第28話 誤った考え
重厚な木の扉が閉まり、
背後で低い音を響かせた。
その瞬間まであったざわめきが、
ぴたりと消える。
日差しと風、かすかな音が、
部屋の奥の窓から流れ込んでいた。
冒険者ギルド三階――
会長室の中央に立っていた。
華美な装飾は一切なく、
文房具が並ぶだけの質素な部屋。
だが、
机も応接用のソファも低いテーブルも、
派手さはなくとも
上質な品で統一されている。
書物のインクの匂いと、
淡い茶の香りが空気に漂っていた。
背後の気配に神経を尖らせる。
会長は扉を閉めると、
壁際の小卓へ向かい、
静かに茶を淹れ始めた。
「緊張する必要はない。
ここにいるのは私たち二人だけだ。
誰にも聞かれない。
座れ。茶でも飲みながら話そう。」
俺は答えず、
彼女の一挙手一投足を
見逃すまいと目を向ける。
声は穏やか。
だが抑揚がなく、
かえって神経を張り詰めさせた。
ここまで連れて来られた以上、
従うしかない。
俺はソファに腰を下ろす。
ただし半分だけ。
背筋を伸ばし、警戒を解かずに。
彼女は急須と湯呑を小卓に置き、
向かいに座ると、茶を注いだ。
白い湯気が立ちのぼり、
室内には水音だけが響く。
一杯を俺の前に押し出し、顔を上げる。
透き通るような金色の瞳が、
まっすぐに俺を射抜いた。
敵意は感じられない。
だが――好意も見えない。
その瞳の奥にあるものは、いったい……?
呼吸を整え、
張り詰めた神経を
どうにか和らげようとする。
脳裏に繰り返し浮かぶのは――
さっき大広間で彼女が口にした言葉。
「日本人」。
この異世界で……
なぜ、その名を知っている?
この女……
いったい何者だ。
彼女は湯呑を持ち上げる。
動きは優雅で、まるで日常の所作。
俺が視線を外さないことなど
気にも留めず、
瞳は穏やかなままだ。
「見知らぬ者に故郷の名を呼ばれたら……
誰だって身構える。」
眉がわずかに動く。
だが、返答は避けた。
彼女は湯呑を卓に戻し、
両手の指を組んで膝に置く。
声は緩やかで、
ひとつひとつを刻むように。
「――まずは基本からだ。自己紹介を。」
空気が、急に重くなった気がした。
俺はゆっくりと口を開く。
「……俺はユニクス。
Fランク冒険者だ。」
「リュゼルナ冒険者支部、
ギルド会長――ノエラだ。」
その名が落ちた瞬間、
時が止まったように思えた。
俺は表情を動かさず、
ただ彼女を見据える。
次の言葉を待ちながら。
彼女は目を細め、ふっと笑う。
「……この国の支配者は、
誰か知っている?」
そんなこと、
ギルドの図書室で学んでいる。
「議会……十三人の大商人。
彼らの名は――」
言い終える前に、彼女は遮った。
「だからこそ……お前は『異端』だ。」
心臓が一拍、抜け落ちる。
呼吸すら忘れそうになった。
「……どういう意味だ?」
「その顔が答え。
お前は――『私』を知らない。」
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
この女……いったい何を言っている……?
彼女はソファに背を預けた。
声は穏やかだが、
誇りと確信に満ちている。
視線は揺るがず、まっすぐ俺を射抜いた。
「私の名を知る者は、
議会の大商人より多い。
冒険者から村人まで……
子どもですら知っている。」
両手を強く握りしめる。
……何を言っている?
そんなはず……。
思考が追いつく前に、
彼女は胸元のポケットから
一枚のカードを取り出した。
そして、それを卓の上に置いた。
指先が軽く触れる。
淡い蒼光がふわりと広がり、
卓面を照らし出した。
「見せてやる。」
硬直した身体を無理に前へ。
視線を落とす――呼吸が止まった。
――ノエラ【剣聖】。
視界が揺らぎ、目が限界まで見開く。
唇が勝手に開いた。
この天職名……本で読んだ。
戦闘系の上位職は、それぞれ唯一。
彼女は薄く笑みを浮かべ、続ける。
「剣士にひとつしかない上位職だ。
冒険者も、村の子も、
誰もが耳にしている。
議会の大商人の数すら
知らない子どもでさえな。」
……くそ。
俺たちは注意を避けるため、
常に冒険者の雑談を遠ざけてきた。
人付き合いも一切していない。
だが、
その慎重さこそが……完全に仇となった。
「お前たちがリュゼルナに来た時点で、
礼儀正しく、
育ちのいい子どもたちが来た
――そういう報せだ。」
――門番にまで目を光らせているのか。
「冒険者が偽名を使うのは珍しくない。
ギルドも追及しない。
過去を調べるなど、ほぼ不可能。
だが……お前たちは全員、偽名。」
……この世界に溶け込むための偽名が、
間違いだったのか?
「染めた髪と偽名以外、
怪しい行動は一切なし。
それなのに、
礼儀はある、知識もある、策も使う……
常識だけが、
田舎の子どもにも及ばない。」
「私はそう判断した。お前たちは――
この世界の人間じゃない。」
反論の言葉は……出てこない。
彼女は茶を一口含み、静かに卓に戻す。
カン――
小さな音が、刃のように空気を裂いた。
「お前の隊名、七輪。
それで確信した。
お前は――日本人だ。」
また、息が止まる。
なぜだ……?
