

 合鍵で入ってきた芽衣が、寝室のドアを開けた。

 湊はベッドから身を起こし、やつれ果てた顔で、しかしこれまでで一番力強い笑顔を彼女に向けた。

「ええ。……今回は、大収穫でしたよ」

「は?」

「僕の身体が、どうやって病気と戦っているか。そのプロセスの半分くらいは、言葉にできた気がします」

 芽衣は、呆然と湊を見た。

 一週間の地獄を味わった直後だというのに、彼の目には、かつての死神のような虚無感はない。そこにあるのは、圧倒的な知的好奇心と、前に進もうとする生命力だけだった。

「あんた……本当に、変わったわね。ちょっと、気持ち悪い気もするけど」

 芽衣はため息をつきながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。

「五十万円の報酬と、この三週間の時間。……芽衣さんが僕にくれたものが、ようやく生きてきたんだと思います」

 湊はベッドから立ち上がり、カーテンを大きく開け放った。

 眩しい光が、ノートのページを白く照らし出す。

 

 僕の能力は、まだただの「痛み止め」かもしれない。

 けれど、この観察と学びを続けていけば。いつか必ず、病の根本を絶つ「本物の治療」にたどり着ける。

 

 湊の「学びの習慣」は、彼の人生を確実に、未来へと向かって前進させていた。

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