《幕間:星野翠──小さな誓い》
うちには、パパがいない。
だから私は、
いつも幼稚園を出るのがいちばん最後。
でも――私はママが大好き。
仕事が終わると迎えに来て、
よくファミレスで夕ごはんを食べた。
あれが本当に嬉しかった。
ある日、交差点で、
ママは少し疲れてるみたいで
信号を見てなかった。
私はママの手を引っぱった。
「ママ、赤だよ」
ママはやっと気づいたように
「うん」と言って、
私の手をぎゅっと握った。
白い線の上を、
一歩ずつ歩いた。
その時、だれかが大きな声で叫んだ。
次の瞬間、まぶしい光。
世界がぜんぶ光になって、
何も見えない。
光が顔にぶつかってくる感じ。
ドンッ――。
耳がジンジンして、
世界がぐるぐる回って、
体がふっと浮いた。
それからドサッと落ちて、
頭の中が真っ白になった。
何が起きたのかぜんぜんわからない。
顔を上げると、ママが倒れていた。
動かない。
「ママ……?」
そばに行こうとしたけど、
体は動かなかった。
だれかが私を抱き上げた。
知らないおじさん。
頭から血を流していて、
こわくて見られなかったけど、
その人は私の手を握ってくれた。
手はあったかいのに、
私の手はぶるぶる震えてた。
泣きそうで、
こわくてたまらないのに、
その人は少し笑った。
「……よかった……まだ、生きてる……」
血がいっぱいでこわかったのに、
声はやさしかった。
そう言って、
その人は目を閉じてしまった。
何もわからなかった。
大声、泣き声、足音、クラクション……
いろんな音がまざって聞こえる。
私はそのおじさんの腕の中で、
涙がぽろぽろこぼれた。
遠くから「ウーウー」って音。
頭がどんどん重くなっていった――。
※ ※ ※
よかった。
ママは死んでなかった。
でも……なにかがおかしかった。
あの日から、
ママはテーブルに座ったまま、
目を赤くして、
涙をぽたぽた落とすことが増えた。
私は横に座って見ていた。
話しかけても、ママは返事をしない。
袖を引っぱっても、ママは泣いている。
小さな声で、でも、ずっと止まらない。
ときどき、
ママは自分の髪をつかんで震えてた。
ときどき、
コップをじっと見つめたまま
動かなかった。
どうすればいいか、
私はわからなかった。
だから、
椅子をママのすぐそばに持ってきて、
ただ座っていた。
声を出すのもこわくて、静かにしてた。
胸がぎゅっとして、苦しくなった。
すぐ隣にいるのに、
ママがすごく遠くに
行ってしまったみたいで。
私はそっと、ママの服の裾を握った。
※ ※ ※
次の夜、ママに手を引かれて、
知らない場所へ行った。
大人がいっぱいいた。
みんなの顔は重たくて、
だれも笑っていない。
小さなささやき声、
押し殺した泣き声。
空気にツンとくるにおいがした。
あのにおいが嫌いだった。
ドアの前で、ママは立ち止まった。
私の手を急に強く握って、
指先が震えてた。
ママは動かない。
目だけ中をじっと見ている。
「ママ……」と呼ぼうとしたら、
ママの体がふっと落ちて、
ドン。
ひざが床についた。
びっくりして、涙が出そうになった。
ママは立ち上がらない。
両手を床につけて、
ゆっくり、ゆっくり、
中へ進んでいく。
私はママの服を放さなかった。
裾をぎゅっとつかんで、後ろに続いた。
胸がドキドキして、
こわくてたまらない。
……ここから逃げたい、そう思った。
いちばん奥までたどり着いた。
長い机があって、上にはたくさんの花。
白くて、光って、雪みたい。
でも匂いはなくて、
煙みたいなにおいが強かった。
顔を上げると、
一枚の写真が置いてあった。
その顔……
見たことがある。
あっ、あのおじさん……。
ママに言おうとしたけど、
ママは頭を床に押しつけた。
ゴンッて音がして、
次の瞬間、
喉の奥から大きな泣き声があふれた。
昨日テーブルで泣いてた時より、
ずっと大きな声。
こわかった。
どうしてママが
こんなふうになるのか、
わからない。
私はママの服をもっと強くつかんで、
手を放せなかった。
涙が勝手に出てきて、
私もいっしょに泣いた。
ママは泣きながら、
何度も何度も言った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
だれに言ってるのか、わからない。
でも、胸がどんどん苦しくなる。
横の椅子には、おばさんと、
私と同じくらいの年の男の子が座ってた。
おばさんは顔を涙でぬらして、
ママと同じように泣いている。
男の子は写真をじっと見ていて、
笑いもしないし、泣きもしない。
静かで、動かない。
私はその子を見てしまった。
どうしてか、その子だけ違って見えた。
男の子がゆっくりこっちを向いた。
目はママに向いた。
その一瞬、私の心がドンって鳴った。
こわかった。
ママはどうなるの?
