第3章:五十万円の境界線
翌朝、湊は自分の布団の中でゆっくりと目を開けた。
いつもなら、鳴り響くはずのスマートフォンの通知音は、どこにもない。
静寂。
湊は、鉛が抜けたように軽い身体を起こし、窓のカーテンを開けた。
眩しい朝の光が、埃っぽいワンルームに差し込む。外ではスズメが鳴き、遠くで車のエンジン音が聞こえた。
……鳴らない。
「助けてください」「明日ゴルフなんだ」「同窓会があるんだ」という身勝手な叫び声が、今日は一つも届かない。
芽衣が言っていた通り、彼女が湊の連絡先を管理し、五万円で命を買い叩こうとする連中を全てシャットアウトしたのだ。
湊は震える足で立ち上がり、洗面所へ向かった。
鏡の中の自分は相変わらず痩せこけているが、目の奥にはいつもと違う、微かな戸惑いの色が浮かんでいた。
「今日から、三週間……三週間も自由?」
声に出してみる。信じられない響きだった。
*
自由の初日。
湊は、アパートの近くにある寂れた定食屋のテーブル席で、芽衣と向かい合っていた。
目の前には、湯気を立てるアジの開き定食が置かれている。一週間ぶりの固形物だ。
「ゆっくり食べなさい。胃がびっくりするわよ」
芽衣は自分のコーヒーをすすりながら、呆れたように湊を見ている。湊は箸を持つ手が微かに震えるのを抑えながら、白いご飯を口に運んだ。
米の甘みが、舌の細胞一つ一つに染み渡る。痛くない。吐き気もない。ただ「美味しい」という感覚だけがそこにあった。
「……で、お金の話なんだけど」
芽衣はバッグから茶封筒を取り出し、テーブルに置いた。
「これ、当面の生活費。二十万円入ってるわ」
「えっ……いや、そんな。もらうわけには」
湊は慌てて箸を置いた。
「もらうんじゃないわよ、前借り。あんた、今月の家賃も危ないんでしょ? 五万円の仕事を全部断ったんだから、当然スッカラカンじゃない」
図星だった。あの受験生の母親に返金はしなかったものの、手元の金は底をつきかけていた。
「でも、五十万円の仕事なんて、本当に来るんですか?」
「来るわよ。もういくつか問い合わせは来てる。でも、私が全部保留にしてるの」
「保留?」
「そう。あんたにはまず、自分が『健康な状態で三週間過ごす』ってどういうことか、身体に覚え込ませる必要があるの。五万円で一週間寝込む生活を繰り返してたから、あんたの脳は『苦痛がデフォルト』になってる。それをリセットしなさい」
芽衣は真剣な眼差しで湊を見据えた。
「三週間、しっかり寝て、食べて、散歩して、本でも読みなさい。自分の身体が自分の思い通りに動くって感覚を、細胞の隅々まで染み込ませるの。それができたら、初めて『五十万円』の仕事をさせるわ」
湊は、茶封筒を見つめた。
二十万円。それは、僕が一ヶ月間、地獄を這いずり回って稼いでいた命の値段だ。それを、この人はポンと貸してくれるというのか。
「……ありがとうございます」
「礼はいいから、ちゃんと太りなさいよ。死神みたいな顔のヒーラーじゃ、五十万円の価値なんて誰も信じないわ」
*
それからの三週間は、湊にとって「再誕」のような日々だった。
朝起きて、カーテンを開ける。
熱はない。関節も痛まない。
それだけのことが、どれほど奇跡的なことか。
湊は芽衣に言われた通り、よく食べ、よく歩いた。
公園のベンチで文庫本を読み、スーパーで特売の肉を買い、自分で料理をした。
夜は、他人の痛みにうなされることなく、泥のように深く眠った。
最初の数日は、いつあのスマートフォンの通知音が鳴るかと怯えていた。しかし、一週間が過ぎ、二週間が過ぎる頃には、湊の頬に少しずつ血色が戻り、目の下の黒い隈も薄くなっていった。
「自分の身体が、自分のものだ」
歩くたびに、呼吸をするたびに、その実感が確かなものになっていく。
僕は、五万円で消費されるだけの部品じゃない。
僕にも、太陽の下を歩く権利があるんだ。
*
そして、約束の三週間後。
湊の身体が完全に「人間」のそれを取り戻した頃、芽衣から呼び出しがあった。
指定された喫茶店へ向かうと、彼女は一枚の書類をテーブルに滑らせた。
「はい、最初のクライアントよ」
湊は書類を手に取った。
そこには「依頼人:神谷夫婦」と書かれていた。三十代前半。妻の美和子が、進行性のALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っているという。
「五十万、本当に払うんですか?」
「払うわよ。彼らは、結婚五周年の記念日だった今日、二人で海を見に行く約束をしていたの。でも、奥さんの病状が急激に悪化して、今は自発呼吸もやっとの状態。……旦那さんは、自分が持っている貯金の全て、五十万円を提示してきたわ」
湊は息を呑んだ。
五万円なら、ゴルフや同窓会のためにポンと出せる人間はいる。
だが、五十万円となると話は別だ。それは、彼らの「生活」そのものを削り取る金額だ。
「……ぼったくりじゃないか。僕の力は、たった二十四時間しかもたないのに」
「ええ、二十四時間よ。でもね、湊くん」
芽衣はコーヒーカップを置き、湊の目をまっすぐに見据えた。
「その二十四時間は、彼らにとって五十万円の価値があるのよ。あんたがこれまで安売りしてきた『五万円の一日』とは違う。彼らは、残りの人生で海を見るためなら、全財産を投げ出してもいいと思ってる。……今のあんたなら、その覚悟の重さが分かるでしょ?」
湊は、自分の両手を見た。
この三週間、自分の足で歩き、美味しいものを食べ、暖かな日差しを感じてきた手だ。
健康であることの圧倒的な価値を、今の湊は誰よりも知っている。それを、たった二十四時間でも彼らに与えることができるなら。
「……行きます。僕に、やらせてください」
湊の声には、かつての卑屈な響きは消え、静かな決意が宿っていた。




