第12章:追跡者との対峙
指定された場所は、都内の少し古びたホテルのラウンジだった。
湊と芽衣が席に着くと、ほどなくして一人の男が現れた。くたびれたジャケットに、無精髭。鋭く人を射抜くような三白眼を持ったその男は、桐谷と名乗った。
「わざわざ呼び出しに応じてもらえるとはね。逃げられるかと思ってたよ」
桐谷は席に着くなり、挨拶もそこそこに分厚いクリアファイルをテーブルの上に放り投げた。
中から滑り出てきたのは、数枚の隠し撮り写真と、病院のカルテのコピーのようなものだった。写真には、佐々木が娘の結婚式で車椅子から立ち上がっている姿や、ALSで亡くなった神谷美和子が、夫と海辺を歩いている姿が収められている。
「佐々木さんの娘の結婚式。神谷さんの奥さんの最期。そしてつい最近の、交通事故に遭った九十歳の老婆。……共通点は二つ。一つは、現代医学では絶対にあり得ない『二十四時間限定の完全回復』が起きていること。もう一つは、その背後に常に君たち二人がいて、彼らの口座から五十万円から百万円という大金が引き出されていることだ」
桐谷は、探るような目で湊の顔を覗き込んだ。
「弱り切った末期患者や、その家族の『最後に一日だけ元気な姿を見たい』という絶望につけ込んで、高額な祈祷料を巻き上げる。新手のカルト宗教にしては、ずいぶんと悪質だね。いったいどんな興奮剤や麻薬を使ったんだ?」
「言葉に気をつけなさい」
芽衣が身を乗り出し、低い声で威嚇した。
「私たちは誰も騙してない。彼らは納得して対価を払い、私たちは約束通りの時間を提供しただけよ」
「対価? 馬鹿を言うな。薬事法違反、医師法違反、おまけに詐欺罪だ。君たちがやってることは、人間の弱さを食い物にする最低の犯罪行為だよ」
桐谷の口調には、明確な嫌悪感が混じっていた。彼はこれまでのライター人生で、難病ビジネスやカルト宗教に騙され、財産を失い、家族を壊された人々を腐るほど見てきたのだ。「奇跡」を騙る人間を、彼は親の仇のように憎んでいた。
だが、桐谷の激しい追及を受けても、湊は全く動じていなかった。
彼は静かにクリアファイルの中の写真を眺め、やがて桐谷の目を真っ直ぐに見返した。
「……桐谷さん。あなたの言う通りです」
「凑くん!?」
芽衣が驚いて声を上げたが、湊は彼女を片手で制した。
「僕たちは、五十万円を受け取りました。そして、彼らに二十四時間の奇跡を見せました。それが現代の法律に照らし合わせれば、詐欺や無免許医療と呼ばれることも理解しています」
「……ほう。あっさり認めるんだな。記事にされてもいいと?」
「記事にする前に、一つだけ訂正させてください。僕は『祈祷』なんてしていません。ただ、等価交換をしただけです」
「等価交換?」
「彼らの抱える物理的な苦痛を、二十四時間だけ僕の身体に移し替える。そして、一週間かけて僕の身体でその痛みを精算する。それが、僕の能力の全てです。薬も、トリックもありません」
桐谷は、鼻で笑った。
「オカルトの手口としては三流だな。痛みを移す? 君が身代わりになる? そんな馬鹿な話……」
そこまで言いかけて、桐谷は言葉を失った。
湊が、テーブルの上に着ていたカーディガンの袖を捲り上げたのだ。
露わになった湊の腕は、異常だった。
単に痩せているというレベルではない。骨と皮だけになり、皮膚の下の血管が痛々しく浮き出ている。所々に、高熱と激痛でのたうち回った際についたであろう内出血の痕や、爪で掻きむしった生々しい傷跡が残っていた。
それはどう見ても、詐欺で大金を稼ぎ、贅沢を貪っている人間の肉体ではなかった。むしろ、今すぐにでも死んでしまいそうな、末期患者そのものの姿だった。
「この身体が、その証明です」
湊は、静かに言った。
「僕は、五万円で他人のインフルエンザを買い取り、五十万円でALSを買い取り、百万円で交通事故のダメージを買い取ってきました。僕の身体は、彼らの痛みを引き受けたゴミ箱です。……もしあなたがこれを詐欺だと呼ぶなら、僕はこの命を懸けて、詐欺を働き続けます」
桐谷は、圧倒されていた。
狂っている。こいつは、自分が身代わりになって苦痛を引き受けているという妄想に取り憑かれたカルトの教祖なのか?
いや、違う。
桐谷の長年の勘が、警鐘を鳴らしていた。湊の瞳には、狂信者のような濁りはない。ただ、圧倒的なまでの「覚悟」と、底知れない「静寂」があるだけだ。
そして隣に座る芽衣は、湊の傷だらけの腕を見て、泣き出しそうな顔で唇を噛み締めている。詐欺師の共犯者が、金づるに対して向ける表情ではない。
(……なんだ、こいつらは)
桐谷の心の中で、確固たる「疑惑」の壁に、ほんの小さなひびが入った。
もし、もし万が一。
この男の言う「痛みの肩代わり」が、真実だとしたら?
現代医学が見放した患者を、たった二十四時間とはいえ、完全に救い出す力が本当に存在するとしたら?
桐谷の脳裏に、数年前に病室で苦しみながら息を引き取った、自身の幼い娘の姿がフラッシュバックした。
『奇跡なんてない』と絶望し、奇跡を騙る詐欺師を憎むことでしか正気を保てなかった彼自身の、封じ込めたはずの「期待」が、疼き始めていた。
「……面白い作り話だ」
桐谷は、動揺を悟られないように、わざとらしくため息をついて見せた。
「だが、ジャーナリストは証拠のないオカルト記事は書かない。君のその傷跡も、自傷行為だと言われればそれまでだ」
「では、どうすれば」
「……見せてもらおうか。君のその『等価交換』とやらを」
桐谷はクリアファイルを乱暴に鞄にしまい込み、立ち上がった。
「次の依頼が来たら、俺を立ち会わせろ。君が患者に触れ、本当に病状が消え去る瞬間を、この目で確認させてもらう。……もしそれが下らない手品や薬の投与なら、その場で警察に通報し、君たちを社会から完全に抹殺する記事を書く。いいな?」
芽衣が何かを言い返そうとしたが、湊は静かに頷いた。
「分かりました。約束します」
「……せいぜい、素晴らしい奇跡を用意しておくんだな」
捨て台詞を残し、桐谷はラウンジを去っていった。
彼の背中は、疑惑と怒りに満ちているように見えたが、その足取りはどこか、見えない希望の糸に手繰り寄せられているようにも見えた。
「凑くん……本当に良かったの?」
芽衣が、震える声で尋ねた。
「はい。隠れてコソコソ続けるのは、僕の『学び』にも、芽衣さんの覚悟にも泥を塗ることになりますから」
湊は袖を下ろし、決意を込めた瞳でラウンジの入り口を見つめた。
「次の依頼で、彼に証明します。僕たちのやっていることが、ただの詐欺ではないということを」
桐谷という厄介な追跡者との対峙は、湊と芽衣に、これまでにない巨大なプレッシャーを与えることになった。
絶対に失敗が許されない「監視下の奇跡」。
それが、湊の東洋医学の学びを、さらに一段階上のステージへと引き上げる試練となることは、まだ誰も知らなかった。




