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第10章:百万の覚悟と代償の真理


 深夜の救命救急センター前は、重苦しい静寂に包まれていた。

 無機質な電子音が微かに漏れ聞こえる廊下のベンチで、初老の男性が顔を覆って泣き崩れていた。佐々木の友人だ。その横には、車椅子に乗った佐々木自身も、悲痛な面持ちで寄り添っている。

 湊と芽衣が到着すると、佐々木はハッとして顔を上げ、友人の背中を叩いた。友人は弾かれたように立ち上がり、湊の足元に崩れ落ちた。

「先生……! どうか、どうか母を……!」

「落ち着いてください。まずは状況を」

 芽衣が男性の肩を抱き起こす間、湊はICUのガラス越しに、無数の管に繋がれた小さな老女の姿を確認した。

 全身の多発性骨折、内臓の損傷。九十歳という年齢を考えれば、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だった。

「……ひどい状態ですね。僕の力は彼女を『治す』わけではありません。二十四時間だけ、事故に遭う前の状態に戻すだけです。それが終われば、彼女は再びこの状態に戻り……おそらく、そのまま」

 湊は、言葉を選ぶように慎重に告げた。

 百万円。それは、この男性が母親と「最期の言葉」を交わすためだけに支払う、狂気とも言える金額だ。

「分かっています。……でも、このままじゃ嫌なんです」

 男性は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「母はずっと私を一人で育ててくれました。私は親不孝ばかりで……今日だって、些細なことで口論になって、母が一人で買い物に出たところで事故に。……このまま母が死んでしまったら、私は一生、自分を許せない。だから……一日だけでいい。母に謝らせてください。百万円でも、いくらでも払いますから……!」

 湊は静かに頷き、芽衣の方を見た。芽衣もまた、覚悟を決めたように一つ頷きを返した。

「……分かりました。引き受けます」

 湊は、特別面会許可を得てICUの中へと足を踏み入れた。

 ベッドの横に立ち、血の気が引き、包帯に覆われた老女の額に手を伸ばす。

 湊の心臓が、警鐘のように激しく鳴り始めた。

 今回は、ただの病気ではない。物理的な破壊だ。しかも、前回の老ピアニストのリウマチから回復して、まだ一週間しか経っていない。

 代償の期間は、どんな病気や怪我であろうと「百六十八時間(一週間)」と決まっている。期間が延びないということは、つまり、九十歳の老女の身体を破壊した運動エネルギーと痛みの全てが、一週間に極限まで「濃縮」されて湊の身体を襲うということだ。

 (……気の流れを、意識しろ)

 湊は目を閉じ、丹田たんでんに深く息を吸い込んだ。

 東洋医学の独学で得た知識を総動員する。

 流れ込んでくるエネルギーを、無防備に全身で受け止めるな。経絡けいらくの太いルートをイメージし、そこへ外傷の痛みを一極集中させる。全身の臓器にダメージが及ぶのを防ぐための、防波堤を作るんだ。

