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第1章:浪費される命

僕の身体は、誰かのための「痛み」を肩代わりする器だ。

仕組みは単純で、残酷だった。


重病や怪我に苦しむ人間に僕が触れると、その瞬間に相手の苦痛と病状は霧散する。相手はそこから二十四時間だけ、医学的な限界を超えた「完全なる健康」を謳歌することができる。たとえ死の間際にあっても、スキップができるほどに。


 だが、その「病」や「苦痛」は消えてなくなるわけではない。


奇跡の24時間を与える代わりに僕の身体は1週間高熱や痛みの症状に見舞われる。


一日の奇跡を貸し出し、一週間の地獄を支払う。


それが僕の能力であり、僕の人生そのものだった。


 きっかり百六十八時間。

 それが、僕が起こした奇跡の代償だ。


 みなとは、自分の汗でじっとりと湿った布団の中で、震える手を使って枕元のスマートフォンを手に取った。

 画面に表示されたタイマーが、ゼロを刻む。

 

 その瞬間、肺を焼いていた熱が霧散し、鉛のように重かった手足に血が巡り始めた。視界を覆っていた泥のような濁りが晴れ、天井の染みがただの汚れに戻る。

 ——戻った。

 一週間の地獄が、終わったのだ。

 

 しかし、湊に安堵の時間は与えられない。

健康を取り戻した瞬間に、彼が恐れていた——あるいはどこかで期待していた——あの「音」が鳴り響く。

 

 ピロリン。

 

 ポケットの中のスマートフォンが、無機質な通知音を上げた。

 それは、次の「死神」からの呼び出しだった。

 *

 振り返れば、この一ヶ月、湊の人生はこの繰り返したった。

 二週間前。

 不動産会社を経営する田中という男から依頼を受けた。

 彼は美食と美酒に溺れた結果、重度の痛風を患っていた。「風が吹くだけで痛む」と言われるその激痛で歩くことすらままならないはずの田中は、湊の顔を見るなり、脂汗を流しながら怒鳴った。


「いいか、今日はどうしても外せない接待ゴルフなんだ! この足を今すぐ、何事もなかったかのようにしろ! 五万でいいな!」

 湊が田中の膨れ上がった足首にそっと手を置く。

 能力を通じた瞬間、田中の顔から苦悶が消えた。彼は信じられないものを見るように自分の足を見つめ、立ち上がり、その場で足踏みをしてみせた。

「おお、軽い! 痛みが全然ないぞ! ガハハ、これなら十八ホール余裕だ!」

 男が歓喜に沸く一方で、湊の背筋には、その瞬間から得体の知れない「悪寒」が走り始めていた。

 夏の盛りだというのに、指先が氷に触れたように冷たくなっていく。男がゴルフ場行きのハイヤーに乗り込み、高級な革靴を軽快に鳴らして去っていくのを見送りながら、湊の震えは止まらなくなった。

 

 これが始まりだ。

 最初は小さな震えだったものが、数時間をかけて徐々に、確実に、どす黒い熱へと変わっていく。

 男がステーキを頬張り、シャンパンを飲み干して「完全回復」を謳歌している裏で、湊の身体には、男が本来味わうべきだった贅沢の代償が、じわりじわりと、毒のように染み込んでいく。二十四時間が経過し、魔法が解けた男が再び激痛にのたうち回る頃、湊の身体の中では、その痛みを一週間分に濃縮した爆発が起きていた。

 

 そこから、一週間、つまり百六十八時間後

 ようやく熱が下がり、コンビニでゼリー飲料を買って店を出た瞬間に、次の電話が鳴った。

 

 次は、見栄っ張りの老女・神崎だった。

「同窓会で皆を驚かせたいの。この曲がった背中を、一日だけでいいから直して」

 彼女の肩に触れた瞬間、湊の喉は焼けつくように乾き始めた。

 彼女が優雅にヒールを鳴らしてパーティー会場へ消えていくのと引き換えに、湊は家路に着く電車の中で、耐え難い倦怠感に襲われ、吊り革を握る力すら失っていった。

 また、一週間の地獄が始まった。

 五万円。

 それが一回の報酬だ。

 一週間寝込み、回復した瞬間に次の依頼へ向かう。

 今月、湊が「健康な人間」として外を歩いた時間は、合計しても一日にも満たないだろう。

 僕の人生は、家賃と生活費を稼ぐために、週に一度だけ再起動する壊れかけの機械だ。

 *

 そして二度目の回復。

 シャワーを浴びて鏡を見た。やつれた頬、落ち窪んだ目。

 だが、そのわずかな「健康な数分間」を、またしても「助けてください」という呪いの言葉が奪い去った。

 

