第18章:心喰いの代償
漫画家の睡眠負債を肩代わりした平和な代償から、一ヶ月。
芽衣が持ってきた新たな特急依頼の資料を見た湊は、少し顔をしかめた。
「……中学生、ですか?」
「ええ。中学二年生の女の子よ。半年前から原因不明の激しい頭痛と吐き気、全身の倦怠感で学校に行けなくなって、今は完全な不登校状態。ご両親はあちこちの病院を回ったけど、自律神経の乱れとか、起立性調節障害とか、曖昧な診断しか下りていないみたい」
芽衣はコーヒーをすすりながら、パソコンの画面を湊に向けた。
「明後日が、その子の十四歳の誕生日なの。ご両親は『せめて誕生日の二十四時間だけでも、自由に動いて笑える身体をプレゼントしてあげたい』って。特急料金の百万円、即金で用意するそうよ」
湊は資料の端に目をやった。
十四歳。本来なら、友達と走り回り、笑い合っているはずの年齢だ。それが原因不明の体調不良で部屋に引きこもっている。
「わかりました。面接に行きましょう」
*
都内にある立派な一軒家。
二階の角部屋に通された湊と芽衣は、ご両親には席を外してもらい、ベッドの上に体育座りをして顔を伏せている少女——莉子と向き合った。
部屋のカーテンは閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。
「莉子さん。初めまして、湊です」
湊が静かに声をかけると、莉子は顔を上げずに、か細く、しかし棘のある声で返した。
「……帰って。私、治らないの。放っておいてよ」
「治らない?」
「どうせ、パパもママも、私を学校に行かせたいだけでしょ。お祓いとか、変なサプリとか、もうウンザリ」
莉子は頑なに治療を拒絶した。
湊は、彼女の強張った肩を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「莉子さん。僕は医者でも祈祷師でもありません。ただの『一時しのぎ』です」
「……え?」
「僕の能力は、あなたの身体の不調を、明日の誕生日からきっかり二十四時間だけゼロにします。……でも、二十四時間が過ぎれば、魔法は解ける。あなたはまた、このベッドの上で、今のまま動けなくなる。だから治せるわけじゃありません」
その言葉を聞いた途端、莉子の肩の強張りがスッと解けた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、前髪の隙間から湊を覗き込んだ。
「……二十四時間だけ? その後は、元の『病気』に戻るの?」
「はい。確実に」
「そう……それなら」
莉子は、ゆっくりと細い腕を差し出した。
湊はその手首に指を当てた。
……ドクン。
脈は深く、弦楽器の糸を張ったようにピンと張っている。極度のストレスと緊張によって気の巡りが滞っているサインだ。
しかし、それだけではない。湊の指先から伝わってくるのは、病的なエネルギーの重さよりも、底なし沼のような暗く冷たい感覚だった。
(……なんだ、この感覚は)
湊は深く息を吐き、莉子の手をそっと布団に戻した。
「分かりました。明日の朝、もう一度来ますね」
*
翌日、莉子の誕生日の朝。
湊が能力を開放した瞬間、莉子の顔から血の気が引いたような青白さが消え、彼女はベッドから立ち上がった。
両親が歓喜の涙を流し、莉子を抱きしめる光景を背に、湊と芽衣は静かに家を後にした。
しかし、アパートへ帰る車の中で、湊の異変はすぐに始まった。
「湊くん? 痛むの? 熱は……ないみたいだけど」
芽衣が助手席でうずくまる湊を心配そうに覗き込んだ。
「……痛くは、ないです。熱も、ない。でも……」
湊は胸の前で腕を組み、怯えたように息を乱しながらうめいた。
「苦しい……。息が、詰まる……。怖い……!」
アパートのベッドに倒れ込んでからの百六十八時間(一週間)。
それは、これまでのどんな激痛や高熱とも違う、最悪の『感覚』だった。
肉体的な痛みは全くない。しかし、湊の心は、得体の知れない真っ黒な感情に完全に支配されてしまったのだ。
「ああああっ……! 」
湊は暗闇の部屋で布団を被り、ガタガタと震え続けた。
流れ込んでくるのは、強烈な【自己否定】。自分が生きていることすら申し訳ないと感じるほどの恥辱。