どうしてそんな目で見るの?
男の子はすぐには話さなかった。
私はママの服をにぎったまま。
とうとう、その子の声が聞こえた。
小さな声で。
「どうして謝るの?謝らなくていいよ。」
空気が止まったみたいになった。
ママが顔を上げた。
目は赤く腫れて、
私の知らない顔をしてた。
口を開いたけど、声は出なかった。
言葉の意味はよくわからなかった。
でも、ママはもっと震えた。
ママはそれを聞いて、
体の力が抜けたみたいになった。
そのまま床に座りこんで、
両手で目をおおった。
泣き声が指のあいだからもれて、
途切れ途切れに聞こえた。
私はどうすればいいかわからない。
ママの肩は大きく震えて、
今にも倒れそう。
このまま消えちゃうん
じゃないかってこわくて、
ぎゅっと抱きついた。
「ママ……!」
呼んでも返事はなくて、
ママは泣き続けている。
どうしてママはずっと泣くの?
胸が痛くて、苦しくて、
ここにいたくなかった。
一秒ごとに、こわくなる。
もしママが本当に倒れたら、
どうすればいいの?
でも、私にはなにもできない。
ぎゅっと抱きしめることしか。
顔をママの肩に押しつけて、
何も見ないようにした。
涙は止まらなくて、喉がつまって、
息もうまくできない。
心の中でずっと思った――
ママ、泣かないで……おうちに帰ろう……
でも声は出なくて、
心の中で何度も何度も叫ぶだけだった。
ママの体はまだ震えて、
泣き声はどんどん大きくなった。
そのたびに、
小さな金づちで
胸を叩かれてるみたいで、
私も壊れそうだった。
その時、
男の子の声がまた聞こえた。
大きくはないけれど、はっきりした声で。
「……パパが言ってた。
間違った時は謝るんだって。」
ママの体がびくっと震えた。
私は顔を上げる。
ママの目にはまだ涙があったけれど、
まっすぐ男の子を見ていた。
私もそっちを見た。
男の子は静かに、
まっすぐママを見ていた。
私はまだママの服を握っていた。
「あなたたちは間違ってない。
どうして謝るの?」
「パパには――
『ありがとう』って言ってほしい。」
ママは少しの間だまった。
私は息をするのも忘れて、
ドクドクと胸の音だけを聞いていた。
ママの肩がまた大きく震えた。
涙があふれて、
顔はもう床にくっつきそう。
「……ありがとう……ありがとう……」
泣きながら、何度も何度もくり返した。
おでこが床にゴツンってぶつかった。
コツン、コツン……
ママはまだひざのままで、
泣き止まない。
声はかすれて、今にも切れそうだった。
私は抱きしめるしかできなかった。
胸は苦しくて、息は浅くなる。
だれか、
この時間を止めてほしいって思った。
その時、男の子がもう一度言った。
大きくないけれど、まっすぐ届く声で。
「もう泣かないで。
ぼくのパパ、
みんながずっと泣いてるの、
きっと好きじゃない。」
「ママが言ってた。
パパは、
あなたたちを助けてくれたって。
ぼくのパパは――
いちばんかっこよくて、
いちばん強い『勇者』だよ。」
「ぼくのパパは、
あなたたちが泣いてるの、
ぜったい好きじゃない。」
空気が静かになった。
自分の胸の音まで
聞こえるくらいに。
私はママを抱いたまま、
涙をこぼしながら、
その言葉を頭の奥に深く刻んだ。
※ ※ ※
そのあとのことは、よく覚えていない。
あの男の子――いや、悠月お兄ちゃん。
それから悠月お兄ちゃんのママ、
小月おばさんが、
私とママを家に呼んでくれた。
「翠ちゃん、いらっしゃい。
ここが、
翠ちゃんのおうちになるんだよ」
その家は大きくて、静かだった。
前に住んでいたところとは、
ぜんぜん違う。
前の家は小さくて、
ごはんも寝るのも同じ場所。
テーブルがひとつ、ベッドがひとつ。
壁は薄くて、
となりの人が大声でけんかするのも、
物を投げる音も聞こえた。
そのたびに、
私はママに抱きついて、
眠れなかった。
小月おばさんは
「翠ちゃんのお部屋も、
ちゃんとあるのよ」
と言った。
私は固まった。
ママと別々に寝るの?
