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第21章:未来へ


 桜の花びらが、柔らかい春の風に乗って舞い散っていた。

 四月。都内にある鍼灸専門学校の正門前には、真新しいスーツに身を包んだ新入生たちが、期待と少しの緊張を胸に集まっていた。


 その群衆の中に、みなとの姿もあった。

 サイズの合ったネイビーのスーツを着こなし、背筋を伸ばして立つその姿には、かつて解熱剤とゼリー飲料だけで暗闇の部屋に引きこもり、死神のように虚ろな目をしていた青年の面影は微塵もない。

「……ちょっと、ネクタイ曲がってるわよ。初日からだらしない格好しないで」

 横からすっと手が伸びてきて、湊の首元のネクタイをキュッと締め直した。

 保護者のように付き添ってきた芽衣めいだ。彼女は今日のために新調したという春らしいトレンチコートを着て、どこか誇らしげに湊を見上げている。

「ありがとうございます、芽衣さん。……でも、まさか入学式までついて来てくれるとは思いませんでした」

「当たり前でしょ。あんたの学費の管理者であり、スケジュール調整の全権を握る敏腕マネージャーなんだから。私の投資がちゃんとスタートラインに立ったか、見届ける義務があるのよ」


 芽衣の言葉に、湊は苦笑しながらも深く頷いた。

 桐谷きりやからの過去問対策や、芽衣の徹底した面接指導のおかげで、湊は無事に社会人入試を突破することができた。

 

 これからの三年間の生活は、決して楽なものではない。

 平日は朝から夕方まで学校で解剖学や生理学、経絡、東洋医学の理論、そして実技の授業がびっしりと詰まっている。

 その上で、月に一度の「依頼」をこなし、百六十八時間の代償を支払わなければならないのだ。

 だが、芽衣の機転により、学校のテスト期間や重要な実技試験の前には、あの「漫画家」のように過労や睡眠不足が原因の依頼(代償が強烈な眠気で済むもの)を優先的に組み込むことで、なんとか留年を回避する目処が立っていた。


「重いわね、これ……」

 式典が終わった後、学校の購買部で受け取った真新しい段ボール箱を抱え、湊はふうと息を吐いた。


 中には、分厚い『解剖学』『生理学』『東洋医学概論論』『経絡経穴概論』といった教科書の山と、実習用の真っ白な白衣、そして、滅菌パックに入った練習用の「銀鍼ぎんしん」のセットが入っていた。

 湊は、箱の隙間から見えているその細く光る銀色の針を、愛おしそうに見つめた。

「どう? 本物の教科書と鍼を手にした気分は」

 芽衣が、隣を歩きながら尋ねる。

「……最高です。僕が独学で読んできたボロボロの古本とは、重みが違いますね」

 湊は、空を見上げて眩しそうに目を細めた。

「五万円で、他人のインフルエンザや二日酔いを引き受けていた頃は……自分の命なんて、ただすり減らして消えていくだけのゴミだと思ってました。でも、芽衣さんが五十万円という『価値』をつけてくれて、患者さんの絶望の重さを教えてくれた。桐谷さんが、伝えることの使命を教えてくれた。サエさんや莉子ちゃんが、治すという真理を教えてくれた」

 湊は足を止め、満開の桜の木の下で、芽衣を真っ直ぐに見つめた。

「僕はもう、二十四時間の魔法だけで人を救った気にはなりません。これからは……この学校で学んだ知識と技術で、患者さんが自分の力で明日を生きられるように、根本から治してみせます」

「ええ。期待してるわよ、湊先生」

 芽衣は、これまでで一番優しく、そして力強い笑顔を湊に向けた。

「でも、あんたのその『能力』も、完全に封印するわけじゃないんでしょ?」

「もちろんです。現代医学でもどうにもならない、どうしても今日一日だけ時間が必要だっていう人には、迷わず僕の命を貸し出します。それに……」

 湊は自分の手のひらを開き、スッと宙にかざした。

「事前面接での『四診』のように、僕の能力は、患者さんの身体の奥深くに隠された『病の本当の声』を正確に聴き取るための、最高のセンサーになりますからね。能力で見立てて、鍼灸の技術で治す。……それが、僕の目指す最強の治療家です」

「ふふっ、大きく出たわね。まあ、あんたなら三年後、本当にやってのけるかもしれないけど」

 春の風が吹き抜け、二人の間を桜の花びらが踊るように通り過ぎていく。

 湊のポケットの中で、スマートフォンが短く振動した。

 芽衣が管理している、裏の依頼用端末からの転送通知だ。また誰かが、絶望の淵で「奇跡」を求めて助けを呼んでいる。

「……さあ、新しい日常の始まりよ。まずは帰って、白衣の袖を通してみなさい」

「はい!」

 湊は、ずっしりと重い教科書の箱を抱え直し、しっかりと前を向いて歩き出した。

 彼の歩む道は、決して平坦ではない。

 これからも、他人の痛みを引き受けて地獄の苦しみを味わい、涙を流す夜があるだろう。

 しかし、その足取りにもう迷いはなかった。

 痛みを恐れず、病魔の正体を知り、寄り添うこと。

 一時しのぎの魔法使いから、自らの技術で未来を紡ぐ「本物の治療者」へ。

 五十万円で命を売っていた青年の、新たな人生の幕が、今、希望と共に開いたのだ。

(第一部 完)

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