第5章:呪縛という病
神谷夫婦の依頼から一ヶ月。
湊は、芽衣の管理のもと、月に一度の「奇跡」と、三週間の「自由」というサイクルに完全に適応し始めていた。
口座には、五十万円の報酬から生活費を引いた額が毎月積み上がっていく。
かつてのように、解熱剤とゼリー飲料に全財産を注ぎ込み、暗闇の中で死神の足音に怯えるだけの生活は終わった。湊は健康な三週間の間に、図書館へ通う習慣を身につけていた。
目的は、自分の身体の中で毎月起きている「百六十八時間の爆発」の正体を知るためだ。医学書や生物学の本を読み漁り、人体の免疫システムや神経伝達物質の仕組みについてノートにまとめるのが、彼の新しい日課となっていた。
「随分と熱心ね。独学で医者にでもなるつもり?」
図書館の近くにある喫茶店で、芽衣がアイスコーヒーのストローを弄りながら呆れたように言った。
湊は手元のノートから顔を上げ、苦笑した。
「いや、ただ……不思議なんです。僕の能力は、他人の病気を『移動』させているだけじゃないかと思って。でも、ウイルス性の病気ならともかく、神谷さんの奥さんのようなALS(筋萎縮性側索硬化症)まで、僕の身体は完璧にトレースしてしまった。肉体の損傷ではなく、情報の転写に近いんじゃないかって」
「情報、ねえ」
「はい。もしそうなら、僕の代償を軽くする方法も、あるいは……僕が奇跡を使わなくても、患者自身の力で病気を治すヒントが、どこかにあるんじゃないかと思って」
芽衣は満足そうに微笑んだ。
「あんた、本当に変わったわね。五万円で自分の命をゴミみたいに捨ててた頃が嘘みたい。……いい傾向よ。自分の身体に興味を持つのは、生きようとしてる証拠だから」
芽衣はバッグから、一枚の履歴書のような紙を取り出した。
「さて、今月のクライアントよ。今回はちょっと、厄介かもしれないわ」
湊は紙を受け取った。
名前は「佐伯サエ」。年齢は二十二歳。
病名の欄には、複数の自己免疫疾患と、重度の自律神経失調症、それに伴う極度の栄養失調と書かれていた。
「この若さで、これだけの病気を……?」
「ええ。でも問題は病気そのものじゃないわ。彼女の『環境』よ」
芽衣の声が、一段階低くなった。
「彼女は、ある新興宗教の熱心な信者の家庭で育った、いわゆる『宗教2世』よ。教団の教えでは、病気は『悪霊の仕業』であり、医療機関にかかることは『信仰心の欠如』とみなされる。だから彼女は、幼い頃からまともな治療を受けさせてもらえなかった」
「治療を、受けていない……?」
「そう。親は祈祷と称して彼女を教団施設に閉じ込め、断食や謎の儀式を強要した。結果として、彼女の身体はボロボロに壊れてしまったの。今も自力で歩くことすらできず、教団の施設で寝たきり状態よ」
湊は絶句した。
これまで救ってきた患者たちは、皆、現代医療の限界まで戦い、それでもどうにもならなかった人たちだ。だが、このサエという女性は違う。治る可能性があったのに、人為的にそれを奪われたのだ。
「……じゃあ、依頼主は誰なんですか? 親が僕の力を頼ったとは思えないし……」
「ええ、親じゃないわ。依頼してきたのは、教団から逃げ出した彼女の姉よ。姉は妹を救い出すために警察や児童相談所にも駆け込んだらしいけど、本人が洗脳状態で『これが私の運命だ』と思い込んでいて、手出しができなかったみたい」
芽衣はため息をつき、アイスコーヒーを飲み干した。
「姉は五十万円を用意した。そして、サエに『最後の一日』だけ、外の世界を見せてやってほしいって。彼女の人生は、ずっと教団の狭い部屋の中だけだったから」
湊は、書類にあるサエの顔写真を見つめた。
焦点の合っていない虚ろな瞳。骨と皮だけになった頬。それは、かつて鏡で見た、絶望の底にいた頃の自分自身の顔と酷似していた。