 ドクン。

 能力の弁を開放した瞬間。

「……っぐああぁっ!」

 湊は、声にならない絶叫を上げ、その場に膝から崩れ落ちそうになった。

 車に撥ねられたような衝撃が、湊の全身の骨を軋ませ、内臓を破裂させるかのような圧力をかけてきた。

 血の味が口の中に広がる。視界が真っ赤に染まり、意識が千切れそうになる。

 ダメだ。防波堤が、持たない。

 病気とは違う、物理的な『破壊』の情報の奔流が、湊の身体をズタズタに引き裂きながら暴れ回る。

 だが、その暴走の向こう側で。

 ベッド上のモニターが、劇的な変化を告げるアラームを鳴らした。

 不規則だった心拍が力強いリズムを取り戻し、酸素飽和度が急上昇していく。

 老女が、繋がれていた管を煩わしそうに手で払い退け、ゆっくりと、しかし確実に、その目を開けた。

「……母さん?」

 息子の震える声が、ICUの静寂を破った。

「おや……私、どうしてこんなところに……」

 老女は不思議そうに周囲を見渡し、泣き崩れる息子を見て、優しくその頭を撫でた。

「泣かないでおくれ。お前は昔から、すぐに泣くんだから」

 奇跡は、起きた。

 二十四時間の、百万円の砂時計が、今、ひっくり返された。

 *

 「湊くん! しっかりして!」

 病院の裏口。

 湊は、芽衣に抱き抱えられるようにして非常階段を降り、そのままアスファルトにへたり込んだ。

 湊は、痙攣する手でアスファルトを掻き毟りながら、喘ぐように言った。

「気の制御……外傷のエネルギーが、デカすぎて……」

「喋らないで! すぐに車に乗せるから!」

 芽衣は顔面蒼白になりながら、湊の身体を車の後部座席に押し込んだ。

 湊の身体は、まるで沸騰したお湯のように熱く、ガタガタと激しく震えている。

 期間は百六十八時間と決まっている。だが、その一秒一秒に凝縮された苦痛の密度は、これまでの比ではなかった。

 アパートに運び込まれた湊は、その夜から、まさに地獄の底を這いずり回ることになった。

 熱は四十度を優に超え、解熱剤は全く効かない。全身の骨が粉々に砕け散るような激痛が、絶え間なく襲いかかってくる。

「……あ、ああ……痛い、痛いっ……!」

 湊はシーツを噛みちぎらんばかりに食いしばり、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 芽衣は付きっきりで氷水でタオルを冷やし、湊の身体を拭き続けたが、その熱は一向に下がる気配を見せない。

「湊くん、お願いだから死なないで……! あんた、ここで終わる人間じゃないでしょ!」

 芽衣の悲痛な声も、湊の意識の底までは届いていなかった。

 

 百万円の重み。

 それは、湊の命の限界を試す、残酷な天秤だった。

 

 湊はただ痛みに耐え、気絶するように眠り、また痛みで起き上がるというのを一週間続けた。

 その過酷な一週間のさなかである、四日目の夜のことだった。

 老女が、約束の二十四時間を終え、再び深い昏睡状態に戻り、息子に見守られながら静かに息を引き取ったという知らせが、芽衣の携帯に入った。

『……最期に、母といろんな話をしました。謝ることもできました。母は、私の作った味噌汁を美味しいと言ってくれました。……湊先生に、心から感謝しますと、お伝えください』

 佐々木の友人からの電話越しの声は、泣き腫らしてはいたものの、どこか憑き物が落ちたような、静かな響きを持っていた。

 百万円で買った二十四時間は、確実に彼の魂を救済したのだ。

 その知らせを聞いた直後。

 湊の身体の痙攣が、わずかに和らいだ。

「湊くん?」

 芽衣が恐る恐る覗き込むと、湊の呼吸が、嘘のように静かな寝息へと変わっていた。

 熱はまだ高い。痛みも完全には消えていない。

 だが、湊の表情からは、先ほどまでの「死の恐怖」が薄れ、深い安堵の色が浮かんでいた。

 (……そうか。僕が背負っていたのは、彼女の痛みだけじゃなかったんだ)

 湊は、混濁する意識の中で悟った。

 老女が亡くなり、息子が後悔を精算してこの世に未練を残すことなく見送ったことで、湊に流れ込んでいた「生への執着や無念」の供給源が断たれたのだ。

 心身一如。

 患者と、そして残される家族の魂が救済されることが、結果として、僕の代償を軽くする最大の「特効薬」になる。

 湊は、重い瞼の裏で、これまでになくはっきりと「人間の身体と心の繋がり」の真理を見た気がした。

 代償は、ルール通り、きっかり百六十八時間で終わった。

 しかし、その一週間に凝縮された地獄の密度と、その暗闇の果てに湊が見つけた光は、東洋医学の本の何処にも書かれていない、彼自身の命を賭けた最大の「学び」の成果だった。

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