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第17章:眠りの代償


 桐谷きりやという心強い防波堤を得たことで、カルト教団の影はみなとたちの周囲から嘘のように消え去った。

 事前面接(四診)の導入によって偽患者の罠も完全に防げるようになり、湊の「月に一度の仕事と、三週間の自由」というサイクルは、かつてないほど安定したものになっていた。

 そんなある日、芽衣めいが持ち込んできた新たな特急依頼は、少し毛色の変わったものだった。

 

「依頼人は、週刊連載を抱える漫画家よ。三日後にどうしても落とせない合併号の巻頭カラーの締切が迫っているのに、原因不明の体調不良でペンが握れないらしいわ」

「原因不明……ですか」

「ええ。酷い頭痛、腰痛、目の痙攣、それに集中力の著しい低下。病院で検査しても異常なし。でも本人は『このままじゃ原稿が落ちる、死ぬ』って泣きついてきたの。特急料金の百万円、即金で用意するって」

 湊は首を傾げた。病院で異常がないのに、それほどの多岐にわたる症状が出るものだろうか。

「とりあえず、事前面接に行きましょう」


 *


 都内の高級マンションの一室。

 そこは、足の踏み場もないほどの修羅場だった。空の栄養ドリンクの瓶が山のように転がり、インクと湿布の匂いが充満している。

 リビングの奥にある巨大なデスクで、依頼人である漫画家の男は、死にそうな顔で突っ伏していた。

「先生……助けてください……頭が割れるように痛いし、腰は爆発しそうだし、目がピクピクして原稿の線が三重に見えるんです……」

 男は幽鬼のような声で湊にすがりついた。

 湊は「失礼します」と断り、いつものように東洋医学の『四診』を開始した。

 顔色は青白く、目の下には真っ黒なくまがべったりと張り付いている。舌は色が薄く、全体的にぼってりと腫れぼったい。

 そして、手首の脈に指を当てる。

 ……ドクン、ド、クン……。

 弱く、細く、そして途切れ途切れの脈。生命エネルギーが底をつきかけているような脈だ。

 しかし、凑は少し拍子抜けしていた。

 これまでの末期がん患者やALSの患者から感じた、あの身を引き裂かれるような重く黒い『エネルギー』が、この漫画家の身体からは感じられなかったのだ。あるのはただ、圧倒的な「空っぽ」の感覚だけだった。

