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第2章:命の価格

 ドンドンドンドンドンドンドン!

 

 暴力的なまでのノックの音が、みなとの虚ろな頭に響き渡る。

 あの受験生の母親だろうか。いっそこのドアを蹴り破って、擦り切れた僕の心臓を止めてくれればいいのに。

 

 一週間の地獄のような代償期間は、たった今終わったばかりだった。熱は引き、全身を苛んでいた激痛も嘘のように消え去っている。しかし、度重なる苦痛に耐え続けた湊の心はボロボロに摩耗し、生きる気力すら残っていなかった。

 

 湊は重い足取りで玄関へ向かい、震える指で鍵を開けた。

 

「……返金なら、今……手持ちが……」

 

 かすれた声でそう言いかけた湊の視界に飛び込んできたのは、怒りに燃える一対の瞳だった。

 

 ドアの向こうに立っていたのは、小柄な女性だった。艶やかな黒髪のショートカット。白いブラウスの上に紺のカーディガンを羽織っている。整った目鼻立ちをしており、笑えば間違いなく可愛らしいのだろうが、今はキリッと釣り上がった眉と鋭い眼光のせいで、少し怖いほどの迫力を放っていた。

 彼女は湊の幽霊のような姿を一瞥するなり、言葉を失ったように絶句した。

 

「やっぱり……酷いことになってる」

 

 彼女の名前は芽衣めい。以前、湊が奇跡を施した末期患者の担当看護師だった、人一倍責任感の強い女性だ。彼女は湊の返事を待たず、強引にドアを押し開けて踏み込んできた。

 

 室内には、酸えた汗の臭いと、一週間分のゴミ、そして絶望の淀んだ空気が充満していた。芽衣は鼻をひそめることもせず、床に転がった空のペットボトルや解熱剤のパッケージを蹴散らし、湊の肩を掴んでベッドへと座らせた。

 

「ちょっと、芽衣さん……何、して……」

「黙って座ってなさい。あんた、鏡見たことあるの? 熱は引いてるみたいだけど、死神みたいな顔してるわよ」

 

 芽衣は部屋の惨状を見渡し、深くため息をついた。

 

「……さっき、電話の叫び声が外まで聞こえたわよ。返金しろだの、詐欺だの。あんた、あんな連中の言いなりになって、たった五万円で自分の命を切り売りしてるの?」

 

 湊は、力なく視線を逸らした。

「……僕には、これしか……ないから。こうして誰かの役に立っていないと、僕は……ここにいてはいけない気がして」

 

 芽衣の手が止まった。彼女は湊が座るベッドの前に立ち、ドカッと腕を組んだ。その瞳には、憐れみではなく、烈火のような怒りが宿っている。

 

「自分を肯定したいから、誰かのゴミ箱になってるっていうわけ? 湊くん、よく聞いて」

 

 彼女は身をかがめ、湊のガリガリに痩せ細った手首を強く握りしめた。

 

「誰かに『ありがとう』って感謝されたら、自分が価値のある人間だと思える? 誰かがあなたを素晴らしいヒーラーだと肯定してくれたら、それで満足? 違うわ。それは『肯定』じゃない。ただの『消費』よ」

 

 湊は息を呑み、虚ろな瞳で彼女を見つめ返した。芽衣の言葉は、擦り切れた心に冷たく、そして鋭く突き刺さる。

 

「いい? もし誰かがあなたを肯定してくれたとしても、自分の身体が思い通りにならないなら、自分のことを信じたり、自分を肯定することなんて絶対にできないのよ」

 

「……っ」

 

「朝起きて、自分の足で立ちたいと思った時に立てない。美味しいものを食べたいと思っても、喉が焼けるように痛くて通らない。一週間のうち、自分の意志で動かせる時間がたった一日、いや、数分しかない……。そんな状態の自分を、どうやって愛せっていうの? あなたの身体は今、あなたの意志じゃなくて、他人のくだらない欲望に支配されているのよ」

 

 湊の目から、不意に熱いものが溢れ出した。

 悲しいのではない。ただ、自分が一番目を逸らしてきた事実を、この真っ直ぐな女性は白日の下に晒したのだ。

 

「自尊心っていうのはね、立派なことを成し遂げることじゃないわ。自分の身体を、自分の意志で、健やかに保てているっていう実感からしか生まれないの。だから、まずはその身体を取り戻しなさい。あなたの一週間を、たった五万円で切り売りして、死んだように眠るだけの生活はもう終わり。……これからは、私があなたの命のマネージャーになるわ」

 

 彼女はバッグから手帳を取り出し、ペンを走らせた。

 

「ルールは三つ。一つ、奇跡の安売りはやめること。報酬は一回につき一律五十万円。これを払えないような連中の依頼は、私が全部弾くわ」

「ご、五十万!? そんなの、誰も……」

「払うわよ。本当に必要な人ならね。そして二つ目。どうしても順番を待てない、今すぐ救えという『特急』の依頼は、一回につき百万円。その代わり、仕事は月に一回までよ」

 

 湊は呆然と彼女を見上げた。一ヶ月に一回。それは、三週間を「自分のための時間」として過ごせることを意味する。

 

「そして三つ目。浮いた時間で、あんたは『人間』として生きる努力をすること。美味しいものを食べて、本を読んで、自分の足で散歩をするの。自分の身体を自分のものにする。それができなきゃ、あんたの奇跡なんてただの呪いよ」

 

 芽衣は湊の銀行口座のキャッシュカードを(どこから見つけたのか)机に置き、不敵に笑った。

 

「さあ、決まりね。あのうるさい母親には、私がきっちり引導を渡してきてあげる。あんたはしばらく休んでなさい」

 

 芽衣が部屋を出ていく足音を聞きながら、湊は震える手でシーツを握りしめた。

 

 一回、五十万円。

 月に一度だけの、仕事。

 

 これまでの泥濘でいねいのような日々が、彼女の傲慢なまでの強引さによって、音を立てて崩れ去っていく。

 湊は、初めて暗闇の先に「光」があることを予感した。

 

 疲れ切った身体をベッドに横たえながら、彼は願った。

 明日。もし、自分の足で外を歩くことができたなら。

 その時こそ、自分は初めて、鏡の中の自分に声をかけることができるのではないか。

 

 湊の頬を伝う涙は、いつの間にか、絶望の涙ではなく、浄化の滴へと変わっていた。

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