第4章:五十万円の海
神谷夫婦の住むアパートは、築年数の古い、エレベーターもない建物の二階だった。
湊と芽衣が玄関のチャイムを鳴らすと、酷くやつれた顔の三十代半ばの男性がドアを開けた。夫の神谷だ。彼は芽衣の顔を見ると、すがるように何度も頭を下げた。
「よく、来てくださいました……さあ、中へ」
通された六畳間の寝室は、医療器具で埋め尽くされていた。
部屋の中心にある介護用ベッドには、人工呼吸器に繋がれた女性が横たわっている。妻の美和子だ。彼女は進行性のALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、既に全身の筋肉は動かず、自発呼吸すら困難な状態に陥っていた。
無機質な電子音と、規則的なポンプの音だけが響く部屋。
神谷はベッドの脇にある小さなテーブルを指差した。そこには、茶封筒が置かれていた。
「これ、約束の……五十万円です。どうか、妻に……今日、結婚記念日の今日だけ、もう一度、海を見せてやりたいんです」
湊は、その分厚い茶封筒を見つめた。
これまでの五万円とは違う。これは、一人の男が、愛する妻の人生の最後に「思い出」を刻み込むためだけに必死で用意した、お金だ。
「……二十四時間です」
湊は、神谷の目を見て静かに言った。
「明日のこの時間には、必ず元の状態に戻ります。奇跡は一日だけ。それが終われば、奥さんは再びこのベッドに戻ることになります。それでも、いいんですね?」
神谷は唇を噛み締め、涙を堪えるように大きく頷いた。
「構いません。ずっと、天井だけを見て終わるなんて……そんなの、あまりにも可哀想だ」
湊はベッドに近づき、管に繋がれた美和子の青白い額に、そっと右手を置いた。
目を閉じ、能力の弁を開く。
ドクン、と湊の心臓が大きく跳ねた。
直後、想像を絶する「絶望」が湊の腕を伝って流れ込んできた。
痛風の痛みや、インフルエンザの熱とは違う。自分の意志が身体の末端まで届かない恐怖。徐々に石の牢獄に閉じ込められていくような、息苦しさと孤独。それがALSという病の感覚だった。
湊は奥歯を噛み締め、その重圧を自分の中へと引きずり込んだ。
その瞬間、人工呼吸器のアラームが鳴った。
美和子の胸が自力で大きく上下し、肺いっぱいに空気を吸い込んだのだ。
神谷が慌てて呼吸器のマスクを外す。
硬直していた美和子の指先が微かに動き、やがてゆっくりと、その瞼が開かれた。
「……あなた?」
掠れた、しかしはっきりとした声だった。
神谷は泣き崩れ、美和子の手を両手で包み込んだ。
「美和子! ああ、ああ……!」
「私……身体が、軽い……。息が、できるわ」
美和子は信じられないといった様子で自分の手を見つめ、そして、自分の力で上体を起こした。
奇跡の始まりだった。
*
一時間後、神谷の運転するミニバンは、海へ向かって走っていた。
湊と芽衣は、万が一に備えて後部座席に同乗していた。
助手席に座る美和子は、窓を開け、風を全身に浴びながら、まるで子供のように景色の一つ一つに歓声を上げている。
「見て、あの雲! アイスクリームみたい!」
「美和子、あまり身を乗り出すと危ないぞ」
「だって、風が気持ちいいんだもの。あなた、ありがとう。こんな日が来るなんて」
前席の二人は、本当にただの、幸せな夫婦の休日のようだった。
しかし、後部座席の湊は、冷や汗を流しながらシートに深く身を沈めていた。
魔法が解けるまでの二十四時間、湊の身体には徐々に「代償」の侵食が始まる。
美和子が歓声を上げるたび、湊の指先は少しずつ冷たくなり、感覚が遠のいていく。呼吸が浅くなり、見えない重りが胸の上に乗せられているようだった。
「湊くん、大丈夫?」
隣に座る芽衣が、小声で尋ねた。
「……ええ。でも、今回は……ちょっと、重いですね」
「ALSの進行を肩代わりするのよ。無理もないわ。辛かったら目を閉じてなさい」
芽衣の言葉に甘え、湊は目を閉じた。
五万円で他人のインフルエンザを治した時は、腹立たしさと虚しさしかなかった。だが今は違う。前席から聞こえてくる夫婦の笑い声が、湊の引き受けている痛みに「意味」を与えてくれている。
午後。一行は人気のない砂浜に到着した。
美和子は靴を脱ぎ、裸足で砂浜を駆け出した。波打ち際で水を跳ね上げ、神谷に満面の笑みを向ける。
