第11章:追跡者の影
第14章:追跡者の影
特急依頼の百六十八時間が終わった翌日。
湊は、アパートの小さなキッチンで、ゆっくりとした手つきで麦茶を注いでいた。
まだ足元は少しふらついているが、一週間前の「死の淵」を思えば、驚異的な回復力だった。
ダイニングテーブルの向かいには、芽衣が座っている。
彼女の顔には、深い疲労と、そして拭いきれない後悔の色がこびりついていた。
「……本当に、良かったの?」
芽衣が、冷めたコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ポツリと呟いた。
「何がですか?」
「あのおばあちゃんの依頼よ。百万円もらったとはいえ……あんた、最初の三日間、本当に死にそうな顔してたのよ。私が無理にでも止めるべきだった。あのままあんたが死んでたら、私……」
芽衣は言葉を詰まらせ、俯いた。
彼女は湊の命を守るマネージャーだ。依頼を厳選し、湊を五万円の使い捨てから救い出したのは彼女自身である。だからこそ、自分の判断で湊をあそこまでの極限状態に追い込んでしまったことが、彼女の胸に重くのしかかっていた。
湊は、麦茶の入ったグラスをテーブルに置き、静かに首を横に振った。
「止めていたら、僕は後悔していたと思います。それに……今回の特急依頼は、僕にとってすごく大きな『学び』になったんです」
「学び? あんた、あんな地獄の最中に、また変な実験でもしてたの?」
芽衣が怪訝そうに顔を上げると、湊は少しだけ笑みを浮かべた。
「実験というか、気づいたんです。痛みの『質』が変わる瞬間を」
「質が変わる?」
「はい。最初の一週間、全身の骨が砕けるような痛みは、確かにこれまでの比じゃなかった。でも、四日目……おばあちゃんが亡くなって、息子さんが『後悔はない』って言ってくれたと聞いた直後から、僕の痛みが、フッと軽くなったんですよ」
湊は、自分の胸のあたりをそっと手で押さえた。
「物理的な痛みが消えたわけじゃないんです。でも、『得体の知れない恐怖』が消えた。……人は、痛いから苦しいんじゃなくて、『この痛みがどこまで続くのか』『この痛みは自分を殺すんじゃないか』っていう【恐怖】があるから、苦しいんだと分かりました」
湊の言葉に、芽衣はハッとして目を見開いた。
「おばあちゃんが残した『無念』や、息子さんが抱えていた『後悔』……そういう精神的なエネルギーが、僕の脳に『恐怖』として作用していた。でも、彼らの心が救済された瞬間、その恐怖の供給源が断たれた。だから、純粋な肉体の痛みだけが残った。……恐怖がなければ、人間は痛みに耐えられるんです」
それは、ただの精神論ではない。湊が自身の命を懸けた百六十八時間の中で掴み取った、心身一如の真理だった。
「だから芽衣さん、気に病むことはありません。あの百万円の依頼は、僕にとって必要な試練でした」
湊の真っ直ぐな瞳を見て、芽衣はようやく、こわばっていた肩の力を抜いた。
「……あんた、本当に図太くなったわね。五万円で泣いてたあの弱虫は、もうどこにもいないみたい」
「芽衣さんが、叩き直してくれたおかげですよ」
二人の間に、静かで温かい空気が流れる。
しかし、その平穏な「三週間の自由」を切り裂くように、芽衣のスマートフォンが不吉な振動を始めた。
*
「……どういうことですか?」
電話を切った芽衣の顔色は、先ほどまでの安堵から一転して、蒼白になっていた。
「湊くん……厄介なことになったわ」
「……また、特急依頼ですか?」
湊が尋ねると、芽衣は首を横に振った。
「違うわ。あんたが特急依頼の代償を受けてる間と、その後の休息期間は、依頼用の携帯は電源を切ってるもの」
「じゃあ、一体誰から……」
「……佐々木さんからよ。あのフリーライター、ついに佐々木さんのところまで直接接触してきたらしいわ。それも、ただの聞き込みじゃない。『あなたの娘さんの結婚式に、高額な報酬で怪しい祈祷師を呼びましたね? その人物の連絡先を教えなければ、週刊誌に娘さんの顔写真入りで記事にする』って、脅しをかけてきたって」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
五十万円、百万円という大金が動く以上、誰の目にも留まらないわけがないとは覚悟していた。だが、まさか自分ではなく、過去の依頼人を脅迫のダシに使うとは。
「佐々木さんは、今はシラを切ってくれてるけど……時間の問題よ。あの男、相当しつこいみたい。おそらく、あんたが『無免許の医療行為』と『詐欺』で荒稼ぎしていると確信してる」
芽衣は、テーブルの上のノートパソコンを開き、慌ただしくキーボードを叩き始めた。
「どうするんですか?」
「とりあえず、今のマンションは引き払って。しばらくは別の場所に……」
「逃げるんですか」
湊の静かな声に、芽衣の手が止まった。
「……当たり前でしょ。あんた、自分がどういう立場か分かってるの? あんたの力は科学じゃ証明できない。警察やマスコミに目をつけられたら、『弱者から金を巻き上げる詐欺師』として社会的に抹殺されるのよ。そうなったら、もう誰のことも救えなくなる!」
芽衣の言う通りだ。
どんなに純粋な意志で「二十四時間の奇跡」を与えようとも、世間から見れば、それはただの怪しいカルトや詐欺でしかない。
だが、湊は逃げたくなかった。
ここで逃げれば、せっかく芽衣が守ってくれた「五十万円の価値」も、あの夫婦が海で流した涙も、佐々木が娘と歩いたバージンロードも。全てが「詐欺師の悪事」として汚されてしまう。
それは、湊にとって、何よりも耐え難いことだった。
「……芽衣さん。逃げるんじゃなくて、会いましょう」
「はあ!?」
「そのライターに。直接会って、話をします」
湊の言葉に、芽衣は信じられないものを見るような目を向けた。
「馬鹿言わないで! 相手はスキャンダルを狙ってるハイエナよ。話なんか通じるわけないじゃない!」
「でも、このままじゃ佐々木さんや、他の依頼人たちにまで迷惑がかかる。それに……」
湊は、テーブルに置かれた自分の右手を見つめた。
「僕はもう、自分のやっていることを恥じていません。もし彼が僕を詐欺師だと呼ぶなら、僕のこの目で、僕のやっていることの『重さ』を、彼に証明するしかない」
それは、かつて他人の言い訳のために自分を切り売りしていた男の顔ではなかった。
恐怖の正体を知り、痛みを乗り越え、自分の命の価値を自ら定めた、一人の「治療者」としての決意だった。