そして、【切迫感】。明日が来るのが怖い。誰かに見られるのが怖い。常に焦らされ、追い詰められ、逃げ場のない密室で首をゆっくり絞められているような息苦しさ。
最後に、胸の底から湧き上がってくる、張り裂けるような【悲しみ】の感情。
(違う……これは病気なんかじゃない。これは、悪意だ)
湊は、涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになった顔を歪めながら、はっきりと悟った。
莉子の原因不明の頭痛や吐き気は、この強烈な『精神的苦痛』が身体症状として表に噴き出していただけなのだ。
彼女は、何者かによる陰湿で逃げ場のない悪意——恐らく『いじめ』の被害者だ。
一週間。湊はただひたすらに、十四歳の少女が半年間一人で耐え続けてきた『心の闇』の疑似体験に苛まれ続けた。
それは、痛みよりも、熱よりも、湊の精神を削り取っていった。
*
百六十八時間が終わり、ようやく心の重圧から解放された湊は、青ざめた顔のまま芽衣に懇願した。
「芽衣さん……もう一度、莉子さんの両親に連絡を取ってください。面会をお願いしたいんです」
「面会? 依頼はもう終わってるわよ」
「分かってます。でも……放っておけないんです。彼女の『病気』は、まだ何も解決していない」
翌日。湊は再び、あの薄暗い二階の角部屋を訪れた。
ベッドの上には、一週間前と同じように顔を伏せ、膝を抱える莉子の姿があった。
湊は椅子に座り、両親がドアを閉めたのを確認してから、静かに口を開いた。
「……莉子さん。誕生日は、楽しめましたか」
「……うん。パパもママも、喜んでくれたから。もうそれでいいの」
彼女の声は、死んだように平坦だった。
湊は小さく息を吸い込み、真っ直ぐに莉子のつむじを見つめた。
「莉子さん。僕は一週間、あなたの『不調』を体験しました」
「……え?」
「痛くも、熱くもなかった。その代わり……死にたくなるほど自分が恥ずかしくて、明日が来るのが恐ろしくて、誰のことも信じられなくて、ただひたすらに悲しかった」
莉子の肩が、ビクッと跳ねた。
「君は、原因不明の病気なんかじゃない。君の心は、誰かのひどい悪意によって、殺されかけている。……学校で、何をされているんですか?」
その言葉が引き金だった。
莉子はゆっくりと顔を上げ、湊を見た。その大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
誰にも言えなかった。親にも、医者にも、先生にも。ただの「体調不良」だと偽ることでしか、自分を守れなかった。
しかし、目の前の青年は、ただ言葉を聞いただけでなく、自分の「絶望」そのものを体感し、理解してくれたのだ。
「……こわい、の……」
莉子は、声にならない声で嗚咽を漏らした。
「無視されて、クスクス笑われて、私がいないグループLINEで悪口を言われて……」
「誰に、ですか」
莉子は、震える両手で自分の顔を覆い隠し、掠れるような声で絞り出した。
「マ、マナ……マナちゃん……私の、一番の親友だった子……」
湊の胸の奥が、ギリッと痛んだ。
莉子の口から語られた事実は、陰湿で絶望的なものだった。
いじめの主犯であるマナは、親同士も家族ぐるみの付き合いがあり、莉子が不登校になってからも、心配するフリをして頻繁に家に見舞いに来ているというのだ。
親の目の前で「莉子ちゃん、早く良くなってね」と微笑み、親がいない隙に「お前が学校に来ないからせいせいする」と耳元で囁く。
大人たちはマナを「優しい親友」と信じ込んでいる。莉子がもし「いじめられている」と告発しても、誰も信じてくれないだろう。その恐怖と絶望が、彼女の神経を完全に破壊し、身体症状としての「病」を作り出していたのだ。
「だから、治りたくなかったんですか。病気のままでいれば、学校に行かずに済む。あの親友の仮面を被った悪魔に、これ以上壊されずに済むから」
莉子は、涙で濡れた顔でコクコクと頷いた。
「……ごめんなさい。私、弱くて……最低でしょ……」
「違うよ!最低なのは、君じゃない」
湊は立ち上がり、ベッドの脇に跪いて、莉子の視線に自分の高さを合わせた。
「君の痛みは、僕がこの一週間で、身をもって感じました。君は悪くない。ただ、一人で抱え込むには、あまりにも重すぎる」
「湊、先生……」