「……分かりました。明日の本番で、あなたのその『不調』を二十四時間引き受けます」

 湊は、ひとまず百万円の特急依頼を引き受けることを約束し、マンションを後にした。


 *


 翌日。

 湊は再び仕事場を訪れ、百万円の封筒を芽衣が受け取ったのを確認した後、漫画家の肩に手を置いた。

 能力を開放する。

 流れ込んでくるのは、激痛ではなく、鉛のような『重さ』だった。

「おお……! 視界がクリアだ! 頭痛が消えた! 腰が嘘みたいに軽い!」

 漫画家は歓喜の声を上げ、猛烈なスピードで原稿に向かい始めた。ペンが紙を擦る音が、リズミカルに部屋に響く。

 一方の湊は、急激な眠気に襲われ、その場にへたり込みそうになっていた。

「湊くん、大丈夫?」

「ええ……芽衣さん。今回は、痛くはないんですけど。ただ……死ぬほど、眠い……」

 湊は半分目を閉じたまま、芽衣に引きずられるようにしてマンションを後にした。


 *


 アパートに帰ってからの百六十八時間(一週間)。

 湊の代償は、これまでで最も平和で、そして最も『怠惰』なものだった。

 熱も出ず、関節も痛まない。その代わり、底なし沼に沈み込むような強烈な睡魔が彼を襲い続けた。

 湊はベッドに横たわったまま、文字通り「気絶するように」眠り続けた。

 途中で芽衣が様子を見に来て、無理やり起こしてゼリー飲料や水を飲ませるのだが、湊は飲み込みながらも半分寝ている状態だった。

「……あんた、いくら何でも寝すぎよ。生きてる?」

 三日目、芽衣が湊の頬をぺちぺちと叩きながら呆れたように言った。

「むにゃ……芽衣さん……分かりましたよ、原因が……」

「原因?」

「あの漫画家の、何徹分もの『睡眠負債』です……僕が今、代わりに寝て、返済してるんです……すー……」

「あっ、また寝た」

 ひたすら眠り続けるという代償の体感を通して、湊は漫画家の不調の正体をはっきりと悟っていた。

 原因不明の難病などではない。ただの極度の睡眠不足と、過労だ。

 東洋医学において、気と血(栄養)は睡眠中に作られ、蓄えられる。それを無視して活動し続ければ、脳への血流が不足して頭痛が起き、筋肉に栄養がいかずに腰痛が起き、目の痙攣が起きる。あの多岐にわたる不調はすべて、単なる「寝不足」が引き起こしたエラーの連鎖だったのだ。


 結局、湊はその一週間のほとんどを、夢の世界で過ごした。

 激痛にのたうち回る地獄に比べれば天国のような代償だったが、一週間後にパッチリと目が覚めた時、湊の身体は寝すぎによる軽い筋肉痛と、凄まじい空腹に支配されていた。

「……おはよう。よく寝たわね、眠り姫」

 ダイニングテーブルで本を読んでいた芽衣が、呆れ顔で声をかけた。

「はは……こんな代償もあるんですね」

 湊は大きく伸びをして、キッチンで水を一気飲みした。そして、真剣な顔で芽衣に向き直った。

「芽衣さん。あの漫画家さんに、伝言をお願いできますか」

「伝言?」

「はい。彼の身体には、悪い病気は一つもありませんでした。不調の根本的な原因は、極端な睡眠不足です。アシスタントの数をギリギリで回して節約していると言っていましたが……それをやめて、仕事と遊び、そして睡眠のメリハリをつけるように伝えてください。そうすれば、高いお金を払って奇跡に頼らなくても、頭痛も腰痛も、自然に消えていくはずですって」

 芽衣は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで頷き、スマートフォンを取り出した。


 *


 それからさらに一週間後。

 芽衣が、漫画家からのメッセージを湊に読み上げた。

『湊先生のアドバイス通り、アシスタントを二人増やし、きっちり八時間睡眠をとるスケジュールに組み直しました。そしたら驚いたことに、翌週からの連載作業で、あの酷かった頭痛も目の痙攣も、すっかり出なくなったんです。先生の言う通りでした。健康って、お金をかけることじゃなくて、ちゃんと寝ることだったんですね』

 湊は、そのメッセージを聞いて、深く静かな喜びを感じた。

 これまでの患者は、現代医学に見放された末期症状ばかりだった。だからこそ、湊の奇跡は「最後の一日」を作るためだけのものだった。

 しかし今回の漫画家は違う。

 湊が代償を通して得た「気づき」が、彼が自分の生活を見直し、自らの力で健康を取り戻すための「きっかけ」になったのだ。

「……『養生ようじょう』ですね」

 湊は、窓から差し込む朝日を浴びながら呟いた。

「なにそれ?」

「東洋医学の言葉です。病気を治すよりも前に、日々の食事や睡眠、心の在り方を整えて、病気にならない身体を作ること。それが一番の治療なんだって」

 湊は自分の手のひらを見つめた。

 能力で痛みを肩代わりすることはできる。でも、それでは根本的な解決にはならない。


 患者の身体の声を聞き、自らの体感を通して根本原因を見抜き、彼ら自身が健康を取り戻すための正しい道を示すこと。それができて初めて、僕は「奇跡の道具」から「本物の治療者」になれる。

 この「眠りの一週間」は、湊にとって痛みのない平和な代償だっただけでなく、医療の原点に立ち返るための、深く温かい気づきの時間となった。

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