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番外編:神の背中、男の矜持 ―アトランティス号生存者の手記より―

これは、アトランティス号沈没事故から生還した一人の男が、最期まで公表を拒み、その死後に遺品の中から発見された古い手記の写しである。

 あの日、僕たちは神の不在を確信した。 1912年4月15日。豪華客船アトランティス号の船首が垂直に立ち上がり、漆黒の海へと飲み込まれていく光景を、僕はボートデッキの端で震えながら見ていた。


「もう……乗船できないのか」


 僕を含めたおよそ百二十名は、最後のボートを見送るしかなかった。絶望とは、冷たい海水の匂いがするものだと初めて知った。だが、その時だ。背後から、人間が発するとは思えない「熱波」が僕の背中を叩いた。


「神を呼ぶ前に、俺の三頭筋を呼べッ!! 俺の辞書に『見捨てられた過負荷ウェイト』という言葉など存在せんッ!!」


 振り返ると、そこにいたのは「怪物」だった。 事故が起きる数時間前、メインダイニングで、食事中にタキシードを粉々に爆散させ、給仕長を絶句させていたあの異様な巨漢だ。 彼は既に一切の衣服をかなぐり捨て、漆黒のトランクス一丁という姿でそこに立っていた。


 折れ曲がった船体から噴き出す火柱が、漆黒の海を不気味に照らしていた。彼の剥き出しの肉体が、氷点下の冷気と触れ、全身から白い蒸気を噴き上げている。火傷しそうなほどの熱を帯びたその湯気が、背後の爆炎を反射し、まるで揺らめく黄金の翼か、神の後光オーラのように彼を包み込んでいた。


「全員ッ!! 俺の広背筋はねにしがみつけッ!! 皮膚を突き破るつもりで、死に物狂いで掴まっていろォォォッ!!!」


 彼の怒号は、船の爆発音すら圧した。僕たちは何かに弾かれるように、彼の巨大な背中に、丸太のような腕に、岩壁のような脚に、文字通り鈴なりになって縋り付いた。


 次の瞬間、世界が浮いた。 数トンの人間を背負ったまま、彼は傾斜した甲板を蹴った。耳を打つのは風の音ではなく、彼の筋肉が弾ける爆音。僕たちは夜空を飛び、およそ百メートル先にある孤独な氷山の上へと着地していた。


 だが、そこは死の氷の上だ。救助を待つ数時間で、僕たちは凍死する。そう確信した僕たちの前で、魁巌は氷山の中央に立ち、異様なポーズを固持した。


「俺を囲めッ!! 筋肉の熱を、細胞のひとつひとつに刻み込めッ!!!」


 それは、真の意味での奇跡だった。彼が全身の筋肉に真の「点火ボイル」を施した瞬間、先ほどまでとは比較にならない、猛烈な熱気が噴き出したのだ。その肉体温度は、一気に摂氏二百度を超えた。 立ち上る蒸気が僕たちを包む。凍えていた指先に感覚が戻り、濡れた服が乾き始める。目の前の男は、一晩中ピクリとも動かなかった。血管が浮き上がり、岩のような筋肉が熱を帯びて赤く発光しているようにさえ見えた。


 救助船が見えた頃、一晩中静止していた「太陽」が動いた。 パキィィィンッ! と、全身から白い結晶が弾け飛ぶ。それは氷などではない。一晩中彼の熱に焼かれ続け、汗が結晶化したミネラルの殻が、筋肉の膨張によって砕け散った衝撃波だった。


「遅いぞ救助隊……。八時間一セット、完遂だッ!!!」


 彼はそう吠えて生存者が無事に救助船へ運ばれるのを見届けると、凹んだ氷山を後にし、パンツ一丁のまま、救助船へと堂々と歩いていった。


 ___________________________________________



 ニューヨークに上陸したあと、僕はこの話を誰にもしなかった。 いや、できなかったのだ。「パンツ一丁の巨漢が、数万トンの船を素手で繋ぎ止め、百二十人を背負って氷山へ飛び、生体ストーブとなって夜を越した」などと話せば、あまりにも荒唐無稽すぎて事故のショックで正気を失ったと憐れまれるのが関の山だったからだ。


 だが、僕の体は、僕の魂は、あの日から別の何かに作り変えられていた。


 僕は陸に戻るとすぐに、それまでのひ弱な文筆家としての道を捨て、消防士を志した。 志願書を出す時、震える僕の背中を、あの日感じた「熱波」が叩いたような気がしたからだ。


 それから数十年。僕は多くの現場で人を助け、多くの勲章を授かった。 そして、いつしか同僚たちから「不死身のベテラン」と呼ばれるようになっていた。 どんなに激しい炎の中でも、僕が立ち止まることはなかったからだ。ある時、若い隊員が僕の鍛え抜かれた肩を見て、感嘆の声を上げたことがあった。


「ベテランの不動の精神は、まるでアルプスの山脈のようですね。どんな嵐にも、決して揺るがない!」


 僕は微笑んで、静かに首を振った。


「いや……山など、まだ脆いものだよ」


 困惑する彼を尻目に、僕はあの日を思い出す。 山も、城も、大聖堂も。世に不動と呼ばれるものは数あれど、あの日、沈みゆく数万トンの鉄の塊と、荒れ狂う極寒の海を「筋肉」だけでねじ伏せた、あの背中以上のものを僕は知らない。


「おじいちゃん、またあの話をしてよ」


 暖炉の前で、孫たちが僕の膝を叩く。 僕は目を閉じ、ゆっくりと語り始める。それはいつしか、僕から始まり、我が一族が未来永劫語り継ぐべき「始まりの神話」となっていく。


「いいかい。本当の強さというのはね、誰かを守るために、自分自身の限界ウェイトを愛せる者のことを言うんだ。……あの日、あの海の上には、太陽よりも熱い男が実在したんだよ……」


 僕が語る言葉は、僕がこの目で見た真実だ。 たとえ公的な歴史レコードには残らなくても、僕の一族の血の中には、あの夜の「熱」が、僕がこの肌で感じた「筋肉の脈動」が、僕の言葉を通じて脈々と息づいていく。


 魁 巌。 あなたが救ったのは、百二十名の命だけじゃない。 あの日から始まった、数え切れないほどの「誰かを守ろうとする意志」のすべてだ。


 今夜もまた、僕はダンベルを握る。 いつかまた、彼に会えたとき。 「少しはマシなバルクになったな」と、笑ってもらうために。


   (手記はここで途切れている。机に向かったまま息を引き取っていた彼の顔は、過酷な現場を生き抜いた消防士とは思えないほど、穏やかな微笑を湛えていたという。その傍らには、長年使い込まれた重いダンベルが、静かに置かれていた。)

最後までお読みいただき、ありがとうございますッ!!

魁巌と言う熱い漢の物語ッ!

良い筋肉をしてるじゃねぇかッ……!と思った方ッ!!

または、まだまだ鍛え方が甘いと思った方などッ!!

是非、評価をお願いしますッ!!!

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