34 幻よ、手を伸ばしても消えるのみ。ないものを得ようとしても得られまい。実家である侯爵家からも「婚約破棄された娘など、わが家の恥だ!」と冷たく告げられた
婚約破棄
幻よ、手を伸ばしても消えるのみ。ないものを得ようとしても得られまい。
「はあ……やっぱりこうなるのね」
王城の冷たい石畳にアプルは一人佇んでいた。
婚約者である第一王子から突きつけられたのは、一方的な婚約破棄の言葉。
「君のような無能な女に、王妃の務めなど到底果たせない!」
声高に言い放たれた彼の顔は信じられないほど冷酷だった。驚きよりも納得に近い感情を抱いていた。
だって、国の公務はほとんど彼女一人で回していたのだから。王子はといえば夜会で浮かれた話ばかり。
いずれこの国は傾くだろうと薄々感じていたのだ。追い打ちをかけるように実家である侯爵家からも「婚約破棄された娘など、わが家の恥だ!」と、冷たく告げられた。
行く当てもなく王城を追い出され、薄暗い道をアプルは一人あてもなく歩き出す。
(まったく、どこまでツイてないんだか……)
現代日本の記憶を持つアプルにとって、貴族社会の理不尽さは今更驚くことではなかった。けれど、実際に自分がその渦中に放り込まれるとやはり堪えるものがある。
そんな時、一台の立派な馬車がアプルの傍らで止まった。
「お困りのご様子。もしよろしければお乗せしましょうか?」
馬車から降りてきたのは、見慣れない顔の青年。整った顔立ちに知的な眼差し。どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。
「あなたは……?」
警戒しながら問いかけるアプルに青年は優雅に微笑む。
「わたしはエルネストと申します。はるばる隣国から参りました、ジール王子の側近です」
ジール王子……確か、この国から二つ隣の国の王子だったか。公務で何度か顔を合わせたことがある。聡明で物腰の柔らかな王子だったと記憶している。
「もし行き先がないのでしたら、わが国までご一緒しませんか?王子も、きっと貴女にお会いしたがるでしょう」
エルネストの言葉にアプルは一瞬躊躇した。見知らぬ国へ行くのは不安がないと言えば嘘になる。このままここにいても待っているのは絶望だけ。
「……お世話になります」
意を決して、アプルは馬車に乗り込んだ。馬車の中、エルネストは穏やかな口調で様々な話をしてくれた。隣国の文化、風習、ジール王子の人となり。
話しているうちにアプルの心は少しずつ安らいでいった。
数日後。二人が辿り着いたのは豊かな緑と美しい街並みが広がる国。ジール王子は予想以上に温かく、アプルを迎え入れてくれた。エルネストの言葉通り、アプルに興味を持ったらしい。
「アプル様。あなたの聡明さと、困難にも立ち向かう強い意志に心惹かれました」
出会って間もないにも関わらず、ジール王子は率直に想いを告げてきた。現代の感覚からすると少し早すぎる展開に戸惑いを覚えるアプル。
真剣な眼差しはこの気持ちを揺さぶった。
(この人は……本気だ)
そう感じ始めた頃、アプルはふとある考えが頭をよぎった。
(そういえば、あの王子や家族は私が本当に無能だと思っていた……)
そこでアプルは初めて明かすことにした。
「実は……わたしが今まで皆さまの前に現れていたのは、魔法で作り出した幻影なのです」
驚愕に目を見開くジール王子とエルネスト。
「本当のわたしはずっと影から、この国を見ていました。公務を滞りなく行っていたのも、全てこの幻影がこなしていたのです」
アプルは自分が現代の記憶を持っていたこと。知識とこの世界で身につけた魔法を使って、密かに国の運営を支えてきたことを語った。
「婚約者殿下はわたしの幻影を見て、無能だと判断したのでしょう。家族も幻影しか見ていなかった。真のわたしはずっとこの国のために力を尽くしてきたのです」
静かに語るアプルの言葉にジール王子は深く頷いた。
「なるほど……だから、あなたはあのような状況でも、どこか達観されていたのですね」
彼は真剣な眼差しでアプルを見つめた。
「アプル様。幻影だとしても、あなたは私の心を惹きつけました。真のあなたを知った今、その想いは本物。私の隣で国を共に治めていただけませんか?」
ジール王子の言葉にほかほかしたものが胸に広がっていくのを感じる。初めて自分の存在そのものを認められた気がした。
「……喜んで」
アプルは、微笑んで答えた。幻影でない本物を。