神谷もまた、靴を脱いで彼女を追いかけ、二人は波の音の中で抱き合った。
湊と芽衣は、堤防に座ってその光景を遠くから見つめていた。
「……綺麗ね」
芽衣がポツリと漏らした。
「はい……」
湊は、痺れ始めた手をこすり合わせながら答えた。
「後悔してる?」
「いいえ。……あの二人は、今、永遠を手に入れてる。僕の二十四時間は、そのためのたった一つの切符だったのかも」
この三週間、湊は「健康」の素晴らしさを知った。自分の足で歩き、風を感じることの喜びを思い出した。だからこそ、美和子が今感じている圧倒的な生の輝きが、痛いほどに理解できた。
夕日が海に沈むまで、二人は砂浜で過ごした。
それから、近くのホテルで食事をし、夜の海辺を散歩した。
一秒たりとも無駄にしないように、二人は語り合い、笑い合った。
そして、翌日の午後。
約束の二十四時間が、終わろうとしていた。
再びアパートの寝室。
美和子は自らベッドに横たわり、神谷の手をしっかりと握っていた。
湊は部屋の隅で、立っているのすら限界な状態だった。呼吸は荒く、足の感覚はほとんどない。
「……時間だわ」
美和子が、静かに言った。
「美和子……」
「泣かないで、あなた。私、本当に幸せだった。海、すごく綺麗だったね。風の匂い、ずっと忘れないわ」
美和子は、部屋の隅にいる湊に視線を向けた。
「先生。本当に、ありがとうございました。あなたのおかげで、私は……自分の人生を、もう一度愛することができました」
湊は、声が出せなかった。ただ、微かに頷くことしかできなかった。
時計の針が、二十四時間を告げた。
スッ、と。
美和子の身体から、魔法が抜け落ちた。
彼女の指の力が抜け、神谷の手から滑り落ちる。自発呼吸が止まり、胸の上下動が消えた。
「美和子!」
神谷が素早く人工呼吸器のマスクを装着し、スイッチを入れる。
規則的なポンプの音が、再び部屋に響き始めた。
彼女は再び、動けない身体へと戻ってしまった。
だが、その顔には、昨日までの「死を待つだけの絶望」はなかった。
目を閉じた彼女の表情は、どこか穏やかで、確かな満足に満ちていた。
「……っ!」
美和子が病に戻った瞬間、膝から崩れ落ちる湊を、芽衣が間一髪で抱きとめる。
「湊くん!」
「……芽衣さん、帰り、ましょう……」
湊はそのまま、暗い意識の底へと沈んでいった。
*
そこからの百六十八時間は、これまでのどの代償よりも苛烈だった。
高熱だけでなく、全身の筋肉が麻痺し、自分の身体が自分のものではないような恐怖が四六時中襲いかかってきた。
だが、暗闇の中でうなされながらも、湊の脳裏には、砂浜を笑って走る美和子の姿が焼き付いていた。
僕の痛みが、あの笑顔を作った。
僕の一週間が、あの夫婦の永遠の思い出になった。
そう思うと、不思議と恐怖は和らいだ。
そして、一週間後。
湊は自分のアパートのベッドで、ゆっくりと目を開けた。
肺いっぱいに空気を吸い込む。指先が動く。痛みが、消えた。
ベッドの傍らには、芽衣が座っていた。
彼女はリンゴを剥きながら、湊が目覚めたのを見ると、小さく微笑んだ。
「おはよう。生還したわね」
「……ええ。なんとか」
湊は上半身を起こし、芽衣からリンゴの乗った皿を受け取った。
「神谷さんから、手紙が来たわよ」
芽衣はポケットから封筒を取り出し、湊に渡した。
『湊先生、芽衣さん。本当にありがとうございました。妻は昨日、静かに息を引き取りました。でも、最期まであの海の写真を見て、微笑んでいました。僕の人生にとって、あの五十万円は、安すぎるくらいの奇跡でした』
湊は、手紙の文字を何度もなぞった。
患者は死んだ。能力で命を救うことはできなかった。
しかし、彼女の「魂」は確実に救われていた。
「五十万円の、価値……あったみたいですね」
湊が呟くと、芽衣は満足そうに頷いた。
「ええ。あんたは五万円の便利な道具から、五十万円の価値がある『人間』になったのよ。さあ、今月のお仕事はおしまい。また三週間の、自由の始まりよ」
湊は窓の外を見た。
眩しい夏の日差しが、世界を照らしている。
五十万円と引き換えに得た、三週間の日常。
湊は初めて、自分の能力が誰かを幸せにし、そして自分自身の人生をも豊かにできる力なのだと、心の底から肯定することができた。




