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第19章:銀の道標


 莉子りこの一件は、みなとの心に静かな波紋を残していた。

 一時しのぎの魔法ではなく、患者の「声なき声」を聴き、根本的な原因を取り除くこと。それこそが真の治療であると、湊は身をもって学んだのだ。

 アパートの自室。

 湊は、ちゃぶ台の上に数冊の分厚い本と、いくつかのパンフレットを広げて、うんうんと頭を抱えていた。

「……やっぱり、無理だよな」

 広げられているのは、医学部の受験案内や、大学の学費一覧表だった。

 湊はため息をつき、手元のノートに書き込んだ数字をペンで斜線で消した。

 本物の治療者になりたい。そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのは「医師」になることだった。しかし、現実はあまりにも厳しい。

 医学部は最低でも六年。学費は国公立でも数百万円、私立なら数千万円に跳ね上がる。何より、今の湊には「月に一度、一週間の地獄の代償を支払う」という絶対的なサイクルがある。過酷な医学部の勉強や、不眠不休の研修医生活と、この代償を両立させることなど、どう考えても体力的に不可能だった。

 合鍵の回る音がして、芽衣めいが部屋に入ってきた。

 彼女はスーパーのレジ袋をキッチンに置くと、ちゃぶ台の上の惨状を見て呆れたように肩をすくめた。

「何よこれ。あんた、まさか今から医大を目指そうとか言い出さないわよね」

「……はい。たった今、諦めたところです」

 湊が苦笑交じりに答えると、芽衣は「そりゃそうよ」と向かいに座った。

「あんたの生活じゃ、解剖実習の途中で代償の一週間が来てぶっ倒れるのがオチよ。学費だって、毎月五十万稼いでるとはいえ、何千万も払えるわけじゃないんだし」

「分かってます。だから……こっちはどうかなって」

 湊は、医学部のパンフレットの下から、別の薄いチラシを引っ張り出した。

 そこには『最短三ヶ月でプロの整体師に! 独立開業も夢じゃない!』と、派手な文字が踊っていた。

「整体、ねえ」

「はい。これなら学費も数十万で済みますし、期間も短い。東洋医学のツボの知識も少しは活かせるんじゃないかと思って……」

「却下!」

 芽衣は、そのチラシを容赦なくひったくり、ゴミ箱へと放り投げた。

「えっ」

「あんた、自分が今まで何を学んできたのか分かってるの? 整体やリラクゼーションを否定するわけじゃないけど、あれは国家資格じゃないのよ。無資格でも『整体師』は名乗れる。でも、法的にあんたは『患者を治療する』ことは許されないわ。ただの慰安行為で終わるのよ」

 芽衣は、真っ直ぐに湊の目を見据えた。

「あんたがやりたいのは、肩こりの人をマッサージで気持ちよくさせること? 違うでしょ。死の淵にいる人や、心と身体を壊された人の『病気』と戦いたいんでしょ。だったら、ちゃんと国に認められた『医療従事者』の資格を取りなさい」

 湊は、芽衣の強い言葉にハッとした。

 そうだ。僕は妥協しようとしていた。自分の能力の限界と、現実の壁に恐れをなして、安易な道に逃げようとしていたのだ。

「でも、医者は無理だし……僕に取れる国家資格なんて……」

「あるじゃない。あんたがずっと、自分の身体を実験台にして学んできた分野が」

 芽衣は、部屋の壁に貼られた経絡図をアゴでしゃくった。

鍼灸しんきゅうよ」

「……鍼灸師」

「そう。はりきゅうを使って治療を行う、立派な国家資格よ。専門学校で三年みっちり学んで、国家試験に合格する必要があるわ。学費だってトータルで四、五百万。今のあんたの稼ぎなら、十分に払いきれる額よ」

 湊の頭の中で、バラバラだった思考が一つに結びついていく。

 鍼灸。

 それは、湊が図書館で読み漁り、自分の身体の気の流れを観察し、事前面接の『四診』で実践してきた東洋医学の神髄そのものだった。

 西洋医学のように、外科手術で悪い部分を切り取ることはできないかもしれない。しかし、患者の持つ自己治癒力を極限まで高め、バランスを整えることで、根本から病を駆逐する力がある。あのサエさんが、洗脳から解き放たれて自らの力で健康を取り戻したように。

「……鍼灸専門学校」

 湊は、その言葉をゆっくりと口の中で反芻した。

 三年という期間。それは短くはない。だが、医者を目指すよりは遥かに現実的で、何より、今の僕の能力と最も親和性が高い。

「芽衣さん。もし僕が、鍼灸の国家資格を取って、本物の技術を身につけたら……」

 湊は、自分の両手を見つめながら、少しだけ声を震わせた。

「僕の『二十四時間の魔法』で患者の最悪の痛みを取り除いている間に、僕自身の鍼灸の技術で、根本的な治療を施すことができるかもしれない。一時しのぎの痛み止めじゃなく、本当の意味で、患者を救えるようになるかもしれない」

 それは、五万円で自分を売り飛ばし、「どうせ僕なんか、誰の役にも立たない」と絶望していたかつての湊からは、想像もできないほど前向きで、力強い仮説だった。

「そうね。あんたの能力と、確かな技術。その二つが組み合わされば、最強の治療家になれるかもしれないわね」

 芽衣は、満足そうに微笑んだ。

「決まりね。次の春の入学に向けて、さっそく学校選びと受験勉強を始めなさい。あんたのマネージャー兼、学費の管理人は、私がきっちりやってあげるから」

「……はい! ありがとうございます、芽衣さん」

 湊は深く頭を下げた。

 胸の奥底から、じんわりと温かいものが湧き上がってくるのを感じる。

 自己肯定感。

 自分はもう、運命に消費されるだけの死神ではない。自らの意志で学び、自らの手で技術を身につけ、誰かの人生を支えることができる人間になれるのだと。

 壁に貼られた経絡図のツボが、まるで夜空の星のように、湊の進むべき未来の道標として輝いて見えた。

 銀色の針を手に、本当の奇跡を起こす治療者になるための、三年間の新たな挑戦が、今、始まろうとしていた。

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