第7章:見えない生命エネルギー
サエの「完全回復」というあり得ない奇跡の報告を受けてから数日後。
湊は、芽衣と共に真由美のマンションを訪れていた。どうしても、自分の目で確かめたかったのだ。僕の能力は「二十四時間の先延ばし」でしかない。それが完全に病を消し去るなど、自分のこれまでの代償の法則から考えてもあり得ないことだった。
「湊先生! 芽衣さん!」
ドアを開けたのは、サエ本人だった。
教団の奥の部屋で寝たきりだった頃の、あの骨と皮だけの虚ろな姿はどこにもない。彼女は血色の良い笑顔を浮かべ、自分の足でしっかりと立ち、湊たちをリビングへと案内した。
テーブルには、彼女が自ら淹れたという温かいハーブティーが並べられていた。
「本当に……信じられない」
湊は、ソファに座るサエをまじまじと見つめた。
「息苦しさや、関節の痛みは?」
「全然ありません。昨日なんて、お姉ちゃんと一緒に近くのスーパーまで歩いて買い物に行ったんですよ」
サエは少しはにかみながら答えた。
湊はたまらず、「少しだけ、触れてもいいですか」と彼女の腕に手を伸ばした。
手首に、そっと触れた。
ドクン、ドクン、ドクン。
力強く、規則正しい拍動。かつて彼女に能力を使った時に感じた、あの重く冷たい「呪い」の気配は微塵も残っていない。彼女の身体の内側からは、まるで春の雪解け水のように、瑞々しく温かい生命力が溢れ出しているのが分かった。
「……すごい。本当に、あなたの身体が、自分自身の力で病気を追い出したんですね」
「はい。先生がくれた二十四時間のおかげで、私、自分の身体を信じることができたんです。もう、誰も私を縛れないって」
サエの言葉に、湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。
帰りの車の中で、湊はずっと自分の手のひらを見つめていた。サエの脈から伝わってきた、あの力強い鼓動。あれは一体何なのだろう。西洋医学の数値やデータだけでは測れない、もっと根源的な「生きる力」のうねり。
*
この日を境に、湊の生活は劇的に変化した。
五十万円という対価によって得られた、月に三週間の自由。その時間の大半を、彼は図書館の医学書コーナーではなく、古書店の東洋医学の棚の前で過ごすようになっていた。
西洋医学の解剖学や細胞生物学の本は、確かに人体の緻密な構造を教えてくれた。しかし、サエの身に起きた「心が肉体の病を駆逐する」という現象や、湊自身が毎月経験する「他人の苦痛をそっくりそのままトレースする」という非科学的な代償を説明するには、致命的に言葉が足りなかった。
そこで湊が行き着いたのが、数千年の歴史を持つ東洋医学の思想——とりわけ『気血水』の概念だった。
「……なるほど」
アパートの自室。湊は、使い古された「東洋医学」の本を読みながら、ノートにペンを走らせていた。
東洋医学では、人体は目に見えない生命エネルギーである『気』、体内を巡る栄養分である『血』、そして潤いをもたらす体液である『水』の三つの要素で成り立っていると考える。
これらのバランスが崩れた状態が「病」であり、そのバランスを整えるのが治療だ。
湊は、自分の能力をこの理論に当てはめてみた。
僕が患者に触れる時、僕は彼らの乱れた『気』を、強引に自分の『気』と交換しているのではないか。
患者の身体から病を吸い上げ、僕の持つ純粋な生命エネルギーを二十四時間分だけ注ぎ込む。だから患者は一時的に全快する。そして、僕の中に溜め込まれた病のエネルギーが、一週間かけて僕の『気血水』を破壊し尽くす。それが、あの地獄のような代償の正体だとしたら。
「もしそうなら……」
湊は、自分の腕の脈に指を当てた。
サエの脈に触れた時の記憶を呼び覚ます。ドクン、ドクンという一定のリズム。
もし、僕が自分の『気』の流れを意図的にコントロールできるようになったら。代償として流れ込んでくるエネルギーを、ただ無防備に受け止めて高熱にうなされるのではなく、経絡と呼ばれる気の通り道を使って、体外へ早く排出することができたら。
「……一週間の寝込みが、五日になるかもしれない。いや、三日になるかもしれない」
それは、湊にとって希望の光だった。