七輪の意味まで、知っているのか。
……沈黙する。次を待つ。
「ギルドからの支援、
そしてレオの厚意……
それでわかるはずだ。
私は敵意はない。
話がしたいだけだ。」
彼女はわずかに身を乗り出し、
声に一片の厳しさを帯びた。
沈黙ののち、ようやく口を開く。
「……わかった。」
ゆっくりと息を吐き、かすれた声で。
「……そうだ。
俺……いや、俺たちは……日本人だ。」
※ ※ ※
すべてを吐き出した。
召喚に巻き込まれた経緯。
偽名を使った理由。
これまで直面してきた困難。
会長はただ黙って聞いていた。
膝の上で手を組み、口を挟むことなく、
時折小さくうなずくだけ。
言い終えた頃には、
喉は焼けつくように乾き、
手を伸ばす力すら残っていなかった。
彼女は小さく息を吐き、
柔らかな声を落とす。
不安を撫でるような響きで。
「召喚……それは歴史上、ただの伝説。
誰も見たことがない。
その伝説が目の前に現れるなんて……」
その言葉に、思わず問い返す。
「じゃあ……
さっき言った『日本人』って……!」
「お前の仲間ではない。
彼はお前たちより、ずっと年上。
心配はいらない。
彼の正体を知る者は、
この世界で私だけだ。」
彼女は身を傾け、かすかに苦笑した。
目元は和らぎ、
どこか切なさを滲ませながら。
「それをお前に伝えた。
――それが、私の誠意だ。」
視線が交わる。
その瞳は澄み切っていて、
嘘を映しているようには見えなかった。
たった一人だけが抱えてきた秘密を、
俺に打ち明けるなんて。
……この人は、信じてもいいのか。
少しの間、黙り込む。
そしてうなずくと、
肩の力がわずかに抜けた。
「――いいだろう。」
彼女は話を本筋へ戻す。
低く、しかし揺るがぬ声で。
一瞬の柔らかさを消し、
再び鋭い眼差しを向けてきた。
「お前の苦しみも、
無力感も理解している。
生産職でありながら、
仲間と合流を急いでいる。
だが……自分には『力』が
ないと思い込んでいる。」
言葉を返せず、俯く。
卓上の茶に視線を落とし、
膝を掴む指先に力がこもる。
「――だから諦めるの?」
胸の奥を突かれ、思わず顔を上げた。
声が乱れる。
「……あんたは強いから
……わからねぇだろ!」
「それは、
お前が勝手に決めつけているだけ。
剣聖だとしても……
私より強い剣を持つ人間はいる。
――それが事実だ。」
自嘲気味の言葉。
だが、俺の思考は混乱した。
「……ありえない。
剣聖より強い剣士なんて……」
問いには答えず、彼女は続ける。
「天職は女神から授かったもの。
だが、それは檻じゃない。
お前はもう剣を握っている。
なのに、なぜ本来の得意を捨てる?」
鋭い瞳。
その言葉は刃のように胸を抉った。
「治癒も魔法も、
最初からできたわけじゃない。
『剣聖』だからといって特別じゃない。
手札は多い方がいい。
なのに、どうして……
『職人』を切り捨てる?」
「……切り捨てる……」
生産。
剣。
治癒。
魔法。
ひとつの天職。
……頭皮がざわつく。
――あの金の髪を持つエルフの少女。
俺の作ったクロスボウを
手にしたときの、あの笑顔。
そうか……。
そうだったのか。
天職は、
女神から与えられた肩書きにすぎない。
だが、
使い方次第で……自分の道は選べる。
自分の手で造り、渡してきたもの。
それを、俺自身には
活かそうとすらしていなかった。
会長の表情が和らぐ。
「……ようやく気づいたようね。」
茶を一口含み、柔らかい声を落とす。
「やりたいことをやれ。
迷ったら、また来ればいい。
私は――お前の仲間だ。」
拳を握りしめる。
胸の奥に熱が広がり、深く頭を垂れた。
「……ありがとう。」
すぐに立ち上がり、扉を押し開ける。
※ ※ ※
廊下は静まり返り、
足音だけが反響する。
押し込めてきた感情が、
一気に噴き上がり、
胸の奥が熱くなり、衝動がせり上がる。
大広間を通りかかると、
アザミのみんなとスピカが集まっていた。
「……あ、ユニクス。」
「ユニクス、そんなに険しい顔をして……
俺たちにできることはないか?」
「ユニク、仲間だろ!
手を貸させてくれ!」
立ち止まる暇はない。
俺は足を緩めず、短く言葉を残す。
「……スイナを頼む。
俺は――やることを見つけた。
スピカ……ありがとう。」
「チサル、朝顔を任せた。」
彼らが何か言いかけた時には、
もう俺は大扉をくぐり抜けていた。
街路の風が頬を打つ。
涼しさとは裏腹に、全身は熱く、
心臓は高鳴り、額には汗が滲む。
早足から、いつの間にか走り出していた。
頭の中で散らばった断片が――
少しずつ、ひとつの形を結んでいく。
剣術。
治癒。
魔法。
天職。
俺の技能――『構築』。
……けれど、
頭の中で響いたのは、コウチクとは違う、
もうひとつの呼び名。
それらが重なり、
青写真が鮮明になっていく。
翠……待ってろ。
必ず答えを見つけ出す。
そして――
……お前に、謝らなきゃ。