いやだ。
私はママの手をぎゅっと握って、
首を横に振った。
だからけっきょく、
ママと同じ部屋で寝ることになった。
少しずつ、私はこの家に慣れていった。
小月おばさんは、
毎日ごはんを作ってくれた。
朝は熱いみそしる、
夜はおかずがいっぱい。
ママのお弁当まで作って、
中身は色とりどりで、
きれいだった。
ママの顔色は日に日によくなって、
笑顔が少しずつ戻ってきた。
私は本当にうれしかった。
小月おばさんのごはんは、
ファミレスのとはぜんぜんちがう。
口に入れると、心まであったかくなる。
あの時のお弁当やファミレスより、
ずっとおいしい。
安心する味だった。
しばらくして、
小月おばさんはママに
新しい仕事を紹介した。
それから二人は、
朝いっしょに出かけて、
夜いっしょに帰ってくる。
家に帰ると、
ならんで台所に立って、
野菜を切って、鍋に火をかける。
ジュウジュウという音、
いい匂い、笑い声。
ぜんぶがまざって、
家の中はあったかくなった。
私はテーブルに
ほおづえをついて眺めた。
心の中まで、
ゆっくりあったかくなっていく。
あとで知ったけど、
悠月お兄ちゃんは私より
少しだけ早く生まれただけだった。
ママが
「大丈夫、翠は『お兄ちゃん』って
呼んでいいのよ」と言ったから、
私は「悠兄」って呼ぶことにした。
悠兄は、なんでも私にゆずってくれた。
いっしょに遊ぶと、
新しいおもちゃを先に渡してくれる。
プリンを食べる時も、
私が先にえらんでいい。
ジュースのストローも、
先に私のコップにさしてくれる。
はじめは理由がわからなくて、
少し申し訳なくなった。
でも、だんだんわかった。
泣かせたくないから。
こわがらせたくないから。
だから、
私をいちばん先にしてくれるんだ。
その横顔は、とてもやさしかった。
年はあまり変わらないのに、
大人みたいに見えた。
私の中で、悠兄と、
あのおじさんの姿が重なった。
同じやさしさ。
同じかっこよさ。
※ ※ ※
二年が過ぎたころ、
大事なお客さんが来た。
年配の男の人。
小月おばさんと悠兄は、
すぐ玄関へ出て出迎えた。
顔がきゅっとまじめになっていた。
私は角にかくれて、
小さくなって見ていた。
小月おばさんが
その人の前でひざをついた。
びっくりして、心臓がドクドクした。
大人が大人にひざまずくところなんて、
見たことがない。
こわかったけど、目をそらせなかった。
その人の声は低くて、
ゆっくり。
「悠月くん……君のお父さんは、
君にとっても、
うちの会社にとっても、
大事な人だった。
そう……まるで
勇者のような人だったよ。」
そう言って、その人は
箱を差し出した。
「これは君のお父さんが
作ったゲームだ。
君にあげよう。
中には、お父さんの
いちばんかっこいいところが
つまっている」
悠兄は両手で箱を受け取って、
ぎゅっと抱いた。
目は箱にくぎづけで、まばたきもしない。
小月おばさんはおでこを床につけて、
声を震わせた。
「本当に……
ありがとうございます、社長……」
その人は最後に、
悠兄の頭をなでて帰っていった。
私は声が出なかった。
ただ思った。
――悠兄は、本当にすごい。
そして、もうひとつ。
あのおじさんは、
私の命を助けてくれた。
もしあの人がいなかったら、
私はここにいない。
そして悠兄は……
私の心を助けてくれた。
悠兄がいたから、
私は笑えるようになった。
だから、今度は私の番。
私は、悠兄のそばに立つ人になる。
私は、悠兄を守る。
でも、私は知っている。
あの日から、悠兄は、
本当には笑っていない。
私にはやさしくて、
安心させてくれて、
遊んでくれる。
でも、その笑顔には、
いつも何かが欠けていた。
薄い霧みたいなものがあって、
手が届かない。
そのことは、ずっと心に残っている。
※ ※ ※
……おかしい。
悠月お兄ちゃんの声が、
聞こえた気がする。
ちがう――悠兄だ。
「翠……!」
胸の中が急にざわついた。
必死に顔を上げて、彼を探そうとした。
でも、まぶたは重く、体も動かない。
響いているのは、
心臓の「ドンドン」という音だけ。
どんどん速くなる。
意識が少しずつ沈んでいく。
闇が広がり、暗幕のように覆いかぶさる。
最後に残ったのは、彼の声だけ。
頭の中に反響している。
そして、何も聞こえなくなる。




