第13章:監視下の罠
桐谷との対峙から数週間後。
芽衣の厳しい審査をすり抜け、一件の依頼が舞い込んだ。
依頼人は五十代の女性。五年前に原因不明の重度な神経痛を患い、現在は両足が麻痺して車椅子生活を余儀なくされているという。どうしても離れて暮らす息子の結婚式に、自分の足で出席したいと涙ながらに訴えてきた。
診断書やカルテのコピーも揃っており、五十万円という対価を支払う覚悟も確認できた。
「……桐谷にも連絡を入れたわ。今日の午後、指定のホテルで待ち合わせよ」
芽衣の表情は硬かった。もし今回の奇跡が失敗すれば、湊は「詐欺師」として社会的に抹殺される。それは、湊がこれまで命を削って救ってきた人々をも傷つけることになるのだ。
「大丈夫です、芽衣さん。普段通りにやるだけですから」
湊は静かに頷き、東洋医学の経絡図を頭の中で復習しながら、ホテルへと向かった。
*
ホテルの客室。
車椅子に乗った依頼人の女性は、顔をしかめてしきりに足をさすっていた。
部屋の隅には、腕組みをした桐谷が鋭い目を光らせて立っている。彼は小型のボイスレコーダーをポケットに忍ばせ、湊の一挙手一投足を見逃すまいと構えていた。
「先生……どうか、お願いします。明日の式だけでも、息子の晴れ姿を立って見たいんです」
女性はハンカチで目頭を押さえた。
「分かりました。二十四時間だけですが、あなたの痛みを僕が引き受けます」
湊は女性の前に膝をつき、彼女の麻痺しているという両膝にそっと手を置いた。
桐谷が息を呑む音が聞こえた。
湊は目を閉じ、丹田に意識を集中させる。これまでのように、彼女を苦しめているエネルギーが、自分の腕を伝って流れ込んでくるのを待ち構える。
……ドクン。
湊は、能力の弁を開放した。
来る。あの身を引き裂かれるような、黒く重い濁流が——。
「……え?」
湊は、思わず目を開けた。
何も、起きない。
いつもなら、患者に触れて能力を開放した瞬間に、相手の病状が圧倒的な質量を持って湊の体内に侵入してくる。しかし今、湊の手のひらから伝わってくるのは、ただの健康的な人間の、温かい体温だけだった。気の乱れも、血の滞りもない。
(どういうことだ……? 僕の能力が、消えた?)
湊が困惑して固まっていると、突然、車椅子の女性が大声を上げた。
「ああっ! 痛い! 痛いわっ!」
「えっ?」
「全然治ってないじゃない! 足が、足が割れるように痛い! なにこれ、あなた何をしたの!?」
女性は車椅子の上でのたうち回り、湊を突き飛ばした。
「おい、どういうことだ!」
桐谷が怒鳴りながら歩み寄ってきた。
「奇跡とやらはどうした! 彼女は痛がってるじゃないか! やっぱりただの詐欺師か!」
「違います! 僕はちゃんと……!」
湊は自分の手のひらを見つめた。能力は確実に発動したはずだ。だが、引き受けるべき「痛み」が、彼女の身体のどこにも存在しなかったのだ。
「詐欺よ! 五十万も払わせといて、インチキじゃないの! 警察を呼ぶわよ!」
女性は泣き叫びながら、携帯電話を取り出そうとした。
「……待って。おかしいわ」
芽衣が、鋭い声で口を挟んだ。
「あなた、カルテには『複合性局所疼痛症候群』って書いてあったわね。少しでも触れると激痛が走るはずなのに、さっき湊くんが膝を強く掴んでも、あなたは一瞬反応が遅れたわ」
「な、何を言ってるの! 痛いものは痛いのよ!」
「やめろ、言い訳は見苦しいぞ」
桐谷が芽衣を遮り、湊の胸ぐらを掴んだ。
「これでハッキリした。お前らはただのクズだ。人の弱みにつけ込む詐欺師だ。俺は絶対に記事にするからな」
桐谷は湊を突き飛ばすと、忌々しそうに舌打ちをして部屋を出て行った。
残された女性は「金は返してもらうからね!」と喚き散らし、車椅子を乱暴に操作して、そそくさと部屋から逃げるように去っていった。
「湊くん……能力、効かなかったの?」
芽衣が青ざめた顔で湊に駆け寄った。
「……いえ。違います、芽衣さん」
湊は、女性が座っていた車椅子を見つめながら、静かに言った。
「彼女は、病気じゃありませんでした。気の流れが、完全に健康な人間のそれだったんです。僕に移す『痛み』そのものが、最初から存在しなかった」
*
一方、ホテルを飛び出した桐谷は、怒りに任せてタバコに火をつけようとして、ふと手を止めた。
長年、詐欺師や裏社会の人間を取材してきたジャーナリストとしての『勘』が、脳の奥で警鐘を鳴らしていたのだ。
(……何かがおかしい)
確かに、湊の奇跡は起きなかった。詐欺師の馬脚を現したと見るのが自然だ。
だが、あの車椅子の女性の「演技」。
桐谷は過去に、本物の難病患者が苦痛に顔を歪める姿を、娘の闘病を通して嫌というほど見てきた。あの女性の痛がり方は、あまりにもわざとらしかった。過剰な身振り、声の張り、そして何より、目に『本物の絶望』がなかった。
(あいつらが詐欺師だとしても……あの女も、グルなのか?)
桐谷はホテルから出てきた女性を、物陰から密かに尾行し始めた。
女性は、ホテルから少し離れた路地裏に入ると、周囲を警戒するように見回し、なんとスッと車椅子から立ち上がったのだ。
全く足を引きずる様子もなく、彼女は停まっていた黒いワンボックスカーに乗り込んだ。
桐谷は慌ててスマートフォンを取り出し、車のナンバーと、乗り込む瞬間の女性の姿を動画で撮影した。
ズームした画面越しに、車の運転席に座る男の顔が見えた。
白装束のような奇妙な服を着た、坊主頭の男。
桐谷は、その男の顔に見覚えがあった。
(……『光の導き教会』……数年前、違法な祈祷料で問題になったカルト教団の幹部じゃないか)
桐谷は息を呑んだ。
ワンボックスカーの中で、女性と男が笑い合っているのが見えた。
「うまくやりましたよ。あのインチキ野郎、大慌てでした」
「よくやった。我々の『奇跡』を否定し、サエを連れ去った報いだ。これであいつらも詐欺師として社会から消されるだろう」
窓の隙間から漏れ聞こえたその会話に、桐谷は全身に鳥肌が立つのを感じた。
あの湊という青年は、カルト教団から恨みを買っていた。
そして教団は、湊を詐欺師に仕立て上げるために、健康な信者を『偽の難病患者』として送り込んだのだ。
つまり、湊が「治せなかった」のは、詐欺師だからではない。相手が最初から『治す必要のない健康な人間』だったからだ。
(……あいつ、本物なのか?)
桐谷は、自分の手が震えていることに気がついた。
もし、湊がカルト教団から標的にされるほど『本物の奇跡』を起こす存在なのだとしたら。
あの時、湊が見せた傷だらけの腕は、本当に他人の痛みを引き受けた代償なのだとしたら。
桐谷は、タバコを地面に落とし、靴の裏で強く踏み躙った。
ジャーナリストとしての猜疑心と、一人の父親としての「もしかしたら」という期待が、彼の心の中で激しくスパークしていた。
彼はワンボックスカーが走り去るのを見送ると、急いで踵を返し、湊と芽衣がまだいるはずのホテルへと走り出した。