「君の病気は、魔法なんかじゃ治りません。治す方法はただ一つ。……この部屋を出て、ご両親に、イジメの被害を打ち明けることです」
湊の言葉に、莉子は恐怖に身を縮めた。
「む、無理だよ……! マナちゃんのこと、パパもママも大好きなのに……信じてもらえなかったら、私、本当にひとりぼっちに……!」
「大丈夫です」
湊は、力強く、優しく言った。
「僕が、証人になります。君がこの半年間、どれほどの苦しみを背負ってきたか。僕が僕の命と体感にかけて、ご両親に証明します。だから……一緒に、言いに行きましょう」
莉子は、湊の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
他人の痛みを引き受け、地獄の底から這い上がってきた青年の目には、どんな嘘も悪意も寄せ付けない、圧倒的な「真実」の光が宿っていた。
数分後。
莉子は湊に手を引かれ、半年ぶりに、自らの意志で一階のリビングへと続く階段を下りていった。
リビングでは、不安そうに待っていた両親が飛び上がるように立ち上がった。
「莉子……? どうしたの?」
泣き腫らした顔の娘を見て母親が駆け寄ろうとするのを、湊が手で制した。
「お父さん、お母さん。莉子さんから、大切なお話があります」
莉子は湊の背中に隠れるようにしていたが、湊に優しく背中を押され、震える一歩を踏み出した。
そして、両親の顔を見つめ、ポロポロと涙をこぼしながら、ゆっくりと口を開いた。
「……パパ、ママ……ごめんなさい。私、病気じゃないの……」
莉子はしゃくり上げながら、半年間、一人で抱え込み続けてきたイジメの被害を、ついに吐き出した。
マナからの陰湿ないじめのこと。親友だと思っていた子に裏切られた悲しみ。両親がマナを可愛がっているからこそ、言い出せなかった恐怖。
両親は、最初は信じられないといった様子で息を呑んだ。
無理もない。マナはつい先日も、「莉子ちゃんを励ましに」と見舞いに来ていたのだから。
「そんな……マナちゃんが、莉子に……?」
母親が呆然と呟く。その戸惑いの空気に、莉子が一歩後ずさろうとした瞬間だった。
「本当です。僕が、証明します」
湊が、莉子の横に並び立ち、両親を真っ直ぐに見据えた。
「僕は一週間、莉子さんの代わりに彼女の『不調』を引き受けました。そこに病気の兆候は一つもありませんでした。あったのは、逃げ場のない自己否定と、底知れない恐怖、そして深い悲しみだけです。……彼女の心は、大人が思っている以上の地獄で、完全に壊れかけていたんです」
湊の、血を吐くような真実の言葉。
その重みに触れ、両親の目からパラパラと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「莉子……!」
母親が崩れ落ちるように莉子に駆け寄り、その細い身体をきつく、きつく抱きしめた。父親もまた、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、二人を包み込むように強く抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね、莉子! 気づいてあげられなくて、一人でこんなに苦しませて……!」
「ママ……パパぁ……っ!」
「いいか、莉子」
父親が、莉子の涙で濡れた頬を両手で包み込み、力強く言った。
「学校なんて、もう二度と行かなくていい。あんな奴ら、パパが絶対に許さない。何があっても、誰を敵に回しても……パパとママは、絶対に、百パーセント、お前の味方だからな!」
「うわああぁぁぁんっ……!」
莉子は、両親の胸の中で、半年分の恐怖と悲しみを全て吐き出すように、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
それは、彼女の心を覆っていた分厚い氷が、両親の絶対的な愛情によって、ついに溶け去った瞬間だった。
湊は、その光景を静かに見守りながら、深く息を吐いた。
この家族はもう大丈夫だ。偽りの病気で身を守る必要はない。彼らは彼ら自身の足で、この理不尽な悪意に立ち向かっていける。
それは、湊の「能力」が単なる一時しのぎの魔法から、人の心を闇から救い出す『治療』へと変化した瞬間だった。




