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第6章:偽りの神と真の奇跡

教団の集会所は、同じ敷地内にある木造の大きな広間だった。

 深夜にもかかわらず、数十人の信者たちが等間隔に座り、目を閉じて奇妙な念仏を唱えている。正面の祭壇には、教祖とおぼしき白装束の老人が鎮座し、その脇にはサエの両親がひれ伏していた。

 サエは、姉の真由美まゆみが止めるのも聞かず、迷いのない足取りで広間のふすまを勢いよく開け放った。

 ピシャァッ!

 

 木のぶつかる乾いた音が、線香の煙が充満する空間に響き渡る。

 一斉に振り返った信者たちは、そこに立っている人物を見て息を呑んだ。

 数年間、自力で立つことすらできず、「悪霊に憑かれた穢れた娘」として奥の部屋に隔離されていたはずのサエが、背筋を伸ばし、自らの足で立っていたからだ。

「サ、サエ……? お前、どうやって……」

 父親が這うようにして近づこうとする。その顔には喜びではなく、教義に反する怪奇現象を恐れるような怯えがあった。

「お父さん。お母さん」

 サエの凛とした声が、静まり返った広間に響いた。

「私、治ったよ。祈りなんかじゃなく、お医者さんの手でね」

「馬鹿なことを言うな!」

 母親が金切り声を上げた。

「お前には悪霊が憑いているのよ! 教祖様のお力がなければ、一歩も歩けないはず……ああ、教祖様、申し訳ありません。この子は悪霊に操られて……!」

 両親が再び祭壇へ向かって平伏しようとしたその時、サエは広間の畳を踏み鳴らし、両親の前に立ち塞がった。

「悪霊なんて、最初からいなかった!」

 サエの叫びは、悲鳴のようでもあり、咆哮のようでもあった。

 後ろで控えていたみなとは、自分の胸の奥がギリギリと締め付けられるのを感じた。サエが言葉を吐き出すたびに、彼女の身体から湊の方へと、冷たくて重い「何か」が雪崩れ込んでくる。

 それはウイルスでも細胞の異常でもない。彼女が二十二年間、この両親と教団から与えられ続けてきた「恐怖」と「絶望」の総量だった。

「私が病気になったのは、お母さんたちが病院に行かせてくれなかったからよ! 栄養のあるご飯を食べさせてくれなかったからよ! 祈れば治るって、私を暗い部屋に閉じ込めて、私の人生を奪ったのは……悪霊なんかじゃない、あなたたちよ!」

 サエは、祭壇に飾られていた教団のシンボルである数珠の束を掴み取り、力任せに引きちぎった。

 バラバラと、乾いた音を立てて木玉が畳に散らばる。

「ひぃっ!」

 信者たちが一斉に悲鳴を上げた。

「私の身体は、私のものだ。あなたたちの信仰を証明するための道具じゃない!」

 サエは、肩で大きく息をしながら、真っ直ぐに両親を見下ろした。

「私、ここを出ていく。二度と戻らない」

 それだけを言い残し、サエは振り返った。

 彼女の目から、大粒の涙が溢れ落ちていた。それは悲しみの涙ではなく、分厚い殻を自らの力で破り捨てた、誕生の産声のような涙だった。

 湊と芽衣めい、そして真由美は、無言で道を空け、サエと共にその異様な要塞を後にした。


 *


 教団を抜け出した後、サエの希望で一行は二十四時間営業のファミリーレストランへ向かった。

 彼女が頼んだのは、ハンバーグとフライドポテト、そしてメロンソーダだった。

「……美味しい」

 サエは、ハンバーグを一口食べるなり、ぽろぽろと涙をこぼした。

「お肉って、こんなに温かくて、味がするんだね。メロンソーダって、こんなにパチパチするんだね」

 その光景は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも残酷だった。

 普通の二十二歳の若者が当たり前に知っている喜びを、彼女は今、初めて体験しているのだ。

 真由美は妹の背中をさすりながら、声を出さずに泣き続けていた。

 湊は、向かいの席で震える手をテーブルの下に隠していた。

 サエが食事を楽しみ、夜明けの街をドライブし、海からの朝日を眺める間、湊の身体には確実な「代償」の侵食が始まっていた。

 だが、今回の代償は不思議な感覚だった。

 熱は上がり、関節は痛む。しかし、いつものような「泥の底に引きずり込まれるような絶望感」がないのだ。おそらく、サエ自身が自分の運命を肯定し、前を向いたことで、湊に流れ込んでくる情報の「質」が変わったのだろう。