自分の命がただすり減っていくだけの消費から、自らの手でコントロール可能な「等価交換」へと昇華できる可能性。
彼は、経穴の位置が描かれた人体図のポスターを壁に貼り、毎晩、自分の身体を使って指圧の練習を始めた。
*
二ヶ月後。
芽衣が新しい依頼を持ってきた。
依頼人は、長年の重労働で腰椎をひどく損傷し、車椅子生活を余儀なくされている初老の男性だった。娘の結婚式で、どうしても一緒にバージンロードを歩きたいという。
「……五十万円、ちゃんと受け取ったわよ」
喫茶店で書類を渡す芽衣の表情は、どこか険しかった。
「どうしたんですか?」
「いえ……最近、あんたの周りを嗅ぎ回ってる変な奴がいるみたいなのよ」
湊はコーヒーカップを持つ手を止めた。
「嗅ぎ回る?」
「ええ。あんたが過去に治した患者の家族——例えばあの、受験に落ちた息子の母親とかね。そういう連中のところに、『高額な祈祷料を取る怪しい詐欺師に心当たりはないか』って聞いて回ってるフリーライターがいるらしいの」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
五十万円という大金が動く以上、誰の目にも留まらないわけがない。いずれはこういう日が来るかもしれないと、心のどこかで覚悟はしていた。
だが、今の湊には失いたくないものがある。この三週間の自由と、学びの時間だ。
「……気をつけます。でも、今回の依頼は受けます。娘さんの結婚式なら、彼にとって五十万円以上の価値があるはずですから」
*
結婚式前日の夜。
湊は、指定されたホテルの控え室で、初老の男性——佐々木の腰に手を当てた。
「先生、本当に明日の式が終わるまで、私の足は動くのでしょうか」
佐々木は、不安そうに湊を見上げた。
「大丈夫です。二十四時間は、確実に」
湊は目を閉じ、呼吸を整えた。
これまでは、ただ無意識に能力の弁を開いていた。だが今回は違う。彼は頭の中で、壁に貼った経絡図を思い描いていた。
佐々木の腰から流れ込んでくる重く冷たいエネルギーを、自分の『気』の通り道を使って、どう受け流すか。
ドクン。
能力が発動する。
佐々木の損傷した神経の痛みが、湊の腰椎へと一気に流れ込んでくる。
激痛。立っていられないほどの衝撃。
だが湊は、奥歯を噛み締めながら、自分の丹田——下腹部に意識を集中させた。流れ込んでくる痛みを、全身に散らすのではなく、特定の経路に留めようと試みる。
「……ふぅっ」
数分後。
佐々木は車椅子から立ち上がり、自分の足でしっかりと床を踏みしめた。
彼は涙を流し、湊の手を何度も握りしめた。
「ありがとうございます……! これで、あの子と一緒に歩けます!」
湊は、脂汗を流しながらも、小さく頷いた。
いつもなら、この時点で全身の震えが止まらなくなり、歩くことすら困難になるはずだ。しかし今回は、腰に焼けるような痛みはあるものの、意識ははっきりしており、自分の足でホテルのロビーまで歩くことができた。
「……少しだけ、制御できたかもしれない」
待機していた芽衣の車に乗り込みながら、湊は呟いた。
「え?」
「気の流れです。……いつもより、代償の回りが遅い気がする」
だが、湊のその推測は、甘かった。
人間の身体に蓄積された数年分の損傷は、素人の生半可なイメージトレーニングで制御できるほど、単純なものではなかったのだ。
その夜。
湊は自室のベッドで、かつてないほどの激痛にのたうち回ることになる。
無理に邪気を抑え込もうとした結果、体内で気の流れが鬱滞し、これまでのインフルエンザのような症状に加えて、腰から下を引きちぎられるような神経痛が襲いかかってきたのだ。
「あああああっ……!」
湊は布団を強く握りしめ、声にならない悲鳴を上げた。
四十度を超える熱。視界が明滅し、呼吸が浅くなる。
東洋医学の知識は、確かに湊に新たな視点を与えた。しかし、それを実践するための「技術」が、彼には圧倒的に不足していた。
僕は、自分の身体の素人でしかない。
本を読んだだけで、この強大な呪いを御せるはずがなかったんだ。
暗闇の中で、湊の意識はゆっくりと途切れていった。
百六十八時間の、新しい地獄の始まりだった。




