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第16章:証明とペン


 翌日の午後三時。

 みなと芽衣めいがホスピスの個室のドアを開けると、桐谷きりやは昨日と同じ場所で、腕組みをして待ち構えていた。

 彼の傍らには、小型のビデオカメラが三脚にセットされ、ベッドの上の柴田しばたと、これから近づくであろう湊の動きを画角に収めるよう調整されていた。

「記録はさせてもらうぞ。手品師の袖口に隠されたタネを見逃さないためにな」

 桐谷の言葉にはまだ棘があったが、昨日までの見下すような響きは薄れていた。

「構いません」

 湊は短く答え、ベッドに近づいた。

 柴田の呼吸は昨日よりもさらに浅く、不規則になっていた。死の影が、文字通り彼の全身を黒く覆い隠そうとしている。

 湊はベッドの脇に立ち、静かに目を閉じた。

 (……来るぞ)

 昨夜から、湊は自分の身体の中で何度もシミュレーションを繰り返していた。

 柴田の深い部分に巣食う、刺すような固定された激痛と重い熱。これを無防備に全身の『気』で受け止めてはいけない。

 湊は深く息を吸い込み、自分の消化器系を司る太い気の通り道に意識を集中させた。そこに分厚い土壁のような防波堤をイメージし、流れ込んでくる邪気を一箇所に誘導して封じ込めるのだ。

 準備はできた。

 湊はゆっくりと目を開け、柴田の胸の中心に、静かに両手を置いた。

 桐谷が、ビデオカメラの横で息を止める。

 

 ……ドクン。

 能力の弁を、全開にする。

 その瞬間、湊の喉の奥から「ぐっ」と低くくぐもった呻き声が漏れた。

 凄まじい質量だった。末期がんが柴田の身体を食い破ろうとする圧倒的な破壊のエネルギーが、湊の腕を伝って雪崩のように押し寄せてくる。

 痛い。胸を焼け火箸で貫かれたような激痛。

 だが、湊は倒れなかった。

 (流すな……! ここで、受け止める……!)

 意識の防波堤に邪気を叩きつけ、全身への拡散を必死に食い止める。湊の額から滝のように汗が吹き出し、土気色だった顔が、一気に高熱を帯びた赤黒い色へと変貌していく。

「おい……お前、顔色が……」

 ファインダー越しに見ていた桐谷が、思わず声を上げた。湊の腕の血管が異常なほど隆起し、全身が小刻みに痙攣を始めている。

 しかし、それ以上に桐谷の目を釘付けにしたのは、ベッドの上の柴田の変化だった。

 黄疸で濁りきっていた柴田の肌から、みるみるうちに毒々しい黄色が引いていく。浅く喘ぐようだった呼吸が、深く規則正しいリズムを取り戻し、酸素マスクの内側が大きく曇った。

 心電図のモニターが、力強い鼓動を刻み始める。

「……う、ん……」

 柴田が、ゆっくりと目を開けた。

 焦点の合っていなかった瞳に、はっきりとした光が宿る。

 彼は顔の横にある酸素マスクを自らの手で外し、ベッドの上で、信じられないほど軽やかに上半身を起こした。

「……痛みが、ない」

 柴田は、自分の胸をさすりながら、驚愕に満ちた声で呟いた。

「モルヒネの泥水の中にいるような感覚もない。頭が……三十代の頃のように澄み切っている。信じられん」

「柴田さん……!」

 桐谷はカメラを放り出し、恩師のベッドにすがりついた。

 幻覚ではない。興奮剤の一時的な作用でもない。末期がんで寝たきりだった老人が、今、自らの力で背筋を伸ばし、明確な意志を持って座っているのだ。

「桐谷か。……お前が、この先生を呼んでくれたのか」

「あ、ああ……柴田さん、本当に、痛くないのか?」

「ああ。嘘みたいに身体が軽い。……桐谷、カバンを取ってくれ。原稿の続きを書かないと。時間がないんだろう?」

 柴田は、ベッドの上に簡易テーブルを置かせると、桐谷が手渡した万年筆をしっかりと握りしめ、原稿用紙に向かい始めた。

 ペン先が紙を走る、カリカリという力強い音が病室に響く。

 桐谷は、その音を聞きながら、ゆっくりと振り返った。

 部屋の隅で、芽衣に肩を支えられながら壁にもたれかかっている湊の姿があった。

 湊の息は荒く、立っているのがやっとの状態だった。だが、その瞳はしっかりと柴田の背中を見つめていた。

「……防波堤が、少しは機能したみたいです」

 湊は、引きつるような笑みを浮かべて芽衣に囁いた。

「激痛ですけど……意識は、ハッキリ保ててる。一週間、これなら……耐えられます」

 桐谷は、その言葉を聞いて愕然とした。

 手品でも、詐欺でもない。

 この青年は今、柴田の身体を蝕んでいた『死の苦痛』を、その細い身体にそっくりそのまま移し替えたのだ。

 湊の異常な発汗と、痛みに耐える生々しい表情。そして、柴田の奇跡的な復活。

 これが、彼が言っていた『等価交換』。

「……お前、本当に」

 桐谷は、震える足で湊の前に歩み寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

「本当に、引き受けてるのか。柴田さんの、あの地獄のような痛みを……お前が」

「……ええ。でも、二十四時間だけです」

 湊は、荒い息の合間に答えた。

「明日のこの時間には、柴田さんは元の状態に戻ってしまいます。だから……桐谷さん。彼が原稿を書き上げるのを、最後まで見守ってあげてください」

 桐谷は、両手で顔を覆った。

 ジャーナリストとしての猜疑心は、跡形もなく消え去っていた。

 数年前に病室で亡くなった自分の娘。もしあの時、この青年がいてくれたら。いや、そんな考えはただの感傷だ。重要なのは、今、目の前で恩師の魂が救われようとしているという事実。

「……疑って、すまなかった」

 桐谷は顔を上げ、湊と芽衣を真っ直ぐに見上げた。

「お前たちは、本物だ。……俺の負けだよ。詐欺師だなんて記事は、絶対に書かない。このカメラのデータも、お前たちの正体も、俺が墓場まで持っていく」

 そして、桐谷は強い決意を込めて言葉を続けた。

「あのカルト教団の件も、俺に任せろ。あいつらがお前たちに手出しできないように、俺のジャーナリストとしてのコネとペンを使って、徹底的に風除けになってやる」

「……ありがとうございます、桐谷さん」

 芽衣が、深く頭を下げた。

 カリカリ、カリカリ。

 柴田のペンが走る音が、静かな病室に心地よく響き続けている。

 湊は、壁に寄りかかったまま目を閉じた。

 ここから百六十八時間の、新しい地獄が始まる。

 だが、事前面接によって敵の正体を暴き、桐谷という強力な支援者を得た今回の奇跡は、湊にとって単なる「代償」以上の、計り知れない価値を生み出していた。

 治療者としての湊の歩みは、また一つ、確かな前進を遂げたのだ。

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