「自分には価値がない」「この苦痛を受け入れるしかない」。そんな呪いに縛られ、ただ死を待つだけの存在。
「……引き受けます」
湊の即答に、芽衣は小さく頷いた。
「分かったわ。明日の夜、お姉さんの手引きで教団施設の裏口から潜入する。見つかったら厄介だから、気をつけてね」
*
翌日、深夜。
街外れにある教団の施設は、高い塀に囲まれた異様な要塞のようだった。
芽衣の車で近くまで行き、サエの姉である真由美と合流した。真由美もまた、疲労困憊した顔つきだったが、その瞳には妹を救いたいという強い意志が宿っていた。
「ここです。両親は今、夜の集会に出ていて、サエは一人で部屋にいます」
真由美に案内され、勝手口から音を立てずに忍び込む。
廊下には、独特の甘ったるいお香の匂いが立ち込めていた。
一番奥の、窓すらない狭い和室。
そこに、佐伯サエは寝かされていた。
布団の上に横たわる彼女は、写真で見るよりもさらに痛ましかった。
呼吸は浅く、時折苦しそうに咳き込んでいる。
真由美がそっと妹の傍に寄り添い、声をかけた。
「サエ、起きて。お姉ちゃんだよ」
サエは薄く目を開けた。しかし、その瞳には生気がない。
「……お姉、ちゃん……だめだよ、教祖様が……悪霊が、怒る……」
「大丈夫、今日は特別な先生を連れてきたの。あなたを、一日だけ元気にしてくれる魔法使いよ」
真由美は涙声で言い、湊を促した。
湊は静かに歩み寄り、サエの冷え切った額に手を置いた。
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てた。
流れ込んでくるのは、肉体的な痛みだけではない。
重い。暗い。冷たい。
「お前は穢れている」「お前が悪いから病気になったのだ」「祈りが足りない」。
長年にわたって彼女の心に植え付けられてきた、数え切れないほどの『呪い』の言葉が、物理的な重圧となって湊の精神を削りにかかってきた。
(うう……なんて嫌な感覚)
湊は歯を食いしばり、能力の出力を最大まで引き上げた。
サエの身体から、どす黒い病の気配が湊へと吸い上げられていく。
やがて、サエの呼吸が深くなり、咳がピタリと止まった。
頬に微かな赤みが差し、虚ろだった瞳に、徐々に光が戻り始める。
「……えっ?」
サエは、自分の両手を見た。
これまで鉛のように重かった腕が、信じられないほど軽く動く。
彼女はゆっくりと身を起こし、何年ぶりかに、自分の力で布団の上に座った。
「痛く、ない……。息が、吸える……」
サエは震える手で自分の胸を押さえ、信じられないといった顔で姉を見つめた。
真由美は泣き崩れ、妹をきつく抱きしめた。
「サエ! ああ、良かった……!」
湊は、壁際で荒い息を吐きながら、その光景を見つめていた。
代償の侵食は既に始まっている。だが、それよりも気になることがあった。
サエの身体から吸い上げた「病」の感触が、これまでの患者たちとは明らかに異なっていたのだ。
臓器の欠損でも、ウイルスの増殖でもない。彼女の身体を縛り付けていたのは、間違いなく、彼女自身の『心』が作り出した強固な檻のようなものだった。
「さあ、サエ。ここから出よう。海でも、遊園地でも、あなたの行きたいところへ行こう」
真由美が手を引くが、サエは首を横に振った。
彼女の目には、先ほどの虚ろさはなく、不思議なほど真っ直ぐな、静かな怒りのようなものが宿っていた。
「……お姉ちゃん。私、行きたいところがある」
サエは自分の足でしっかりと立ち上がり、襖の向こう——教団の集会所がある方向を睨みつけた。
「私、文句を言ってやる。私をこんな風にした人たちに。私の症状は、悪霊のせいなんかじゃなかったって」
それは、彼女が二十二年間縛られ続けてきた『呪縛』に対する、初めての反逆の宣言だった。




