第27話 正しい決断
頬に伝わる柔らかな感触。
雲の上に伏せているようだった。
そのまま沈んでいこうとした瞬間、
頭と四肢に鈍い痛みが走り、
意識が現実へ引き戻される。
「……翠――!」
俺は跳ね起きた。
喉が焼けるほど乾いている。
窓の外には淡い朝日。
半開きの窓から吹き込む風は、
薬草の匂いを混じらせていた。
静かな朝のはずなのに……
胸の内は、重く曇っていた。
ベッドの上で眠る翠。
呼吸は穏やかだが、
まだ目を覚ましていない。
「ユニクス。」
扉の方から、スピカの小さな声。
「……ああ。早いな。
こんな朝から来てくれて……
ありがとな。」
「そんなことないよ。
私たちは仲間なんだから。
……それに、
私も『スイナ』が心配だし。」
その言葉に胸が沈む。
――やはり、気づかれていた。
「あなたも少し休んだら?
ここに二日間も付きっきりで、
ほとんど眠ってないでしょ。
私が見てるから。
彼女が目を覚ましたら、
すぐ呼ぶから。」
彼女は歩み寄り、
食堂から持ってきた小袋を机に置いた。
「いや……離れたくない。」
気づけば、口から言葉が零れていた。
スピカの表情がきゅっと硬くなる。
俺は背筋を伸ばし、
彼女の方へ向き直った。
「スピカ、少し話をしたい。
座ってくれ。」
「……うん。」
彼女はベッド脇に椅子を引き、
膝の上で両手を組む。
俺はベッドの上に伸びた翠の手に、
自分の手を重ねた。
冷え切ったその手には、
わずかな温もりが戻り始めていた。
「……気になってることがあるんだろ?
いい、話してくれ。」
スピカは二拍だけ沈黙し、
決意を宿した瞳で口を開いた。
「あなた……あの日、スイナに叫んだ。
――『翠』って。
偽名を使ってたの? どうして?」
「……俺たちは罪人じゃないし、
疚しいこと。
だけど……
この世界の人間じゃないんだ。」
「この世界の人間じゃない……?
どういうこと?」
俺は、できるだけ声を平静に保つ。
そうして答えた。
スピカは息を呑んだ。
「俺たちは――別の世界から来た。」
俺は一から、隠さず話した。
どこから来たのか、
この世界で何があったのか、
なぜ名前を偽ったのか、
どうして黙っていたのか。
スピカは黙って聞いていた。
何度も口を開きかけながら、
結局最後まで遮らなかった。
そして、
俺たちの本当の名前を明かしたとき、
彼女の耳がほんのり赤くなり……
すぐに押し隠すように俯いた。
「だから……
俺の本当の名は『悠月』。
彼女は『翠』……。
……隠していて、すまなかった。」
「そんなこと……謝ることじゃない。
信じがたい話だけど……私は信じる。」
頭を下げようとした瞬間、
スピカは前に身を乗り出し、
ぎゅっと俺を抱きしめた。
その身体は驚くほど軽いのに。
力は弱いはずなのに、
抱きつく腕だけはしっかりしていた。
触れた瞬間、
彼女の呼吸が早く乱れているのに気づく。
「……あなたたちの旅は、
本当に……大変だったんだよね。
見知らぬ世界、危険だらけで。
命がけで……ここまで来たんだよね?」
俺は答えなかった。
ただ背中の力を抜いて、
彼女の重さを受け入れる。
次の瞬間、肩口がじんわり濡れる。
……泣いてる。
「あなたがどこの世界の誰であっても……
私にとっては、ユニクスだよ。
私の仲間だよ。」
「……ありがとう、スピカ。」
「それから……ありがとう。
私を仲間に入れてくれて、
こんな大事な秘密まで……
打ち明けてくれて。
ずっと…… 苦しかったんでしょう?」
「……ああ。」
言葉が落ちた瞬間、視界が滲んだ。
※ ※ ※
俺たちは治癒室の横の小さな机に移り、
スピカが持ってきたパンと、
温かいスープを分け合った。
彼女は俺の皿をぐいっと押し寄せ、
まるで「もっと食べろ」と、
無言で促してくる。
「あなたたちの世界には、
『天職』がないんだよね。
……自由そうで、羨ましいな。」
「自由は自由だ。
けど、その分、すべて自己責任。
選択を誤れば、
三十を過ぎても道を見失ったまま、
そんな奴も少なくない。」
――女神に導かれる方が、正しいのか?
「こっちは、一度天職が決まれば、
それ以上迷わなくて済む。
……でも、
五歳で一生を決められるなんて、
酷だと思う。」
スピカは木のカップを半回し、
指先で縁をコツコツ叩いた。
「……私も、そうだった。」
俯いたまま数秒沈黙し、
そして顔を上げる。
「でも――あなたは、
女神に決められた道から
私を引っ張り出してくれた。
私を弓使いにしてくれた。
……ありがとう。」
「違う。
お前自身が諦めなかったからだ。
努力して、自分で掴んだんだ。」
スピカは言いかけて、唇を結ぶ。
その背後から、
かすかな呼吸の乱れが聞こえた。
「……悠兄……」
二人同時に振り返る。
翠の指先が、ぴくりと動いた。
俺は即座にその手を包み込み、
掌で温もりを確かめる。
「……翠、起きろ。翠。」
これまで安定していた呼吸が速まり、
胸がせわしなく上下する。
睫毛が震え、やがて瞼がゆっくり開いた。
光を映した瞳がさまよう。
……次の瞬間、俺を捉えた。
押し潰すような重みが、
ようやく消えた。
息が漏れた。
「……よかった……まだ、生きてる……」
翠の手が、
ぎゅっと俺の手を掴んだ。
指が白くなるほど強く。
そのまま固まったように俺を見つめ、
すぐには声が出てこない。
「体にどこか痛みは?」
「……悠兄……」
言葉の途中で、涙が溢れた。
俺は彼女を抱き寄せ、胸に凭れさせる。
「……もう二度と、
会えないと思った……」
「……ああ。」
「よかった……悠兄、無事で……
役に立てた……やっと……」
――「役に立てて」。
胸の奥に何かが引っかかる。
問いただす前に、
脇から切迫した声が入った。
「スピカ!