 そして、朝。

 湊の限界が近づき、一行は真由美のマンションへと帰着した。

 湊は芽衣に肩を貸してもらいながら、別れ際にサエの目を見た。

「佐伯さん。……今日の夜には、僕の能力は切れます。元の、動けない身体に戻ってしまう。それでも、後悔はありませんか」

 湊の問いに、サエは晴れやかな笑顔で頷いた。

「ありません。湊先生がくれたこの二十四時間で、私は『自分』を取り戻せました。もしまたあのベッドに戻ったとしても、私の心はもう、誰の檻にも入りません。私の意志で、必ず病気を治してみせます」

 その言葉を聞いて、湊の意識は限界を迎え、深い暗闇へと落ちていった。


 *


 それからの一週間。

湊は自室のベッドで、激しい高熱にうなされていた。

 サエが抱えていた自己免疫疾患と自律神経の乱れは、容赦無く湊の肉体を破壊しようとした。

 だが、湊の心は不思議と穏やかだった。

僕が今こうして苦しんでいる瞬間も、サエさんはきっと、心だけは自由な状態で病と戦っているはずだ。そう思うと、耐え切れない痛みではなかった。

 そして、百六十八時間が経過した。

 

 熱が引き、湊が重い身体を起こしたその時、タイミングを合わせたかのように玄関のチャイムが鳴った。

 ドアを開けると、そこには芽衣が立っていた。彼女の顔には、かつてないほどの驚愕の色が浮かんでいた。

「湊くん。……ちょっと、信じられないことが起きたわ」

「え……? サエさんに、何かあったんですか。まさか、病状が急変して……」

 湊の血の気が引く。しかし、芽衣は首を横に振った。

「逆よ。……今朝、真由美さんから電話があったの。二十四時間が過ぎても、そして一週間が過ぎた今でも……サエさんの病状が、戻っていないのよ」

「……え?」

「彼女、今朝も自分の足で起きて、真由美さんと一緒にご飯を食べたそうよ。病院で精密検査を受けさせたら、異常な数値を出していた免疫系が、信じられないスピードで正常値に戻りつつあるって。……つまり、治ってるのよ。完全に」

 湊は、雷に打たれたように立ち尽くした。

 そんなはずはない。僕の力は、ただの「二十四時間の先延ばし」だ。病気そのものを消し去る魔法ではない。それは、僕自身が一番よく分かっている。

 現に、あの神谷美和子は二十四時間後にALSの進行が戻り、息を引き取ったではないか。

「どうして……僕の能力は、そんな都合のいいものじゃないはずだ」

「だから、能力のせいじゃないのよ」

 芽衣は、興奮を抑えるように早口で言った。

 

「彼女の病気は、ウイルスや遺伝子のエラーじゃなかった。極度の精神的ストレスと、洗脳による自己否定が、自分自身の免疫システムを狂わせていた『心因性』のものだったのよ」

「心因性……」

「湊くんの二十四時間の奇跡は、彼女に『自分は健康になれる』という事実を物理的に体験させた。そして、彼女自身が教団に乗り込んで洗脳を破壊した瞬間、彼女の脳にかかっていた強烈なストッパーが外れたの」

 湊の頭の中で、バラバラだったピースが一つに繋がっていく。

 病は気から、という単純な話ではない。

 心と体は、分断された別のシステムではなく、互いに強烈に影響を与え合う「一つの宇宙」なのだ。

 精神の檻が壊れたことで、サエに本来備わっていた圧倒的な『自己治癒力』が覚醒し、彼女自身の力で病を駆逐したのだ。

「心身、一如……(しんしんいちにょ)」

 湊の口から、図書館の医学書で読んだ東洋医学の言葉がこぼれ落ちた。

「そう。サエさんを治したのは湊くんの魔法じゃない。彼女自身の『生きようとする力』よ。あんたはただ、その最初のスイッチを押しただけ」

 

 芽衣の言葉に、湊は震える手で顔を覆った。

 涙が、指の隙間から溢れ出した。

 

 救えないと諦めていた。僕の力は、残酷な一時しのぎの痛み止めでしかないと。

 だが、違う。

 もし、患者の「心」を正しく導き、彼ら自身が持つ治癒力を引き出すことができれば。僕の二十四時間は、単なる延命ではなく、本物の『治癒』への起爆剤になり得るのだ。

 この日、佐伯サエの奇跡は、湊の人生の羅針盤を大きく変えた。

 彼はもう、ただ運命に消費されるだけの死神ではない。

 人体の神秘と、気の流れを学ぶことで、本物の救済を目指す「治療者」への第一歩を踏み出したのだ。

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