 依頼人は、受験生の母親だった。

 高級マンションの一室で、インフルエンザに倒れた少年がいた。

「明日さえ、明日さえ動ければいいんです。あの子の三年間が、五万円で救えるなら安いものですわ」

 湊は、少年の寝室へと通された。加湿器の蒸気が白く立ち込め、室内には特有の熱っぽい匂いと、母親が焚いたのであろうアロマの香りが混ざり合って、息苦しいほどの空間だった。


 ベッドに横たわる少年は、浅い呼吸を繰り返し、四十度近い熱に浮かされて譫言うわごとを漏らしていた。湊はその横に座り、少年の額に静かに手を置く。

 

 熱い。掌を通じて、少年の命を燃やしている熱が、直接僕の中へと流れ込んでくる。

 湊が奥歯を噛み締め、能力の弁を開放すると、ドロリとした重い感覚が、少年の毛穴から湊の皮膚へと、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように移動を開始した。

 

 一秒、二秒。

 少年の荒かった呼吸が、急激に静まり、規則正しい寝息へと変わる。真っ赤だった顔色から毒々しい赤みが引き、みるみるうちに健康的な、少年らしい青白さを取り戻していった。

 

「……っ!?」

 

 それまで死んだように眠っていた少年が、唐突にそのまぶたを跳ね上げた。

 彼は驚いたように大きく目を見開き、自分の両手を見つめ、信じられないといった様子で勢いよく上半身を跳ね飛ばすようにして起き上がった。

 

「母さん、嘘だろ……。さっきまでの地獄が、消えた」

 

 少年はパジャマの胸元を握りしめ、自身の身体を確認するように何度も深呼吸をした。

「熱も、喉の痛みも、関節のダルさも……何もない。嘘みたいだ。……すごい、体が、羽が生えたみたいに軽いんだ!」

 

 ベッドから飛び降り、足踏みをして見せる息子。その姿に母親は歓喜の声を上げ、湊に新券の五万円を押し付けた。

「ありがとうございます! これで、あの子の努力が報われます!」

 

 湊は、返事をする余裕もなかった。少年の驚きと喜びの声を背中で聞きながら、マンションの廊下に出た瞬間に、全身が燃え上がるような熱に包まれた。頭の中には鋭い偏頭痛が走り始めている。

 三度目の、一週間の始まり。

 

 帰り道の電車の中。湊は既に、座席に座っていることすら困難なほどの倦怠感に襲われていた。

 身体が、内側から溶けていく。

 這うようにしてアパートへ帰った。

 

 それから、またしても一週間。

 湊は布団の中で、悶え苦しんだ。

 

 そして今日。百六十八時間目のタイムリミットが来た。

 熱が引き、呼吸が整い、ようやく「人間」に戻ったその時。

 スマートフォンが、怒りに狂ったように震え出した。

『あんた! どういうことよ!』

 

 受験生の母親だった。

 

『息子が、落ちたじゃない! 二次募集を探さなきゃいけないのよ! どうしてくれるの! あんた、完璧に治したって言ったじゃない! 五万円も払わせといて、これじゃ詐欺よ!』

 

 湊は、ようやく自由になったばかりの喉を振り絞って答えた。

「そんな……はずは……能力は、二十四時間は、確実に……」

『言い訳しないで! あの子、試験会場で全然集中できなかったって! 体調が万全じゃなかったせいだ、あんたのやり方が悪かったから人生が狂ったって泣いてるわ! ああ、もう! 五万円返しなさいよ! 訴えてやるから!』

 

 ガチャン、という暴力的な切断音。

 

 少年が落ちたのは、能力のせいではない。

 試験がダメだったのは、単に彼が勉強不足だったせいで、それを「体調」せいにしただけだ。

 

 だが、その母親にとって、湊は格好の「犯人」だった。

 

 自分の命を削り、一週間の地獄を耐え抜き、ようやく手に入れた「自由な数分間」で受け取ったのは、罵倒と返金の要求。

 

 ああ。

 湊は、冷たい床の上に突っ伏したまま、空っぽの天井を見つめた。

 

 一週間の命。

 それを、僕は自分から差し出している。

 誰も僕を助けてくれない。誰も僕の痛みを分かってはくれない。

 僕はただ、誰かの身勝手な欲望を叶え、誰かの失敗の言い訳を作るための、使い捨てられるだけの部品だ。

 

 また、通知が鳴るだろうか。

 また、誰かの身勝手な「五万円」が、僕の次の一週間を奪いに来るのだろうか。

 

 その時だった。

 

 ドンドンドンドンドンドンドン!

 

 玄関のドアを、壊さんばかりに叩く音がした。

 

 あの母親が本当に怒鳴り込んできたのか。それとも、新しい「使い捨て」の依頼か。

 絶望の淵に沈みきった湊の耳に届いたその音は、これまでの冷酷な世界とは明らかに違う、異質な熱を帯びていた。

 

 それが、湊の「命の値段」を書き換えることになる、救世主の足音であることに、彼はまだ気づいていなかった。

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