来てくれてありがとう――あっ……」
翠の顔色が一気に青ざめ、
視線が俺へと移る。
俺は小さく頷き、
安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。
スピカには、もう全部話した。」
「そっか……スピカ、ごめんね。」
頭を下げようとした翠の動きを、
スピカが一歩前に出て遮った。
「違う!
私には分かったよ。
……そうするしかなかったんだ。
危険すぎるから。
ユニクスはユニクス。
スイナはスイナ。
あなたたちは、何も変わらない。」
翠の瞳が潤み、強く頷く。
「……うん!
これからも一緒に、よろしくね。」
短い静寂が降りた。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、
木椅子がかすかに軋む。
俺は視線を落とし、拳を強く握りしめた。
――言わなければならないことがある。
「……もうひとつ、
伝えなきゃいけないことがある。」
二人の視線が同時に突き刺さる。
罪悪感で喉が詰まり、
俺は爪を掌に突き立てて、
ようやく声を絞り出した。
「……俺は、パーティーを解散する。」
※ ※ ※
治癒室の静寂を、翠の声が切り裂いた。
「どうして!?
私たちは、これからなのに!」
「……ユニクス。」
スピカが低く俺を呼ぶ。
俺は深く息を吸い、
ベッドの端に視線を落とす。
「翠は死にかけた。
もう無茶はできない。
俺たちは街に留まって、
働き、金を貯める。
足りるまで――何度でも。
十分に貯まったら、
定期馬車を使い、
護衛を雇って旅をする。
安全に移動して……
陽太たちを探す。」
それが最も正しい道――のはずだった。
「だから、解散だ。
……翠、ごめん。
俺の判断ミスだった。」
「そんなの違う!」
ほとんど叫ぶように、
翠が上体を起こした。
視線が真っ直ぐ俺を射抜く。
思わず逸らした。
「私がみんなを危険にしたんじゃない!
私が守れなかったんじゃない!」
「違う、俺の責任だ。
守れなかったのは俺だ。」
「違うってば!」
翠の声が鋭さを帯びる。
「悠兄は、自分を騙してる!」
「……何のことだ。」
「本当は――陽太兄たちを
早く探したいんでしょう?
でも怖くて、違うことを言ってる!」
「……探したいさ。
けど、俺たちは弱い。
護る力がなければ、死ぬだけだ。」
――だからこそ、守らなきゃいけない。
特に彼女を。
「私は、悠兄を守る!」
思わず声を荒げる。
「ふざけるな!
お前は死にかけたんだ!
ギルドマスターが偶然見つけなきゃ、
今ここにいなかった!
……二度と、そんな危険はさせない!」
たった二匹のオーク。
それだけで翠の命は奪われかけた。
あの恐怖を、もう繰り返せるものか。
翠は唇を噛み、目に炎を宿す。
「どうして全部抱え込むの!?
私だって守りたい!
後ろに置かれるのなんて嫌!」
「黙れ。まだ治ってねぇ。休んでろ。」
翠の指がシーツを握り、震えていた。
俺は背を向け、扉に向かう。
「……悠兄は、何も分かってない。」
掠れた声に、足が止まる。
「子どもの頃から、
全部私に譲ってくれて、
守ってくれた。
……でも、
どうして私には、
同じことをさせてくれないの?」
「お前は大事な妹だ。
守るのは当たり前だ。」
「違う!
叔父さんの“命”を、
無駄にしたくないだけ!」
「分かってるなら――なぜ理解できない!
父さんは命を懸けて、
お前を救ったんだ!
俺は絶対に……失わせない!」
翠は一瞬黙り、
涙を浮かべながら顔を上げた。
「命を救ってくれたのは叔父さん。
でも、心を救ってくれたのは……
悠兄、あなただよ!」
胸が強く締め付けられて……
言葉が出ない。
「どうして全部背負おうとするの?
私も一緒に背負いたいのに。
後ろじゃなく、隣にいたいのに……!」
……隣?
翠が、俺を守る……?
「それ以上言うな。
お前は死んじゃいけない。」
俺は振り返らず、扉に手をかけた。
背後は静まり返り……
スピカが息を呑む気配だけが残った。
※ ※ ※
ギルドの大広間を足早に抜け、
出口へ向かうと――治癒師。
……いや。
ギルドマスターが、立ちはだかっていた。
「……何か御用ですか。」
「冒険者をやめるつもりなの?」
「盗み聞きとは趣味がいいな。」
眉を寄せる。
全部、聞かれていたのか。
頭の中で計算が巡る。
――この街を離れるべきか?
ギルドを避けるか?
拳に力がこもり、
心臓が早鐘のように鳴った。
「私は敵じゃない。何もしない。」
……詐欺師の常套句だな。
「用がないなら、俺は行く。」
「執務室に来なさい。
茶でも飲みながら話そう――日本人。」
足が止まり、顔を上げた。
逆光の中で、彼女は笑みを浮かべていた。
「……っ!」




